第十二話:言葉にしない選択
澪は、
自分がいつから「考えなくなった」のかを
思い出せなくなっていた。
考えない、というより――
考えが浮かぶ前に、別の判断が覆い被さる。
朝。
目が覚めた瞬間、
胸の奥に小さな違和感がある。
理由は分からない。
形も無い。
だから、
それは問題にならない。
澪は起き上がり、
キッチンに向かう。
包丁を握る。
指先が少し震える。
疲れているのかもしれない。
そう思った時点で、
それ以上考える必要はなくなる。
朝食は、
いつも通りに整う。
「おはよう」
恒一の声。
「おはよう」
澪は笑う。
無理のない笑顔。
恒一は、それを見て安心する。
澪が笑っている。
それだけで、
世界は正常に見える。
「今日も在宅?」
「うん。午後に少しだけ」
「無理しないでね」
「大丈夫」
その言葉は、
自分に向けて発せられている。
大丈夫。
問題は無い。
そう言い切ってしまえば、
胸の奥の違和感は
「気のせい」という箱に収まる。
恒一が出かけたあと、
部屋は静かになる。
澪はソファに座り、
端末を起動する。
【感情整形・個別対応ログ】
【対象:匿名】
【処理内容:不安の軽減】
他人の感情を整える作業。
丁寧に、
慎重に。
相手の「困っている」に
寄り添う仕事。
作業中、
ふと手が止まる。
画面に映る波形が、
自分のものと重なった気がした。
一瞬だけ、
息が詰まる。
だが、
澪は深呼吸をする。
自分は対象ではない。
自分は処理する側だ。
それに――
自分は困っていない。
困っていない人間が、
助けを求める理由は無い。
作業を再開する。
午後。
依頼は滞りなく終了する。
【処理完了】
【問題なし】
その表示を見て、
澪は少しだけ安心する。
誰かの問題は解決された。
少なくとも、
そう記録された。
それでいい。
夕方。
恒一が帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
澪は立ち上がる。
一瞬、
足元がぐらつく。
恒一は気づかない。
気づくほどの揺れではない。
「今日はどうだった?」
「普通」
澪は即答する。
普通。
問題が無いという意味の言葉。
恒一はそれを聞いて、
それ以上は踏み込まない。
踏み込む必要が無いから。
「夕飯、簡単なものでいい?」
「うん。ありがとう」
ありがとう。
その言葉は、
いつも正しい。
夜。
二人は並んで食事をする。
テレビの音。
食器の触れ合う音。
沈黙は、
居心地が悪くない。
澪は、
ふと思う。
もし、
ここで何かを言ったら。
もし、
この違和感を言葉にしたら。
恒一は、
困るだろうか。
心配するだろうか。
それとも、
「大丈夫だよ」と言うだろうか。
どちらにしても、
空気は変わる。
澪は、
それを望まない。
望まない、
というより――
変えていい理由を持っていない。
だから、
言わない。
言葉にしない選択をする。
その選択が、
誰のためなのかを
確かめることもなく。
食後。
恒一はソファに座り、
澪はその隣に座る。
肩が触れる。
恒一は、
その距離を「信頼」だと思う。
澪は、
その距離を「安全」だと思う。
同じ姿勢で、
違う意味を抱えたまま。
夜が深まる。
布団に入る前、
澪は一度だけ口を開きかける。
だが、
何も出てこない。
出てこないのではない。
出さないと決めた。
決めた理由は、
自分でも説明できない。
説明できないものは、
問題として扱えない。
だから、
今日も記録は残らない。
異常通知は無い。
澪は目を閉じる。
恒一の呼吸を、
すぐ隣で聞きながら。
問題は、
今日も言葉にならなかった。




