その婚約破棄、ちょっと待った!~まずは誰かに話してみよう~
「その婚約破棄、ちょっと待った!~一人で悩まないでまずは相談を~」
と地続きのお話ですが、こちらだけでも読めるようになっております。
【その婚約破棄、ちょっと待った! ~一人で悩まないでまずは相談を~】
カテリーヌとの婚約はこちらから破棄する!明日にでもあちらの家に話しに行くんだ!!
……と、熱くなっていたところでこんな張り紙が目に飛び込んできた。
(そうだ、一旦落ち着いて考えよう。俺には妻となる人が必要なんだ……)
個室トイレという完全に一人になれる場所で見付けたその張り紙は、迷える自分に差し出された救いの手のように感じた。
◇◇◇
「クロヴィス様が研究を何より大事にしていることは存じています。それでも、卒業パーティーの日に婚約者が果たすべき義務ぐらいは果たしていただきたかったですわ」
「義務は果たしているだろう?論文の提出が近いのに、こうして参加しているじゃないか。エスコートの義務さえなければ作業を進められたのに……」
「……では、お帰りいただいて結構です。さようなら!」
「なっ!ちょ、ちょっと待ってくれカテリーヌ……!」
卒業パーティーに足を運んだことで婚約者としての義務は充分果たしているのに、あんな風に自分を置いて行ってしまうカテリーヌの方がよほど非常識で義務を果たしていないではないか。
そう思っていたのに、会場内で自分に向けられる目線は冷ややかなものばかりだった。
「クロフト伯爵令嬢はまたお一人でいらっしゃるの?あちらに婚約者のバーチュ様がいるというのに……」
「ほら、バーチュ様はお忙しいでしょう?研究者気質が強い方だもの」
「学問に熱心なのはいいことですけど、あれほど婚約者を蔑ろにするなんて……ねぇ」
「彼女が今日お召しになっているドレス、ご自分で用意したのですって」
「まぁ!本当に、形だけの婚約者なのね!」
「形だけ、以下ではなくて?お可哀想……」
「でも、カテリーヌ様は役者のアンドレアに夢中だと聞きましたわ。婚約者がお相手してくださらなくても、外に楽しみを見出したならそれでよいのではなくて?」
「あらいやだ。似た同士の婚約者なのね」
あちこちからお喋り好きな令嬢たちの声が聞こえてくる。その中には、到底聞き流せない内容も含まれていた。
(アンドレア……だと?俺という婚約者がありながら、カテリーヌは役者に入れ込んでいるのか…!?)
「バーチュ様はまだ学生のご身分ですけど、既に外交での実績を上げていますわよね」
「次男だからバーチュ侯爵家の跡取りではありませんけど、外交官として仕官することが早々に決まっておりましたもの。将来有望ですわ」
「嫁ぎ先としては悪くありませんね」
「カテリーヌ様も妻としての務めさえ果たせば、役者に入れ込んでいても大目に見てもらえると思ったのでしょう」
「夫の稼ぎで役者のパトロンになるおつもりかしら?羨ましいこと」
戸惑いや怒りの感情で頭がクラクラしてきたので、俺はカテリーヌを追い掛けることなく失意のまま会場を後にした。
◇◇◇
「貴族の噂話なんて、あまり真に受けない方が良いですよ。夜会で盛り上がれる話題が欲しいだけで、本気で話しているご令嬢なんてほとんど居ませんから」
「そ、そういうものでしょうか……」
「えぇ、そういうものです。噂話は一旦横に置いておきましょう」
張り紙の案内に従いこちらの相談所に連絡をしたところ、学園の音楽準備室まで来るよう指示された。卒業パーティーの真っ最中なので、ほんの僅かな教員や見回りの者が残っているだけの学園はとても静かで気持ちが落ち着いてきた。
「現状の予定だと、卒業後にはすぐ結婚するのでしょうか?そうなると、あなたにはあまり猶予がありませんね。今日ここで、ご自分がこれから先どうしたいのか、考えを整理していくといいですよ」
「俺とカテリーヌの婚約は入学前に決まったものなので、既に婚約期間が四年経っています。何事もなければ、今年中に結婚する予定ですが……」
カテリーヌ・クロフトは『学問一筋で他の事を疎かにしがちな次男を支えてくれる、しっかり者で社交上手な婚約者を!』と母が気合を入れて探してくれたご令嬢だ。特産品が豊富で観光地として栄えている領地をおさめ、商売上手で知られる伯爵家の次女で、母の理想通り社交的で流行に敏感な女性だ。俺に不足している部分を補ってくれる、この上なく理想的な婚約者だった。
『私は勉強があまり得意ではありません。お恥ずかしいことに、伯爵家に相応しい成績をギリギリで保つのが精一杯なので、そんな私が優秀なバーチュ様に相応しいでしょうか……』
『俺は言語学を始めとする学問が好きで興味があるので、それを追及しているだけだよ。貴女は家族の影響で商売が好きで、服飾などの分野にも興味を持っていて、将来のため人脈を広げようと社交にも精を出している。その上不得意ながらきちんと学問に向き合い、及第点は収めているじゃないか。むしろ社交を全くしていない俺よりも立派だと思う』
『まぁ……私のことを、そんな風に見てくださるのですね。ありがとうございます』
『いいや、こちらこそ素直な気持ちを伝えてくれてありがとう。今日から君の事をカテリーヌと呼んでもいいだろうか?』
『勿論ですわ!こちらこそ、末永くよろしくお願いします。クロヴィス様』
「……とまぁ、出会った頃はよい関係を築けていました」
「大変理想的なご関係ですね。それがどうして、婚約破棄寸前にまでなってしまったのでしょう?」
「彼女は……変わってしまったんです……」
◇◇◇
カテリーヌと婚約した翌年、このハディスブルク王立学園に遠く離れたイメリタ王国の第二王子を留学生として受け入れることが決まった。我が国の第一王女の嫁ぎ先と縁戚関係があり、これを機にハディスブルクとイメリタも国交を結ぼうという話が浮上し、その第一歩として決まった留学だ。しかし、いかんせんこの国にはイメリタ王国の言葉を解する外交官がほとんどいなかった。
そこで呼ばれたのが、当時既に言語学の分野で様々な論文を発表し、幅広い言語に精通していた俺だった。
「イメリタの文字はかなり独特で記号のようなのですが、原型となった古代文字は実はハディスブルクのものと同じなのです。その前提さえ頭に入れておけば理解するのはそう難しくなく……って、すみません。話が逸れました」
「いえ、とても興味深いお話です。言語学が本当にお好きなんですね」
「はい。言葉は、人と人とが円滑に交流するための最も優れた手段です。また、国ごとの文化や風習から生まれる慣用句はその国の歴史を紐解くために重要なもので、一つ一つの言葉に言葉そのものの意味だけでなく、沢山の意味が含まれています。俺は世界中の言語からそれを読み解き、ハディスブルクから遠く離れた国とも交流を深めていくことが生涯の目標なんです」
「まだお若いのに、先々の目標を見据えていて素晴らしいですね」
「ありがとうございます。俺は子供の頃から言語学一筋で生きてきましたが、そのお陰でイメリタの王子とハディスブルク王室を結ぶ手助けも出来ました。結果として王家の覚えもめでたくなり、卒業後は正式に外交官として仕官することが決まりました。言語学は、俺にとって人生を支えてくれる大事な学問です」
外交官になれば、今まで実践で使うことがなかった多くの言語を仕事で活用することになる。それが今から楽しみで仕方ないし、まだ学んだことのない言語を使う異国との交流も待っている。王国所属の外交官は狭き門なので、王家の計らいで特別に一年生の時に採用試験を受けることができ、卒業後の仕官が正式に決まったのは大変幸運なことだ。
「ですが、このことがきっかけで一気に社交の場への招待が増えてしまって……」
「あ~……」
「あちこちの貴族家から「イメリタとの国交樹立は我が国において重要な出来事なので、そこに携わった若き文官の話を是非お聞かせ願いたい」とか「母は隣国から嫁いできたので、かの国の蔵書が我が家には豊富なので是非一度遊びにいらして」などと言われてお邪魔したら、着飾ったご令嬢方が待ち構えた茶会の席だった……なんてことが頻繁に起こったのです」
「あぁ~……」
俺とカテリーヌがすれ違い始めたのは、そこからだった。
◇◇◇
『クロヴィス様、アルテ伯爵家のルゼリア様から求婚されたというお話は本当ですか?何故私を夜会に伴ってくださらなかったのです?』
『夜会だなんて聞いていなかったんだ……。前アルテ伯爵夫人は絵本の収集家で、珍しい言語の蔵書が沢山あるから是非見に来てくれと招待されただけだったんだよ……』
『……わかりました。今後はそのようなお誘いを受けたら、必ず私を伴ってください。貴方の補佐をするために婚約者になったのですから、社交は私が引き受けます』
『それは助かるよ。ご婦人方との交流は君に任せて、俺は自分の専門分野の話に徹しよう。カテリーヌが同伴してくれるなら心強い』
『ふふっ、お役に立てそうで何よりです。クロヴィス様がご自身のことに集中出来るよう、精一杯お支えしますわ』
しかし、その時には既に相当数の社交の場に一人(ないしは研究仲間などの同性)と出席した後だったため、多くの令嬢にカテリーヌの存在が軽んじられるようになっていた。
『商売で成り上がった家の次女なんて、いずれ仕官するクロヴィス様に相応しくありませんわ』
『カテリーヌ様は学園での成績もあまりよろしくないようですし、クロヴィス様とは合わないのではないでしょうか』
『我が家は代々城の文官を輩出する家系で、弟も外交官を目指しておりますのよ。是非我が家にいらしてお話しませんこと?』
俺自身は自分にない物を持っているカテリーヌを尊敬していたし、成績優秀では決してないけど家格に相応しい成績をきちんと維持している彼女に好印象を持っていた。だけど、あちこちの社交の場において彼女の評判はあまりよろしくない。カテリーヌ自身も、何故だか少しずつ成績を落としていった。
「王家の覚えもめでたく将来安泰な侯爵家の次男なんて、婚約者が決まっていない同年代のご令嬢からしたら超優良物件ですからね。カテリーヌさんの評判を下げて蹴落として、その座を奪おうとするご令嬢だらけでしょう」
「ですが、カテリーヌは実際に成績を下げましたし……」
「あなたに同伴するために、事前準備も含めたら結構な時間を費やしたのではないでしょうか。ギリギリで成績を維持していたなら、勉強時間を削られて大変だったでしょうね」
以前母から『勉強が好きな人は、試験前に詰め込み学習をしないのね。母さんはあまり成績がよくなかったから、試験前はそれはもう大変だったのよ……』と言われたことを思い出した。カテリーヌを同伴することは彼女にとっても良いことだとばかり考えていたけど、それだけじゃないのかもしれない……と、俺はこの時初めて思った。
だけど、俺にとっては社交の場で得難い出会いが沢山あるので、どれ一つとして欠かすことは出来ないのだ。
「夜会の場には著名な研究者や、他国の外交官が来ることも多いのです。婚約者探しに夢中な令嬢ばかりの茶会と違って、夜会はパートナーを同伴している参加者ばかりなのでカテリーヌも他の令嬢から蔑ろにされることはありません。貴族としての社交は彼女に任せて、俺は多くの人との私的な交流を楽しんでいたのですが……」
◇◇◇
『クロヴィス様、今月はいくらなんでも社交の参加が多すぎます。こちらの招待は断るようにして……』
『いや、それは出来ない。この夜会には宰相夫妻が来るんだ。奥方はキャベル王国の出身で、元外交官だと聞いている。交流を深めるいい機会なんだ』
『……では、アルテ伯爵家のお茶会は断ってくださいませ』
『アルテ伯爵夫人は、ルゼリア嬢がカテリーヌを蔑ろにして俺に求婚したことを謝罪したいので是非二人でと招待してくれたんだ。それを断るなんて……』
『ルゼリア様は私に謝罪する気なんてありませんわ。昨日も学園で嫌味を言われましたし、成績優秀な自分の方がクロヴィス様に相応しいと言って憚らないので、その招待も裏があるに決まっています』
『考え過ぎだろう、あちらに失礼じゃないか。そんなことより、再来週はイメリタの王太子殿下が我が国を正式に訪問される。しばらくはそちらの準備があるから――』
『もう結構です!失礼します!!』
カテリーヌはそう言って屋敷から出ていった。何事かと慌てた兄が様子を見に来たので一連の出来事を話したら、やんわりとだが窘められた。カテリーヌにあまり負担を掛けるのはよくないというようなことを言われたので、そもそも俺の補佐をするための婚約者なのにおかしくないか?という気持ちもあったが、社交的で友人の多い兄の言うことなので、大人しく聞き入れておくことにした。
「それから先は、どうしても婚約者を同伴しないといけない場にしかカテリーヌは連れて行きませんでした。それで時間が出来たカテリーヌは、アンドレアという役者に入れ込むようになったのでしょう……兄の助言が裏目に出たのです」
◇◇◇
出会った頃のカテリーヌは、俺の話をいつだって興味深く聞いてくれていたし、世界中の言語に触れたいと言う俺の夢を応援してくれていた。外交官としての仕官が決まった時は祝いの品を贈ってくれて、我が事のように喜んでくれた。それが今では、彼女の美点だと思っていた正直で真っすぐなところや思ったことを自由に口に出す性格を煙たく感じるし、俺と見えている世界が違い過ぎて話が通じないことが多々ある。共に居ても楽しいと思える時間がほとんどなく、学問に向き合っている時間の方がよっぽど有意義だと思うようになった。
「だけど、外交官になれば夫婦で行動することを求められる場面が多くなります。彼女の向き不向きはもはや関係ない、補佐をしてもらわないと困るんです。ましてや俺が仕事で得た給金をカテリーヌが役者につぎ込むなんてあってはならないことです!」
思わず語気が荒くなってしまう。
「仕事で必要、というのがあなたが婚約を継続したい理由ですか?」
「そうです。他のご令嬢と婚約するとなると、両家の挨拶やら何やらで時間を取られてしまいます。卒業後はすぐに仕事に打ち込みたいので、そんな些事に時間を費やすのはご免こうむりたい。今なら他のご令嬢と改めて婚約することも難しくなさそうですが、カテリーヌは母が見付けてきてくれたので……」
彼女との婚約を破棄するのは、母にも悪い気がしてきた。どうにかして現状を維持しつつ、カテリーヌの劇場通いを辞めさせる方法はないだろうかと考えていたら、思いもよらないことを提案された。
「なるほど、よくわかりました。いっそのこと、誰とも婚約せずにしばらく独り身を貫くのがあなたの性に合っているのではないですか?」
「俺だって許されるならそうしたいです。だけど、外交には妻を伴う必要が――」
「そんな慣例の為だけに、人一人の人生を費やすなんて馬鹿げていると思いません?」
それまで穏やかな口調だった相談員が、一瞬だけ氷のような冷たさを湛えた。
「誰もやっていないなら、あなたが前例になればよいのです。妻を伴わずとも自分の出来る範囲で社交をこなし、仕事を疎かにしなければ、珍しがられることはあっても咎められたりはしないでしょう」
「俺が、前例に……」
「外交官だから妻がいないといけない、貴族の夫人だから夫に尽くさなくてはいけない、妻は家庭を守る分夫の稼ぎを自由にしてもいい……夫婦間で納得しているならまだしも、そうじゃないなら、どれもおかしいと思いません?」
そう言われてみると、そういう物だと思い込んでいたけど納得できる理由は特にないな、と感じた。
「ここには、色んな事情を抱えた人が相談にやってきます。婚約者以外の女性を好きになってしまった人、婚約者に二股を掛けられていた人、家庭の事情でどうしても婚約を維持出来なくなってしまった人……本当に、人の数だけ事情があるんです。そんな中でも、あなたは自身の行動を誰にも制限されていません。自由に道を選べるなら、なるべく誰も傷つかないやり方を選んでみませんか?」
◇◇◇
「フィルにしては珍しいわね」
「所長?」
「どちらかというと、婚約を解消させるよりも継続させることに注力しているじゃない」
「そうですかね。俺としては、あまりそういうつもりはなかったんですが……」
所長の指摘を受けて考えてみたが、たまたまそういう事例に立ち会うことが多いだけだ。ただ、婚約や結婚が原因で不幸になる人間を一人でも減らせたらそれでよいのだと考えているだけである。
「まぁ、クロヴィス・バーチュは根っからの研究者気質のようだから、結婚相手にはそれ相応の覚悟が必要でしょうね。クロフト伯爵令嬢は家庭や夫を支えることに徹するよりも、自分の才覚で表舞台に立つことの方が向いてそうだし、これでよかったんじゃないかしら」
「俺は所長ほど生徒たちの気質を把握してるわけじゃないので、そう言ってもらえてホッとしました」
「いつも言ってるけど、私たちはただ相談に乗るだけ。最後に決めるのはあの子たち自身だから、そこまで気負わなくても良いのだからね」
優しく微笑んで去っていく所長を見て、苦い思いが胸をよぎる。
「……俺もあなたも、自分で決められたらよかったんですけどね」
◇◇◇
カテリーヌとの婚約を解消して五年経ち、23歳になった俺は外交官として順調に歩みつつ古代言語の研究を継続して取り組み、充実した日々を送っていた。新たな婚約は調っていないが、家族からも急かされておらず、仕事で成果を出し続けているうちは目こぼしされているような状況だ。母に至っては「この先の人生、一人で過不足なく生きていけるよう備えなさい」と繰り返し言ってくる有り様だ。これはこれで母の愛情の形なのだろう。
「ルスト、おめでとう」
「クロヴィス!来てくれたのか!!」
「大事な同期の結婚式なんだから、そりゃ来るさ。招待ありがとう」
職場環境も快適で、こうして忙しい合間を縫って同期の結婚式に顔を出すこともある。あちこちで揉まれたお陰で、昔に比べると随分社交性が身に着いた。
「今日は妻の親戚筋から、劇場で一番人気の歌姫が来ているんだ。異国の聖歌を余興で披露してくれることになっているから、楽しんでいってくれ」
「へぇ、それは珍しいな」
ルストに促され手元の式次第を読んでみると、そこには”国立歌劇場所属 アンドレア・ティルテ”と記されていた。
「アンドレア……アンドレアって、あの!?」
「クロヴィスも知っているのか?俺たちが学生の頃、新進気鋭の男装の麗人が舞台に現れたって随分評判だったらしいな。俺は嫁さんから聞いて初めて知ったんだが」
「……女性だったのか」
どうやらカテリーヌが入れ込んでいたのは同性の役者だったらしい。この国ではアンドレアは男性名だが、アンドレアは父親が他国の出身なこともあり、そちらの国では女性名として人気の名前を付けられたらしい。今の今まで男だと思いこんで疑いもしなかった。5年も経ってからその事実を知って何かが変わるわけではないが、カテリーヌが俺以外の異性に惹かれてショックだった気持ちが幾分か和らいだような気がした。
(そもそも、カテリーヌの心の隙間に何かが入り込むような原因を作ったのは俺だから、完全に自業自得だ……)
挙式中、緊張しているのかいつもより動きが鈍く見えるルストと、ルストより二歳年上の落ち着いた新婦がそっと寄り添っている姿を見て、自分が得られなかったもののことを考える。あの頃の未熟な自分のままカテリーヌを家に縛り付けて不自由な思いをさせるより、潔く婚約解消した方がよかったことは間違いないのだが、それでもこうして幸せそうな同僚を見ているとなんとも言えない気分になる。
(感傷的になるのは今日だけだ。明日からはまた忙しくなるぞ)
仕事半分趣味半分で取り組んでいる古代言語の研究の一貫で、この国では既に失われた古い文化や風習についての資料の解読がひと段落したので、明日からは発表について段取りをしていかねばならない。元同級生や同期達とは違う形だけど、自分は自分なりに幸せを掴んでいるので、これで充分だ。
◇◇◇
と、思っていたのだが。
「まぁ、クロヴィス様。お久しぶりです」
「カ、カカ、カッ、カテリーヌ、か?」
王立図書館に立ち寄った帰りに、カテリーヌと遭遇した。
こんな至近距離で彼女の顔を見て声を聴くのは実に5年ぶり――婚約解消を申し入れた日以来だ。
「今日は王太子妃様のおつかいで来たんですの。クロヴィス様もお仕事ですか?」
「あっ、あぁ。そんなところだ」
婚約解消後、同級生だった第一王子の婚約者から『自分の元でその才覚を生かしてみないか』と直々に誘われたカテリーヌは、順調に王太子妃となったその御方の女官を務めている。風の噂程度にしか知らないが、王太子妃の信頼を得ていて女官では出世頭なのだとか。
「ご活躍は聞き及んでおります。お忙しいようですけど、お体には気を付けてくださいね。では……」
「ま、待ってくれカトリーヌ!君に、謝りたいことがあるんだ!!」
「え?」
今日ここで言わなければきっと一生伝える機会は訪れないので、恥を忍んで思い切ってカテリーヌを呼び止めた。
「俺は、君が役者のアンドレアに入れ込んでいると聞いて、嫉妬したんだ。俺よりその役者の方がいいのかと」
「……クロヴィス様?」
「つい先日まで、アンドレアを男性だと勘違いしていたんだ!俺じゃない異性に君が惹かれたのだと、ずっと思い込んでいたんだ!!!」
「ずっと、ですか?五年間も?」
「あぁ、その通りだ」
勢いで言い切ってしまったが、ぽかんとした表情のカテリーヌと俺の間になんとも言えない沈黙が流れ、いっそ走って逃げだしたい衝動を必死で抑えていたら、堰を切ったように彼女は笑い出した。
「ふ、ふふっ、あはははは!!!!」
「カ、カテリーヌ?」
「クロヴィス様ってば、そんな思い詰めたお顔で何を言い出すのかと思いましたわ!」
こんなにも笑い転げているカテリーヌは、関係が良好だった時もついぞ見たことがない。
「……俺としては、大変な衝撃だったんだ。いつも支えてくれる優しくて聡明なカテリーヌが、市井の役者に入れ込んでパトロンになろうとしていると噂で聞いて、とても平静ではいられなくて……」
「いやだ、その噂をご存じでしたの?婚約解消のときはそんなこと一言もおっしゃらなかったではありませんか」
「解消したのは、それが原因ではないからだ。当時も言ったけれど、俺はあまりにも君の夫となるには不適格だったから、婚約解消を申し入れたんだ。確かに君が他の異性に惹かれていると思って衝撃を受けたし落ち込んだけど、それとこれとは違う問題だから」
「……そうでしたのね。クロヴィス様、この後少しお時間をいただけませんか?」
「カテリーヌ?」
「私、今日はこのおつかいの後長めの昼休憩をいただいているのです。よければ昼食をご一緒しませんか?昔、言葉にしなかったことや、最近どのようにお過ごしになっているのか、クロヴィス様と話をしたいのです」
「カテリーヌ……あぁ、俺も、君の言葉が聞きたい」
言語は、人と人とが円滑に交流するための最も優れた手段だ。ずっとそう思っているけれど、かつての俺はそれを実践できていなった自覚がある。こうして再び言葉を交わす幸運を得られたのだから、今度こそ彼女の言葉を聞いて受け止めたい。そして、許される限り俺の言葉を彼女に届けたい。
「では、まいりましょうか」
「あぁ……ありがとう、カテリーヌ」
俺がそう言うと彼女は、花がほころぶように笑った。
王太子妃は、自分が選ばなかった婚約解消の道を選んだカテリーヌに興味津々で
彼女を自分の手元に置きました。結婚適齢期を超えたカテリーヌの幸せを願っているけど、望まない縁談は決して持ち込まない王太子妃です。
幸福の形は人それぞれなので、本人がせめて自分で歩みたい道を進めるよう手助けをしたい相談員たち。
お読みいただきありがとうございました!