第十四話:善意の形式
恒一は、
自分が悪い人間だと思ったことはない。
特別に善良だとも思っていない。
ただ、
「普通」だと考えている。
朝は起きる。
仕事をする。
澪と食事をする。
眠る。
それだけだ。
その日、
澪は在宅の仕事を終えた後、
珍しく声をかけてきた。
「ねえ、恒一」
「なに?」
端末から視線を離さずに返事をする。
「この前の更新、
本当に大丈夫だったかな」
一瞬、
恒一の指が止まる。
だが、
それは一瞬だった。
「問題無いって言われたんでしょ」
「うん、そうなんだけど……」
澪の声は弱い。
否定を求めているわけでも、
訴えているわけでもない。
ただ、
確認したいだけだ。
恒一は椅子に深く座り直す。
「制度が確認してるんだし。
俺たちが心配することじゃないよ」
その言葉は、
優しさの形をしている。
余計な不安を持たせない。
波風を立てない。
澪のためだ。
「……そうだよね」
澪はそう言って、
それ以上何も言わなかった。
恒一は、
それで話が終わったことに安堵する。
正直なところ、
どう返すのが正解か分からなかった。
自分が責任を負う話ではない。
専門家でもない。
判断は、
もう下っている。
だから、
それを信じる。
それが一番、
誠実な態度だと思っている。
夕食の準備をしながら、
澪は考える。
自分の違和感は、
気のせいなのかもしれない。
恒一がそう言うなら、
きっとそうだ。
彼は、
嘘をつかない人だから。
暴力的な言葉を使わない。
感情的にならない。
常に、
落ち着いている。
その落ち着きが、
澪には安心だった。
安心は、
考えることを減らしてくれる。
考えなくていいなら、
楽だ。
食卓には、
いつも通りの料理が並ぶ。
「いただきます」
二人で声を揃える。
穏やかな時間。
誰が見ても、
問題の無い家庭だ。
食事の途中、
恒一の端末に通知が入る。
「仕事?」
「うん、確認だけ」
内容は、
境界市の観測補助に関する内部連絡。
特記事項なし。
異常値なし。
世界は、
正常に運用されている。
恒一は端末を伏せる。
「変わりないってさ」
「そう」
澪はそれ以上聞かない。
変わりないなら、
話す必要は無い。
食後、
澪はソファに座る。
恒一は隣に来る。
距離は近い。
触れようと思えば触れられる。
だが、
どちらも動かない。
沈黙は、
不快ではない。
この沈黙は、
関係が安定している証拠だと
恒一は思っている。
「無理してない?」
ふと、
恒一が聞く。
それは、
善意だった。
澪の体調を気遣う、
パートナーとしての言葉。
澪は一瞬、
言葉に詰まる。
無理。
しているか、
していないか。
その境界は、
もう分からない。
「してないよ」
澪は微笑んで答える。
その答えを、
恒一は疑わない。
疑う理由が無いからだ。
彼女は、
嘘をつく人ではない。
少なくとも、
そう信じている。
澪は、
自分の答えに安心する。
これでいい。
これ以上、
話を広げなくて済む。
善意は、
そこで完結する。
夜、
恒一は眠りにつく。
澪はしばらく、
天井を見ていた。
恒一の呼吸が、
規則正しくなる。
その音を聞きながら、
澪は思う。
誰も悪くない。
誰も傷つけていない。
だから、
これは問題じゃない。
その考えは、
胸の奥の違和感を
静かに覆っていく。
善意は、
いつも静かだ。
声を荒げない。
形を崩さない。
そして、
疑われない。
だからこそ、
それは
世界に最も馴染んでいる。




