夜桜.上
わたしは親を知らない。
物心ついた時には京家で勉強をしていた。
わたしは何を望んだことはない。
それでもわたしはこの子を守ると決めた。
「よろしくね、深夜」
そう手を差し出してきたのは当時十七歳だった菫。
10日間の移動で一切顔を合わせなかったが,これからはわたしたちは二人で行動することになる。
「はい、菫姉さん」
菫は、取り立てて美しいところはなかったが、それを菫もわかっていて、自分を効率よく美しく見せることができる人だった。
菫がジロジロ見てくるので何かと思ったら,菫はわたしの髪をひとふさ手にとった。
「深夜、あなた本当に綺麗な茶髪ね。」
「ありがとう」
ても、と菫は続ける。
「ここでは染めるか隠すかした方がいいわよ」
「深夜、私鈴泉様の専属になった!」
後宮入りして二ヶ月後,菫は部屋に戻るなり喜色満面でそう報告してきた。
服も前の翡翠色から薄水色とクリーム色に変わっている。
「おめでとう。わたしもようやく一人でできるようになった」
菫は侍女、わたしは宮女として、ここにきた。わたしは外で掃除をしているため、菫と日中顔を合わせることはない。ただ、皇后様の計らいでまだ八歳のわたしは“姉”の菫と同部屋になっていた。
菫はわたしの髪を染めてくれた。
黒く、黒く。そして、守るように。
「ねえ深夜、これはなんて読むの?」
菫は時々そうしてわたしに教えを乞うてきた。
地方の貧しい家出身の菫は読めない文字が多かったのだ。
地方出身者にはよくあることだ。わたしは郊外の生まれらしいが京家で当主候補だったため問題なく読み書きができた。
「菫姉さん、わたしが文字を教えようか?」
そうして、わたしは菫に文字を教えることになった。
「ねえ深夜、あなたいつから京家にいるの?」
「わたし?生まれた時から、かな。」
菫はここにくる数ヶ月前だと教えてくれた。
京家に関してはわたしがせんぱいだと胸を張ると、人生経験は上だと返された。
「じゃあ京の模様は?私はミズバショウと煙」
そう言いながらスッと二つの箱を見せてくれた。
京家で二つの模様を持つのは少数だ。当主候補たちと当主とその教育係ぐらいしか知らない。
「わたしも二つ。蘭草と彼岸花。」
菫はわたしを子供として扱っていたが、対等と接してくれていた。そんな菫を、わたしも邪気なく慕っていた。
「深夜、私華の方とのお茶会に同席できることになった!」
「おめでとう」
お茶会は侍女の中でも選ばれた人しか同席できない。
まだまだ新参の菫はお茶会のたびにがっかりしていたのだ。
今回は参加できると知り、二人で喜んだ。
それが、菫の邪気のない笑いを見た最後になった。
「皇后様がお呼びです」
二人の休日に部屋で京家への手紙を考えていると,菫の上司つまり侍女頭の鈴花が呼びに来た。
菫を送り出して続きをしようと紙に手を伸ばすと、あなたもですと言われた。
「わたし?」
「はい」
菫に手を引かれて三人で皇后様の部屋に入ると、そこには皇后様と、宣旨を持ってくる侍女の証である金の蝶を頭につけた侍女が立っていた。
「菫さまと深夜殿ですね」
菫は感情のない声でハイと答えた。
「これより,陛下からの宣旨を読み上げます」
菫はすっと首をたれた。わたしはそのまま頭を下げる。
「皇后様専属侍女菫を火羽に叙し、京宮の使用を許可する。それに伴い、妹御である風宮の深夜を京宮付きの侍女とする」
宣旨は朗々としたよく響く声で読み上げられた。
菫はただ頭を下げていた。
初めて足を踏み入れた京宮はわたしたちにふさわしく、黒色と木色だった。
欄間には蝶、煙のような蔦のような模様、名前のわからない豪華な華々。
三代前から使われていないとは思えないほど,中は綺麗に保たれていた。聞いてみたところ、京家に付く下女がいたらしい。わたしたちの引っ越しにより風宮つきになったらしいが。
菫の服は薄水色から黒白になった。菫の黒に黒曜石の縫い付けられた京家の上着は反射すると煙の模様が浮かび上がった。
部屋も質素だが趣味よく美しかった。
けれど菫はちっとも嬉しそうではなかった。
宣旨を聞いた時から,以前のように笑うことはなくなり、ただ微笑むだけになった。
立場的には華の方のお渡りだけを頼りにするのだが,華の方はちっともやっこなかった。
「三代前なら、わたし普通の妃になったのに」
妾のような立場で入宮し、妃に数えられず、お渡も間遠。菫は望んでいたのだろうか?華の方と結ばれることを。こんな扱いをされることを?
「菫姉さん…」
菫は一瞬だけ目を見開いて、ふっと細めて笑った。
それは、なんとも悲しげな微笑みだった。
「もう、そんなふうに邪気なく呼んでくれるのは、深夜だけね」
いつの間にか、仮名を持たない庶民出身の菫を蔑んで、“菫の方”と呼ばれるようになった菫。本来なら,ここにいることは正しいことであるはずなのに、なんでこんなに胸が苦しいの?わたしは何ともなってないのに。
菫が銀の簪を持っていた。
「菫姉さん、これなに?」
「皇后様からいただいたの。今までご苦労だった、って。」
それは銀の鎖がついていてそこに水晶がキラキラと輝く品だった。細工も繊細ながら目立たず美しい。
驚いたのは,この簪の邪気のなさだ。
こういう場面だと毒や呪いを思い浮かべるのだけれど,これは本当に綺麗すぎるほど普通の簪だった。
菫はわたしから簪を取り上げて髪に刺す。
「毒だと思った?」
図星を突かれて視線を逸らすと菫はいいのよ,と言った。
「私もそう思って疑ったのよ。」
でも、とまつ毛を伏せる。
「今私を殺したところで、皇后様には利益がないもの。」
こんな死ぬかどうかわからからないものを、と毒など一切なく美しい声で言い切る菫。
それが、菫で一番美しい瞬間だった。
京家に入って二ヶ月したころ、京家の方から書状がきたと姫巫女つきの巫女てある朝日子から書状が回ってきた。
「あの人誰?」
「姫巫女つきの巫女。京家の朝日子。子も孫も京家だよ」
ふーんと菫は生返事に書状を見ている。
知らせの内容は京家の当主が変わったことを知らせることだった。
「前の当主って、そんなにお年だっけ」
「さあ」
さらに読み進める。
「新たな当主は、天弓…」
それなら当主がさっさと交代したのに納得だ。
「天弓?虹?」
菫は京家になって二ヶ月でここにきたと言っていたので、確かに知らないのも納得だ。
「わたしと夕月と当主の座を争ってた。わたしと同い年」
菫はわたしが当主候補だったことよりも新当主の年齢がわたしと同じというところに驚いた。
「え、九歳の新当主?」
「うん。」
その後,菫の懐妊が発覚した。
顔から血の気がさぁっと引いていく菫に,わたしは手を添えることしかできなかった。
菫は自分で自分を追い詰めていった。
食事を、普段の半分ちょっとしか食べないようになった。
「菫姉さん、どうしたの?」
わたしが何回聞いても菫は大丈夫と繰り返すだけだった。
ある日、菫に呼び出されて何か大事なことなのかと行ってみると、菫は静かに座って待っていた。
「菫姉さん?」
「深夜には言っておく。もし、私を殺すことでこの子が助かるのなら、あなたが助かるのなら,私を殺して」
菫は真剣な目をしていた。
「なんでそんな話をするの?」
さあね、と菫は窓の外にいる小さな鳩をみる。
「ねえ深夜、あなた自分の子供にこんな名前つけたいって、考えたことない?」
わたしはきょとんとした。話の落差が大きい。
「ない。」
「そう?結構楽しいのよ。わたしは、れなかさよにしたい」
そして菫はポツポツ話し始めた。
菫のこれまでの暮らしを。
十歳で天涯孤独になるまでの幸せ、苦悩、天涯孤独になってからの暮らし、京家、そこで出会った人々,別れ。
わたしは興味津々で聞いた。
外の暮らしも、勉強以外の京家の暮らしも、全てがわたしにとって新鮮で、面白いものだった。
菫がどんな思いで語っていたのかも知らずに。
臨月になり、天弓に乳母を要請する手紙を書いた。華の方は産婆を用意した。
菫は外を見てけらけら笑ったり寝たりぼんやりしたりして過ごしていた。
もう、まともな会話は成り立たなくなっていた。
だんだん弱る菫、夫を侍女に取られた鈴泉皇后、うきうきしてやってくる華の方。
この三人の思いを、わたしはわかっていなかった。
乳母が付く前に菫が産気付いてしまった。
十歳のわたしは産婆にこき使われた。産婆は優しい優秀な五十ぐらいの人だった。
心配だったが,産婆が邪魔だと言って追い出したので外にいることしかできなかった。
「深夜殿、この子を抱えてやってくださいな」
産婆が生まれた子を渡してきた。
小さくて赤くて、髪の毛が白くて、可愛かった。
「かわいい」
「ふふ、あなたにそう言ってもらえるだけで報われるわ。名前は一緒に考えてね。」
菫は久々に穏やかに笑った。
「あなたがさよをまもってね」
菫は前に話してくれた子供につけたい名前をだして二人で笑った。
菫は毒気が抜けたように穏やかだった。
その穏やかさのまま、菫は二日後に亡くなった。
亡くなる前、容体の急変した菫のために医を呼ぼうと皇后に手紙を出したが,返事が返ってくることはなかった。
初