第16話:虚空の龍ヴァン=アール、出現率0.0001%の運命
深夜のラグナ・バース・オンライン。浮遊孤島「ミスティアの尾根」で、美蘭は一人静かに座していた。
拳を膝に、背筋をまっすぐに。戦うためではない。ただ、瞑想している。
この世界の“気”を感じ取りたい――それだけだった。
月が雲間から顔を覗かせた瞬間、空気が凍りついた。
視界の端が、震えるように揺らぐ。風も止まる。まるで世界が、何かを“迎える”ために息を潜めたかのように。
――龍の、気配。
美蘭の目が、すっと開いた。
それは、眼前にいた。存在しないはずの存在。
虚空の龍《ヴァン=アール》。
白銀の鱗に夜空が映り込む。だが輪郭は常に歪み、まるで幻影。攻撃が当たったという報告すら皆無。討伐はおろか、出現スクリーンショットすら記録に残っていない、都市伝説のような存在。
――その出現率、0.0001%。
「なるほど……そういうことか」
美蘭は静かに立ち上がる。拳を構えると、龍の目が彼女を捉えた。
次の瞬間、雷鳴とともに虚空が弾けた。
ヴァン=アールの攻撃は、“避ける”という概念を超えていた。刃ではなく“空間そのもの”を削る咆哮、幻の尾撃、時間差で届く爪。
全てが実体のない攻撃。そして、美蘭の拳も、何一つ当たらなかった。
「やはり……通常の攻撃は通らない。けれど」
彼女は目を閉じる。深く、深く息を吸い、拳を胸の前に構えた。
「気は、嘘をつかない」
どれほど実体が薄れようとも、そこに“存在”がある限り、気は流れる。微弱な、魂の鼓動――それを捉えることができれば。
戦場が、二人だけの世界になった。
夜空を舞い、月光の中で拳と龍が交差する。拳は空を裂き、龍は幻を操る。
その姿を、観測者は誰も見ていなかった。ログ通知すら流れない。
だが、美蘭は確かに“感じて”いた。龍の気配を。
ヴァン=アールの姿がふっと消える。無の空間に残された違和感。
「そこだ」
彼女の拳が、虚空に放たれた。
空間が歪み、風が弾け、龍の咆哮が響いた。
攻撃が――当たった。
わずかに歪んだ鱗。実体のない存在に、拳が触れた瞬間だった。
《当たった……!?》
美蘭の脳裏で、自分の声が驚いていた。けれど、すぐに笑みがこぼれる。
「拳は、幻想すら穿つ……!」
激戦の幕が上がった。その戦いは、ゲーム史上でも最も長く、最も静かで、美しい拳法バトルの序章だった。
虚空の龍と、拳の女。
それは、まだ誰にも知られていない、伝説の始まりである。