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第十五話:判断は、生活の速度で行われる


 朝は、いつもと変わらなかった。


 カーテンの隙間から入る白い光。

 境界市特有の、輪郭を薄くする朝だ。


 澪は先に起きていた。

 豆を挽く音が、一定の間隔で続いている。


 その音を聞いた時点で、

 今日は問題が無いと判断した。


 「おはよう」


 「おはよう」


 マグカップは二つ。

 澪は必ず、縁の欠けた方を使う。


 理由は聞いたことがない。

 聞かなくても成立することは多い。


 コーヒーは薄め。

 砂糖は入れない。


 俺は牛乳を足す。

 澪は何も言わない。


 問題は無い。


 「今日は在宅?」


 「うん。午後に一本だけ」


 仕事の内容は聞かなかった。

 感情整形の話は、説明が長くなる。


 長くなる話は、朝には向かない。


 ニュースでは、ナノマシン供給網の調整について流れている。

 澪は画面を見ているようで、見ていない。


 指先が、マグの取っ手をなぞっている。

 無意識の癖だ。


 それでも、問題は無い。


 食器を流しに運ぶと、澪が立ち上がりかけた。


 「俺がやる」


 「……ありがとう」


 一拍の間。

 気にするほどではない。


 洗い物の水温は、少し低め。

 澪はいつも給湯を上げすぎる。


 俺が下げる。


 誰かが調整すれば、それでいい。


 昼前、出かける準備をする。

 靴紐は右だけ緩みやすい。


 「すぐ戻る」


 「いってらっしゃい」


 澪はソファに座り、端末を膝に置いていた。

 姿勢は崩れていない。


 崩れていない限り、問題は無い。


 外は穏やかで、

 交差点の信号は規則正しく切り替わる。


 誰もが守っている。

 それが正常だ。


 一時間後に帰宅する。


 澪は同じソファにいた。

 表示だけが進んでいる。


 滞っていない。


 「早かったね」


 「うん」


 澪は小さく頷く。

 その角度も、いつも通り。


 夕方、簡単な食事を作る。

 澪は香草を避ける。


 俺は入れる。


 取り除けばいい。


 夜、風呂の順番を譲る。

 澪は長く入らない。


 湯冷めしやすい体質だ。


 それも、問題じゃない。


 布団に入る。

 澪は壁側。


 距離は、腕一本分。


 「電気、消すね」


 「うん」


 暗闇で、澪の呼吸が聞こえる。

 一定で、浅い。


 浅いだけで、異常ではない。


 今日一日を振り返ろうとして、

 具体的な出来事が浮かばない。


 だが、生活は確かにあった。


 音があり、癖があり、

 調整があり、判断があった。


 それで十分だ。


 すべては、適切な速度で処理された。


 だから眠れる。


 問題は、無かった。


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