第十九話:安全な速度
目が覚めたとき、
天井が少し遠く感じた。
起き上がるまでに、
一拍。
体を起こす。
床に足をつける。
その一連の動作が、
どこか“手順”みたいだった。
洗面所。
鏡の中の自分は、
いつもと変わらない。
表情も、声も。
「……おはよう」
小さく言ってみる。
返事はない。
当然だ。
でも――
それでいい。
台所。
恒一はもう起きている。
コーヒーの音。
「おはよう」
彼が言う。
私は、
すぐに返さない。
コップを取る。
水を入れる。
一口飲む。
それから。
「……おはよう」
恒一は、
何も言わない。
それが、
安心だった。
急かされない。
正解を
急いで出さなくていい。
「今日、雨降るみたいだよ」
恒一が言う。
私は、
天気を確認する。
頭の中で。
降る。
降らない。
傘。
洗濯。
少し考えてから。
「……そっか」
それだけ。
十分だ。
それ以上の意見は、
必要とされていない。
出勤。
恒一が先に出る。
私は後。
靴を履くのも、
少し遅れる。
「行ってきます」
恒一。
ドアが閉まる。
私は、
しばらく立ってから言う。
「……行ってらっしゃい」
届かない。
でも、
言った事実は残る。
在宅の仕事。
感情整形オペレーター。
ログ。
評価。
調整。
画面の向こうの人たちは、
明確だ。
「こうしたい」
「これは嫌だ」
「ここを直してほしい」
それに比べて――
自分の感情は曖昧だ。
だから、
速度を落とす。
反応を遅らせる。
その方が、
安全だ。
昼。
通知。
恒一から。
《夜、どうする?》
すぐに返さない。
考える。
外。
家。
疲れ。
どっちでもいい。
どっちでもいい、は
間違いじゃない。
だから。
《任せる》
送信。
胸が、
少し軽くなる。
選ばなかった。
間違えなかった。
夕方。
仕事を終える。
画面を閉じる。
部屋が静かになる。
私はソファに座る。
動かない。
待つ。
待つのは、
楽だ。
決めなくていい。
考えなくていい。
正解は、
後から来る。
夜。
恒一が帰ってくる。
「ただいま」
私は、
一拍置く。
「……おかえり」
恒一は、
それを気にしない。
「外で食べてきた」
私は頷く。
「……そっか」
それで終わる。
何も問題は起きない。
食事。
会話。
風呂。
順番。
全部、
恒一が先に決める。
私は、
追従する。
追従は、
楽だ。
責任がない。
間違えない。
寝る前。
布団。
灯り。
恒一が言う。
「最近、無理してない?」
質問。
私は、
すぐ答えない。
この質問は、
慎重に扱わないといけない。
無理してる、と言えば
心配させる。
してない、と言えば
嘘になる。
だから。
「……大丈夫」
少し遅れて。
恒一は、
それ以上聞かない。
「そっか」
それで終わる。
胸の奥が、
静かになる。
私は学習する。
遅れて返す。
曖昧に答える。
選ばない。
それが、
安全。
それが、
平和。
それが、
愛を壊さない方法。
眠りにつく直前、
ふと考える。
もし、
すぐ答えていたら。
もし、
本音を言っていたら。
何かが変わっていたかもしれない。
でも。
変わらなかった今は、
問題が無い。
問題が無いことが、
一番大事だ。
私は、
そう判断する。
だから今日も、
速度を落とす。
少しずつ。
確実に。
自分が
追いつけなくなる速度へ。
問題は、無かった。




