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第九話:名前の付かない揺れ


 朝は、いつもと同じだった。


 目覚ましが鳴り、

 澪はそれを止め、

 恒一の背中を見ながら布団を出る。


 キッチンで湯を沸かし、

 カップを二つ並べる。


 この順序が崩れないことが、

 澪にとっての安心だった。


「おはよう」


「おはよう」


 声の調子も、

 いつも通り。


 澪は、自分の中を確かめる。


 疲労値、正常。

 情動レベル、安定。

 不安、検出されず。


 ――問題ない。


 そう判断できることに、

 ほっとする。


 だが、カップに湯を注いだ瞬間、

 手がわずかに止まった。


 ほんの一拍。

 誰にも気づかれない程度。


 胸の奥が、

 微かに軋んだ気がした。


 理由は、ない。


 理由がない違和感は、

 澪にとって「処理対象外」だった。


 仕事部屋に入り、

 端末を起動する。


【本日の予定:10件】


 数字を見ると、

 頭が整う。


 最初の依頼。


【主訴:無力感】

【希望:気にしないようになりたい】


「……気にしない」


 澪は、自然に作業を始める。


 感情の起伏を均し、

 自己認識を軽くする。


 依頼者の“引っかかり”が消えていく。


【調整率:96%】


 成功だ。


 なのに。


 その数値を見た瞬間、

 澪の胸が、少しだけ沈んだ。


 どうして?


 澪は、その感覚に

 名前を付けられない。


 悲しいわけじゃない。

 苦しいわけでもない。


 ただ、

 「何かを落とした」ような感覚。


 次の依頼に進む。


 作業を重ねるほど、

 感覚は薄れていく。


 それが、正しい。


 昼過ぎ。


 恒一がドアをノックする。


「コーヒー、置いとくね」


「ありがとう」


 恒一は、

 澪の顔を一瞬だけ見る。


 変わらない。

 いつも通り。


 だから、何も言わない。


 澪は、

 その視線に気づいている。


 気づいた上で、

 何も言わない。


 言うべき言葉が、

 存在しないからだ。


 夕方。


 作業が終わる。


【問題発生:0】


 澪は、その表示を見て、

 少しだけ遅れて安心した。


 安心が、

 以前より薄い気がする。


 そのこと自体を、

 澪は問題にしない。


 問題にすると、

 余計なものが生まれるから。


 夜。


 二人で並んで座り、

 テレビを眺める。


 内容は、頭に入ってこない。


 澪は、

 自分の呼吸を数える。


 一、二、三。


 ちゃんと、ここにいる。


「……ねえ」


 澪は、

 無意識に声を出していた。


「なに?」


「……なんでもない」


 恒一は、

 少し間を置いてから言う。


「そっか」


 それで、終わる。


 澪は思う。


 ――今、何かを言えば、

 ――たぶん、恒一は聞いてくれる。


 でも。


 聞いてもらったあと、

 どうなるのかが、想像できない。


 説明できないものを、

 説明しようとすること。


 それは、

 澪にとって“危険”だった。


 だから、飲み込む。


 飲み込めたという事実が、

 自分を守ってくれると信じる。


 その夜、布団の中で。


 澪は、

 自分の胸に手を当てる。


 鼓動は、正常。


 涙は、出ない。


 ただ、

 名前の付かない揺れだけが、

 静かに残っていた。


 それはまだ、

 問題ではない。


 問題として扱われない限り、

 それは存在しない。


 だから澪は、

 目を閉じる。


 明日もまた、

 整える側でいるために。


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