第17話:拳、幻想を穿つ
虚空の龍《ヴァン=アール》との戦いは、誰にも観測されていない。戦闘ログは流れず、レイド警告も出ていない。だが、そこには確かに“死闘”があった。
──空すら砕くような咆哮。
──風に溶ける幻の尾撃。
──存在の揺らぎが生む無数の分身体。
いかなる攻撃も当たらず、いかなる防御も無意味。このボスは、実体がない。
それでも美蘭は、拳を振るい続けた。
「気配がある。魂が、そこにいる……!」
彼女が戦っているのは“姿”ではない。“気の芯”だ。何度攻撃が空を切っても、呼吸を整え、再び拳を構える。
ヴァン=アールが高速で上空を旋回する。尾撃が幻の軌跡を描き、斬撃のような衝撃が地面をえぐる。
美蘭は動かない。
目を閉じ、気配だけを読む。風の流れ、重力のわずかな揺らぎ、空間の歪み。
「……次は、右上後方。降りてくる」
言葉と同時に、拳が跳ね上がる。
バァン!
見えない何かが爆ぜたような衝撃音が響き、ヴァン=アールの咆哮が宙を裂いた。
当たった。
ほんのわずか。けれど、確かに。
この戦いはもはや、レイドというより“瞑想と肉体の交信”だった。ひとつの打撃を成功させるために、数十、数百の打撃を空に放ち、ただ一瞬の気の揺らぎを見極める。
ゲーム内時間で三時間。だが実際の美蘭には、三日分の集中力を費やすほどの激闘だった。
《システム通知:幻影耐性80%突破。ヴァン=アールの実体が不安定になります》
それは誰にも表示されないログ。彼女だけに届いた、運営の裏システム通知だった。
美蘭の拳が、さらに深く食い込む。
幻影の鱗が弾ける。青白い粒子が舞い、ヴァン=アールの翼が欠けていく。
「あと、三撃……」
美蘭の目が細められる。もはや視覚も聴覚も使わない。ただ“感じる”のだ。
気の芯――命の震えを。
空中に跳び上がる。風を斬り、拳が宙を貫く。
――一撃。
ヴァン=アールがのけぞる。
――二撃。
身体が軋み、幻が実体化し始める。
「最後だ」
美蘭は天地を逆さにしたような姿勢で、龍の中心――気の芯へと拳を打ち込んだ。
沈黙。
直後、虚空が爆ぜ、あたり一面が光に包まれた。
その中心で、美蘭は拳を構えたまま、静かに着地した。
《レイドボス:虚空の龍ヴァン=アール 討伐確認》
ようやく世界に流れた通知が、全プレイヤーの画面を揺らす。
誰もが目を疑った。
「……誰が?」
《討伐者:無所属 如月美蘭》
その名がログに刻まれた瞬間――ラグナ・バースの歴史に、最も静かで、最も美しい拳の伝説が加わった。