あなたの初恋が、私だったと知るまで
見に来てくださってありがとうございます。
少女漫画っぽい雰囲気で仕上げました。
それでは、どうぞ
この婚約が正式に決まったとき、レティシア・リーベンシュタイン公爵令嬢の心は、かつてない程の幸福に満ちていた。
父と共に出席する夜会で、そのたびに遠くから見つめていたその人——リュシアン・ルヴェール伯爵令息。
彼の黒曜石のように深く澄んだ瞳も、知性を感じさせる爽やかな微笑も、誰にも迎合しない、あの凛とした孤高の佇まいも
――すべてが、レティシアの胸に鮮やかに刻まれていた。
まるで一瞬で心を奪われた夢のように。
目を閉じれば、今でもその姿がまぶたの裏に浮かぶ。どこまでも遠くて、どこまでも美しい人。
けれど、彼と交わした言葉は数えるほどしかなく、そのたびに胸が高鳴って……挨拶以外はうまく話せず、いつも背中を見送るばかり。
「想いを伝えることなど、恐れ多くて……」
彼女はただ、秘めた想いを抱いたまま、季節はいくつも、静かに通り過ぎていった。
彼の面影を見つめる――それだけで、レティシアの世界は輝いて見えた。
そんな折、突如として舞い込んできた婚約の話。
父――リーベンシュタイン公爵が、ルヴェール伯爵家からレティシアへの縁談を受けたという。
どうして自分が選ばれたのか、詳しい事情は告げられなかった。
ただ、気がつけば全てが決まっていて、誰の意志でもないかのように、事実だけが静かに置かれていた。
まるで、夢の続きを見ているようだった。
遠く手の届かない存在だと思っていたあの人が、自分の夫になるなんて――そんな未来が、本当に許されていいのだろうか。
嬉しさと戸惑いが胸の奥で激しく混じり合う。
とくん、とくん――胸の奥で鳴る音が、やけに大きく響く。
言葉にならないまま、レティシアはそっと目を伏せた。
*
レティシアは白百合の刺繍が施されたドレスを選んだ。
繊細な刺繍が胸元を彩り、陽の光を受けて角度を変えキラキラと輝いている。
今日は、運命の人との顔合わせの日――。
期待と不安で心を震わせながら顔合わせの日を迎えた。
「……僕には、昔から想い人がいます」
彼の第一声が、それだった。
言葉は、刃よりも静かに胸に届いた。
リュシアンは、その真摯な瞳を逸らすことなく、レティシアをまっすぐに見つめていた。
苦悩と、誠実と、どこか遠い場所を見つめるような翳りを宿したまま。
まるで罪を告げるかのように静かに言った。
「あなたには、何ひとつ罪はありません。ただ……僕の心は、もうずっと前から、他の誰かに向いているのです」
「……」
「貴女を愛することは……心から、愛することはできません」
「……」
「けれど、パートナーとしてなら。共に支え合い、家を守るために尽力します。……それが、せめてもの誠意です」
レティシアは微笑もうとした。
けれど、口元が震えた。目元に熱がこみあげ、視界がにじんでくる。
その声音は優しく、そしてどこまでも残酷だった。
彼の言葉は誠実だった。非の打ち所がない。
だが、それが余計に苦しかった。
拒絶してくれた方がまだ良かった。
怒りでも、嫌悪でも、何かしらの感情で突き放してくれれば――
この恋も、いっそ終わらせることができたのに。
けれど、彼は「支え合いましょう」と言った。
その瞬間、レティシアの長く秘めていた恋は、
死に場所を失った。
朽ちることも、昇華することも許されず、
ただ、宙ぶらりんのまま。
少女の心に残されたのは、希望という名の毒。
少しずつ、けれど確実に、彼女の中に広がっていく。
それでも微笑まなければならない――
貴族の令嬢として、彼の婚約者として。
でも、ただの少女としてのレティシアは、もう心の声も出せないほどに、静かに、泣いていた。
**
ぎこちなく始まった夫婦生活。
二人は広いリーベンシュタイン邸の中で、互いに必要以上の距離を取り合っていた。表面上は円満な夫婦としてふるまっていたけれど。
リュシアンは財務に専念し、レティシアは慈善活動と社交界の役目をこなしていた。
家は滞りなく運営され、使用人たちの間では「理想的な夫婦」とさえ囁かれていた。
すべては、滞りなく、整然と――。
けれど。
誰も知らない。
レティシアの胸の奥で、どれほど多くの言葉が飲み込まれたかを。
廊下ですれ違うたび、あと一歩、あと一言が踏み出せずに、そっと目を伏せる時間が、どれほど積み重なっていたのかを。
「理想的」と呼ばれるほどに、彼女の恋は遠くなっていった。
まるで、夜空の星のように――きらめいて、手が届かなくて、それでも目を離せなくて。
レティシアは、今日も穏やかな笑みを浮かべる。
その胸に、触れられぬ恋をそっとしまい込んだまま。
夜になるとレティシアは決まって、自室の窓辺に座った。
月明かりに照らされたティーカップには、もうほとんど温かさは残っていない。
けれどそれでも、彼女はそこに座り、ひとり思いにふける。
リュシアンは、隣の部屋で静かに眠っている。
背中を向けたまま――まるで、心ごと閉じた扉のように。
(今、誰を想っているの……?)
胸の奥に、そっと問いが生まれる。
返事はないと知りながら、それでも、問いかけずにはいられなかった。
それでも。
レティシアは彼の隣に立てるだけで、かすかな幸せを感じていた。
たとえこの想いが届かなくても、いつか。
いつか、ほんの少しでも、彼の心に触れられる日が来るのなら。
このままでも、いずれ想いは届くかもしれないと——。
***
そんなある日。
レティシアは、ふとした拍子にリュシアンの執務室で一通の手紙を見つけた。
机の上、整然と並ぶ書類の隙間に、それは置かれていた。
どうやら、執事が書類と共に差し入れたものらしい。
封筒には、女性らしい繊細な筆跡でこう書かれていた。
「また、あの場所で会いたい——エリス」
レティシアの胸の奥が、冷たく沈んだ。
エリス。その名は、彼の口から何度か聞いたことがある。
やわらかくて、愛おしそうで、けれどどこか遠くを見るような響きで呼ばれていた、あの名前。
かつての想い人――そう、すぐにわかった。
(……彼女と、会っているの?)
胸の奥がきゅうっと締め付けられ、息が詰まりそうになる。
けれど、レティシアはそのまま手紙を元に戻し、何もなかったようにそっと部屋を後にした。
翌朝。
レティシアは、何気ない顔を装って、食卓で彼に尋ねた。
「この前、お手紙を落とされたようですわ」
「……手紙?」
「“エリス”という女性からの。お手紙でした。」
リュシアンの指が、微かに震えた。
その一瞬を、彼女は見逃さなかった。
「……それは、昔の婚約者です。彼女は……亡くなったと思っていた」
「“思っていた”?」
「死んだと聞かされていた。だが、どうやら生きていたようで……僕も、混乱しています」
レティシアは、微笑んで頷いた。
心が千切れそうになっても、笑顔だけは崩さなかった。
その夜。彼女は一人、書斎にこもった。
暖炉の火もつけず、ただ静かな灯だけを傍らに置いて。
悲しいわけではなかった。
怒っているわけでもなかった。
——ただ、空しかった。
まるで、自分の中にぽっかりと空いた小さな穴を、風だけが通り抜けていくような感覚。
彼の隣にいられるだけで幸せだと思っていた気持ちは、いったいどこに行ってしまったのだろう。
そして、自分はこれから、何を抱いて生きていけばいいのだろう。
紅茶も、本も、言葉さえも、今夜のレティシアには届かなかった。
****
けれども、その翌朝。
朝の光が差し込む食卓で、リュシアンはいつもより少しだけゆっくりと椅子に腰を下ろした。
そして、レティシアのほうをまっすぐに見て、静かに口を開いた。
「エリスとは、会わないことにしました」
その言葉に、レティシアは思わず手にしていた食器を落としそうになった。
「えっ……?」
声がかすれる。思いがけなさすぎて、息が止まりそうだった。
リュシアンはゆっくりと言葉を紡いだ。
「それは、貴女に対して誠実ではないから」
彼の目は、まっすぐだった。
あのとき手紙を見つけたときの、どこか揺らいでいた視線とは違う。
「貴女が……今の私にとって、かけがえのない存在になっていると、気づいたからです」
その言葉に、彼女は驚いた。
(これは、夢……?)
そう問いかけたくなるほどに信じられなかった。
でも、その表情は、声は、空気のすべてが、彼の本心だと告げている。
「貴女と過ごす時間が、日に日に愛おしくなっていた。それを、“愛”と呼ぶのなら……私の心は、すでに貴女に在るのかもしれません」
そう語る彼の目は、もう遠くを見てはいなかった。
まっすぐに――彼女だけを見つめていた。
レティシアの胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
それは痛みでも戸惑いでもなく、名前のつけようのないほど優しい感情で。
気づけば、ひとしずく、またひとしずくと涙が頬を伝っていた。
温かく、胸の奥を満たしていく――そんな涙だった。
そして——真実は、ある日ふいに明らかになる。
リュシアンの“想い人”
それは、ずっと彼の記憶の奥底にしまわれ、恋焦がれてきた、たった一度きり出会った少女。
名も知らず、顔さえおぼろげなまま、ただその記憶には、
風に揺れる花の香りと、差し出された白いハンカチだけが残っていた。
あの日、庭園で、ふたりはほんの数分だけ言葉を交わしたにすぎない。
「えっと…はい、これ使って!
なんか、泣いてるの、もったいない気がして…
だって、笑ってた方がかっこいいもん!」
そんなふうに、まるでお日さまのような笑顔で——
困っていた少年に、迷いなく手を差し伸べた少女。
そしてその白いハンカチこそが、彼にとっての“たったひとつの手がかり”。
それは——レティシアが、幼いころに手渡したものだった。
あの時、緊張で声もかけられず、すぐに背を向けてかけて行ってしまった少女。
その後会えぬまま、お礼も言えず……それが、リュシアンの初恋であり、今も変わらぬ“ただひとり”だった。
——ずっと、彼は彼女だけを、想い続けていたのだ。
真実に気づいたその瞬間、二人の心が重なった。
「……あなたの“想い人”は、私だったのね」
「そうだったんだ。最初から、ずっと……君だけだったんだ」
まるで長い夢の中を彷徨っていたような日々に、
ようやく、ひとすじの光が差し込んだように。
ふたりはそっと、互いの手を取り合う。
その手のぬくもりに、答えはすでにあった。
恋は、時を越えて、形を変えて——
それでも、確かにそこに、存在していた
最後まで見ていただきありがとうございました。
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