葉桜
桜の葉が散って寒々とした姿になったころ、天弓は引退して、山奥でひっそりと隠居生活を送るようになった。
何度も季節が巡って桜のつぼみが固いながらも見つけられるようになった今は3人ひとつ屋根の下で過ごしている。
「お茶はいったよ。」
夕月が二人に桃茶と蒸しパンを差し出すと、小夜はむくりと起き上がって皿を配り、天弓は蒸しパンをつついて熱さに悶えていた。
「何してるの天弓。少し待って」
案の定小夜に怒られている。それを夕月は少し笑いながら眺めている。
「私たちもおばあちゃんかー」
天弓が渋々茶器を持ち上げながらしみじみと呟いた。お茶からはいい桜の香りが広がる。
「あ、このお茶」
「どうかしたのですか」
小夜は目を細めて笑った。
「昔美利に淹れてもらった。天弓に渡す資料の時」
そんなこともあったねと二人通じているが、夕月には伝わっていない。
そもそも四歳だった上に夕月が去った後の話だ。
「どういうことなのですか?」
「夕月、敬語はいいと言っているでしょう。えっとね、霧雨が病で死んで、あなたが誘拐されて、小夜が後宮に行くことになったのは知ってるよね」
夕月はこくこくと頷く。そしてその後夕月は数奇な道のりを辿ったのだ。
「天弓が天弓の親を追放した」
小夜が簡潔におしえる。それだと誤解される、と天弓が睨むが小夜は意に介さず蒸しパンを選んでいる。取ったのはあまめだ。
「これ何味があるの」
「さつまいも、甘め、黒糖、かぼちゃ、お楽しみがありますよ」
お楽しみとは、と天弓が怪訝そうにさつまいもを手に取った。
「美味しいわね」
「よかったです。冷めると美味しくないので早めに召し上がってください」
三人で静かに蒸しパンを食べる。お茶がなくなってきたのでお湯をもう一度入れてもう一回煮出す。
「なんか、夢だったよね。こういうふうにみんなでのんびり過ごすのって」
「いつも私のところに来て夕葉に怒られていたのは誰だ」
三人で笑い合う。二人ともよく小夜のところに行って怒られたものだ。
「夕月は白拍子だったのよね。」
天弓が話を変える。
「それがどうか?」
蒸しパンを食べている夕月の代わりに小夜が答える。
「なんで小夜が答えるのよ」
「いいの。夕月をここに戻したのはわたしよ」
確かに、とまた三人で笑う。
「あの時は知らない人にここに行ったらって言われて怖かったですね。はっきり言って」
まあそうか、と小夜は頷く。その拍子に薄茶の髪がばさっと落ちて危うく茶器を倒しそうになってしまう。
「そういえば、小夜は後宮で髪どうしてたの?染めてたんだよね」
ああ、と小夜は部屋に戻って何かをとってくる。
その間二人はただ黙々とお茶を飲んで、新しくほうじ茶を淹れていた。
「これ。」
小夜が差し出したのは墨のようなものだった。
けれど墨より艶々していて、丸い形をしている。
「墨?」
「染粉。これを少し取って水で溶かして塗る。洗えば落ちる。」
洗えば落ちる染粉は、果たして染めているのかと小夜自身が疑問に思ったが、そこは菫の優しさだと思うことにした。
「菫…」
菫が生きていたのはもう三十年も前のこと。
「あれ、菫?」
夕月の敬語が抜けている。
「夕月、どうかした?」
いや、と夕月は曖昧に首を振る。
「言いかけて引っ込めるの?気になるから言いなさいな。」
天弓の圧に負けて、夕月は教える気になったらしい。
「私の師匠の友人が、菫。突然いなくなって後宮にいるという情報を聞いたと師匠が仰っていました。」
小夜と天弓は頭を抱えた。
「確かなのね。それは多分同一人物の菫だよ。」
そんなことをするのは京家ぐらいしかない。
小夜と天弓は同時に補足を入れる。
「小夜のお姉さんで名付け親の」
「侍女から妃になった京姫の母の」
小夜は誰もが知っていることだったが、天弓の言葉には夕月が驚いていた。
「そうなですか?」
「姉ではない。名付け親」
心なしか小夜の顔が赤い。
「あら小夜、照れてるの?かわいいわね」
天弓に揶揄われていっそう顔を赤くする小夜。
「後宮といえば、小夜はとうとう明石の御方だね」
「ああ、夜見。」
最近、小夜の孫である京宮が東宮となった。その母、皇后は小夜の娘の夜見だ。
京姫について触れないところが二人なりの優しさだとわかって、小夜は白い雲に夜空と月と桜の模様の扇子を開いて顔を隠してしまった。
「小夜はかわいいわねー」
「当主様、あまり言いすぎると悪い気が致します」
それもそうね、と天弓はようやく小夜を解放する。
その手のそばに置かれていた天弓の扇子も、桜柄だ。
「夜見といえば…」
「どうかしたの天弓」
天弓は首を振った。
「別に。埒のないことを考えてしまって。」
それは気になると小夜が身を乗り出す。
天弓は小夜の圧に負けてしぶしぶ続きを話した。
「鈴、っていたじゃない」
そのとたん少し空気が凍り付いた。
「続けて」
天弓は促されてまた話す。夕月はお茶を一口飲む。
「あの子がああなってしまって2週間ぐらい後かな。利家に新たな人員がやってきたの。名は、京野利音と雨利」
「それは」
小夜が何かを言いかけたが、天弓は首を振った。
「私たちが踏み入ってもいいところではないわよ」
それもそうかと小夜はしばらく考え込んだ。だが、その表情は晴れない。
「…鈴は、本当に死んだのかしら」
小夜が静かに、しかし深く問うた。声には、今なお癒えない痛みが滲む。
天弓は目を伏せた。
「あの子が自らその道を選んだことは、確かな事実よ。でも…」
夕月がそっと二人を見つめ、低い声で言った。
「利音は、鈴さまと同じ目をします。姿は違うのに…」
小夜は唇を噛み締めた。
天弓がゆっくりと顔を上げた。
「だからこそ、私たちには踏み込めない。それが、あの子が選んだ、あるいは選ばされた道なのだから。」
「…そうね」
小夜は扇子を握りしめ、遠くを見つめた。夜見たちの父親を思い浮かべた時のように、その目には複雑な感情が宿る。懐かしいような、苦しいような。思い出につなぎとめるような。
「そういえば夕月と違って小夜は未婚よね」
その言葉に小夜は手を止めて穏やかに微笑んだ。
「結婚しようと思ったけれど相手の家が厄介なことをしていて法的に結婚できなかった」
小夜は今まで一度も夜見たちの父親について話すことはなかった。
「ふーん。どんな人?」
興味をなくしたように振る舞う天弓だが、それは小夜の心が壊れる寸前を見計らっているような危うさもあった。
「わたしを守ってくれた人。困っていたわたしを助けて全身全霊でわたしに向き合ってくれた。」
天弓は少し悪い微笑みをした。
「小夜にそんな人いたんだね。また機会があったら教えて」
小夜はその言葉に御簾の外、もっと遠くを見つめた。
「いつかね」
小夜は小さな時から小夜たちのために育てられた夜見の父を思い浮かべた。
「天弓は本当にさっさと引退した」
なにせ中央京家確立から十五年で当主の座を降りたのだ。後継者はきちんと養育していたし不足はなかったのだがいかんせんはやかった。
「私の引退はこの間」
小夜は一応五年で中央京家当主の座は降りて大御所として裏から政治をしていた。それをやめたのはついこのあいだだ。夕月は二人が引退し隠居すると聞いたのに合わせて引退した。
「前の当主さまが五十年近く当主だったのを考えると、ずいぶん短いわね」
「天弓のことでしょ」
小夜から訂正が時々入る。
「あ、蒸しパン冷めてる」
会話に夢中で蒸しパンを食べていなかったから、残り5個ぐらいが冷めてしまっている。
「食べよう。」
小夜は甘めを一口口に入れて驚いて目を見開いた。
「これ、やけに重いと思ったらみかんが入っている」
これがお楽しみがと繁々と眺めている。
「そう。面白いでしょう。形に苦労したのだからもっと褒めてよ」
夕月は小夜のことが大好きで、褒めて欲しいとずずいと近づく。小夜ははいはいと褒めている。
「あ、こっちは塩漬けの桜が入ってる」
ほかよりほんのり甘めの生地に塩味の桜が入っていて結構おいしい。
天弓は早速もう一つに手を伸ばした。
夕月が最後の蒸しパンを食べ終わったので小夜が新しいお菓子とお茶を淹れる。
「小夜はお茶を淹れるの上手なのよ」「まだ飲んだことないです」
後ろからそんな会話が聞こえてきて小夜は笑った。
夕月は当主さまが抜けなくて天弓に対しては敬語なのもかわいい。
「はい。」
一人一人懐紙に乗せた桜大福と金平糖だ。
「組み合わせ他になかったの?」
「大福は貰い物だから食べる。金平糖はわたしが食べたい」
小夜は理由になっていないような理由を述べて桜の葉を手に取って食べ始める。
「あー、美味しい」
「甘ったるい組み合わせだけどお茶が美味しい」
二人がしばらく微睡むのを眺めた。こうやって三人でのんびり隠居生活も、楽しいものだ。
「久々にのんびりできるわね。」
「今日は誰も来ないから」
普段は後進の指導、夕月が引き継いだ舞踊を習う生徒たち、三人に会いに来る物好きなどがいてなかなかこういう日はないのだ。
「今思った。小夜がこの屋敷選んでくれてよかったって。」
この屋敷は京家の所有する別邸の一つで、他の別邸と比べると見劣りする少しちんまりとしたものだ。
けれど他が下に人を見下ろす造りなのに対してここは山の中でのんびり過ごすのに向いている造りをしていて、部屋からは山並みや滝が見える。
今は簾が下ろされていてわからないがきっと外はしんしんと雪が降り、木々は葉を落とし、屋敷の黒さが際立っているのだろう。
「えっへん」
小夜が無表情にこう言うときは嬉しがっているのだ。
「あー、明日は雪かきか。」
天弓が食べ終わったのをいいことに床に寝転がる。
「お行儀悪い。当主さま」
「元、だし。いいじゃない仲間内だよ」
「こういうときにこそ人の本質が現れる」
「それ緊急事態のときね」
小夜と天弓がぽんぽんと言い争う。夕月は食器を下げて火鉢の熱で温めていた石を布にの包んで二人に差し出した。
「ありがとう夕月」
「いえ。」
こうして、三人でのんびり話せるようになるなんて、小夜が後宮に行った時には考えられなかった。
「奇跡だね」
「なんで」
「こうしてまた三人揃ってのんびり過ごせているのって。たくさんの人に嵌められて利用されてそれ以上に利用して今ここにいるって。」
小夜はそうかもね、と簾を巻き上げた。外は白銀世界と称するに相応しく、白と黒でできていた。
「桜はもうない。」
「え?」
桜、という意味のわからない単語に天弓は混乱してしまっていた。冬だから、まだ咲かないが正しいのでは?
「もうわたしたちの若い頃はない。天弓は当主、わたしは京姫を守ることに全力をかけて、夕月は白拍子になった。もうわたしたちは桜ではない。」
そんなこと、と天弓が笑う。先に喋ったのは夕月だった。
「葉桜も美しいよ。青葉を茂らせて、たくさんの葉を揺らして、夏の日差しをめいっぱい浴びていて」
「じゃあ私たちは葉桜ね。この三人の集まりの名前は。」
「そうだね」
大丈夫。これから何があろうとも、三人なら、一人じゃなかったら乗り越えられる。
きっと私たちの葉は暑い日差しから守ってくれる。
見向きもされないほど時が経ってしまっても、私たちは確かにここで生きていく。
ついに一章完結です。後半に出てきた人々とかの番外編は京の人々にあげていこうと思っています。
定期テスト期間に入るので次は少し遅くなります。




