第十三話:誰も困っていないという前提
境界市役所の窓口は、
いつも静かだった。
声を荒げる人はいない。
泣いている人もいない。
整列された椅子、
一定の距離、
均一な照明。
ここでは、
「問題」は発生しない。
澪は番号札を握りしめ、
呼ばれるのを待っていた。
健康更新手続き。
年に一度の形式的なもの。
身体・精神状態の
簡易確認。
恒一は隣に座っている。
「すぐ終わるって言ってたよね」
「うん。形式だけ」
形式。
それは、
中身を問わないという意味でもある。
番号が呼ばれる。
「次の方、どうぞ」
二人は立ち上がり、
窓口へ向かう。
担当者は若い女性だった。
淡々とした声。
表情は柔らかい。
「本日は健康更新の確認ですね」
「はい」
恒一が答える。
澪は小さく頷く。
「では、いくつか質問します。
最近、日常生活でお困りのことはありますか?」
澪は一瞬、
言葉を探す。
困っている、
という定義が曖昧だった。
胸の奥の違和感。
言葉に出来ない疲労。
理由の無い息苦しさ。
それは、
困りごとだろうか。
澪は恒一を見る。
恒一は、
澪が答えるのを待っている。
急かさない。
促さない。
信頼しているから。
「……特には」
澪はそう言った。
その瞬間、
担当者は迷いなく入力する。
【困りごと:なし】
「睡眠は取れていますか?」
「はい」
多少、
夢を見過ぎる気はするが、
眠れてはいる。
「食欲は?」
「あります」
量が減った気もするが、
食べてはいる。
「お仕事は順調ですか?」
「はい」
納期は守っている。
依頼もこなしている。
問題は無い。
質問は続く。
澪は、
すべてに同じ調子で答える。
嘘ではない。
ただ、
言っていないことがあるだけだ。
担当者は最後に微笑む。
「ありがとうございます。
特に問題は見受けられませんね」
その言葉に、
恒一は安堵する。
制度が保証した。
澪は大丈夫だと。
それは、
彼にとって重要なことだった。
「よかったね」
窓口を離れた後、
恒一がそう言う。
「うん」
澪も頷く。
よかった。
問題は無かった。
その結論は、
二人を等しく安心させる。
帰り道。
街は穏やかだ。
人々はそれぞれ、
自分の生活に戻っていく。
誰も立ち止まらない。
誰も疑問を持たない。
澪は歩きながら、
少しだけ考える。
もし、
あの場で違う答えを出していたら。
もし、
「困っている」と言っていたら。
何が起きただろう。
検査だろうか。
面談だろうか。
一時的な支援だろうか。
だが、
それらはすべて
「問題がある人」に向けられる。
自分は、
そこに入らなかった。
入らなかったという事実が、
今は心地いい。
恒一の隣を歩きながら、
澪は思う。
自分は、
守られている。
制度に。
判断に。
そして、
恒一の「信じる」という選択に。
それでいい。
それ以上を望む理由は、
どこにも無い。
帰宅後、
恒一は端末を開く。
仕事の連絡。
日常の続き。
澪はその背中を見て、
少しだけ安心する。
日常は、
壊れていない。
壊れていないなら、
修復は不要だ。
誰も困っていない。
だから、
誰も介入しない。
夜。
澪はベッドに横になる。
天井を見つめながら、
胸の奥の違和感を感じる。
それは、
昼間より少しだけ
大きくなっている。
だが、
それをどう扱えばいいのか、
澪は知らない。
知らないものは、
問題に出来ない。
今日もまた、
記録は更新される。
【生活状況:安定】
【支援必要性:なし】
その一文が、
すべてを覆う。
誰も困っていないという前提のもとで、
世界は今日も
正しく動いている。




