【コミカライズ化】モップ令嬢の幸せな結婚【発売中】
「これは招待状というより召集令状だ」
家族の集う夕餉の後、そのテーブルにてクラーク侯爵は硬い表情でそう言った。
「召集令状、ですか」
嫡男のジュードが侯爵の言葉を受けると、ゆっくりと侯爵は話を始める。
「此度の夜会には、伯爵家以上の貴族令嬢が招待されている。条件があり、令嬢を同伴した父親もしくは兄のみだ。娘は複数連れてきてもよいが、夫人の同伴はなしだ」
「あら、わたくしはお留守番ですの?」
「仕方がない、今回はどの家もそうなのだ。これは王太子殿下の婚約者選びを目的とする夜会だという。我がクラーク侯爵家もエルシーとリーゼロッテを、私とジュードがそれぞれエスコートしていくことになるだろう」
「……あの、お父様、申し上げてもよろしいでしょうか」
エルシーが珍しく口を挟む。
「クラーク侯爵家から夜会に出席するのは、リーゼだけでよいのではないでしょうか。王太子殿下の婚約者選びが目的ならば、わたくしは必要のない人間です」
「普段の夜会ならそれで構わないが、今回はそうはいかないのだ。主だった貴族の未婚の娘で、婚約者がいなければ必ず全員参加するようにとある。我がクラーク侯爵家に適齢期で婚約者をまだ決めていない娘が二人いることは、誰もが知っているのだ」
「……そうですか、承知いたしました……」
沈んだテーブルに、侯爵夫人が朗らかな声で言う。
「それならエルシーのドレスを急いで作らなくてはならないわね。もう一年もドレスを作っていないのではなくて?」
「お母様、お姉様が最後にドレスを作ったのは二年も前ですわ。その間にさらに背も伸びているかもしれませんから、お姉様に新しいドレスは必ず作らなければなりませんわ!」
クラーク侯爵夫人と妹のリーゼロッテは、エルシーのドレスの心配をしている。
ドレスに袖を通すのはどれくらいぶりになるだろうかと、エルシーは暗い気持ちになった。
夜会に出たところで王太子殿下に見初められることはないだろうが、ドレスを着ることを考えるだけでも気持ちが沈んだ。
エルシー・クラークは侯爵家の長女で、嫡男の兄ジュードと妹の次女リーゼロッテがいる。
跡継ぎとしての資質に申し分のないジュードと、愛らしく慎ましいリーゼロッテの間で、エルシーは自分だけがこの家で要らない存在だと思っていた。
この国の平均的な男性よりも高い身長、女を彩る柔らかな肉がない薄い身体。
父と兄と同じ濃い藍色の髪は、癖があってうねっている。
しかも長いと一つにまとめても剣術の時に動きづらいと、貴族令嬢には珍しく肩のあたりまでの長さしかない。
母によく似たハニーブロンドの髪を持ち、柔らかそうな身体つきの妹リーゼロッテとは何もかもが違っていた。
背が高く痩せていて、うねった短い髪のせいで密かに『モップ令嬢』と呼ばれていることをエルシーは知っている。
外見に女性らしさが乏しいだけではなく、エルシーは幼い頃から兄と軍隊人形で遊ぶのが好きで、兄と一緒に剣の鍛錬にも参加していた。
王立貴族学園でも政治学や軍事学を選択し成績も良く、『女子にしておくのは惜しい』と言われている。
ただそれは褒めているのではなく、女らしくないことを揶揄したものだった。
そんなエルシーは、普通の貴族令嬢のように生きることを諦めている。
侯爵家を継ぐ兄ジュードはその自覚も能力も持ち、何の問題もない。
妹リーゼロッテは美しく可愛らしいだけではなく勉強家で、長女の自分さえ片付けばすぐに父はリーゼロッテに相応しい家柄の婚約者を決めるだろう。
自分が居なくなってもクラーク侯爵家には特に問題はなく、兄の結婚後のことなどを考えればむしろ居ないほうがいい。
エルシーの華やかなものに興味がないところは、『出会う時には美しく装っていて欲しい、結婚したら堅実に慎ましく家を守って欲しい』という世の男性の身勝手にも思える要求に、結婚後の部分だけは十分に応えられそうではある。
ただ、エルシーの女性らしさに欠けるあれこれのうち、多くの男性と同じくらいかそれ以上という高身長が、どうにも問題だった。
男性たちにとって、髪が暗い藍色であるとか板のように薄い身体つきであるということは見下すことができても、高身長を『女らしくない』と見下そうとするとコンプレックスとして自分に跳ね返ってくる。
それだけではなく、周囲からも身長を気にしているのねと己の器を小さく見られてしまう。
そのため賢い男性からこそエルシーは避けられていた。
エルシーは、学業を修めたら家庭教師になりたいと思っている。
結婚はしないだろうが子どものことは好きだった。
剣の覚えもあるので館の中での護衛ならば、大切な娘の近くに女性を置きたいという需要はそれなりにあるのではないか。
クラーク侯爵家を出て住み込みで働ければと、そんな未来を思い描いていた。
ところが、王太子の婚約者選びの夜会にて、エルシーの人生は本人や家族が思っていたものとはまったく違う方向に進むことになってしまった──。
***
王太子であるルーベンは年明けに十九歳になる。
この年まで婚約者がいないのは、王がルーベンの婚約者選びの最初にルーベンの意志を尋ねてしまったせいだった。
夜会やお茶会の席での貴族令嬢たちの、どの者が目に留まったか──。
ルーベンは、王からのその問いに『気になる令嬢はおりませんでした』と答え、それからずっと同じ答えを繰り返している。
王は、王命として最初に決めてしまえばよかったと思っても、最初に物分かりのいい『父』を演じてしまい、今更押しつけることもできないままここまで来てしまった。
ルーベンより二つ下の第二王子エリオットには婚約者がいて、決まってから四年になる。
王太子であるルーベンの結婚を待っていたが、いまだルーベンの婚約者は決まらず、さすがにこれ以上エリオットの結婚を待たせるわけにもいかなくなってきた。
王と王妃はルーベンに、これ以上婚約者選びに時間をかけることはできないと告げた。
王国の安定のためにも次の夜会で必ず決めるように、ルーベンの目に留まる令嬢がいなければこちらで決定する。これは王命だという陛下の言葉に、ルーベンは『かしこまりました』と答えるしかなかった。
学園に在籍していた頃は、ひたすら逃げていた。
ルーベンには婚約も結婚も誰ともする気持ちがなく、自分は王になる資質を持っていない、そう思っていた。
ルーベンは綺麗なものや可愛いものが好きだった。
剣を持つより針を持つほうが好きで、幼い頃に母にもらったクマのぬいぐるみの服を縫うのが唯一の趣味だった。
これひとつなら、私室の部屋の片隅にあってもそれほどおかしくはない。
クマのぬいぐるみがこまめに衣装を替えていることに、気づく者はほとんどいない。
本当はベッドに美しいレースの天蓋が欲しかったし、私室の壁紙は淡いピンクの小薔薇柄がよかった。
王太子の部屋が優美な曲線を持った白い家具とピンク色の小薔薇柄であるわけにはいかず、調度品はダークウッドの家具に紺色を主体にしたシックな感じにまとめられている。
何でも手にすることができそうな王子という地位に生まれながら、ルーベンが本当に欲するものはほとんど何も得られなかった。
十八歳を過ぎてから、ルーベンは本格的に人生を諦めはじめた。
王太子という椅子から正当な理由もなく降りるとなると、周囲を巻き込んで不幸にするだけではなく、国を不安定にもする。
ここまで脈々と受け継がれてきたものを、断ち切る勇気もない。
民や領土を守る気持ちはもちろんあったが、自分のような者がいずれ王の椅子に座ることが許されるのかという思いに囚われていた。
もう誰かに婚約相手を決めてもらい、粛々と王国の王太子として、未来の王として生きるしかない。
ルーベンは己を捨てる覚悟を決めたのだった。
***
厭世的な気持ちでいるルーベンを置き去りに、ルーベンの婚約者を定める夜会は華やかに煌びやかに始まった。
国王と王妃のファーストダンスが終わると、父や兄にエスコートされて着飾った令嬢たちのドレスが宮殿のフロアに咲いた。
宮廷楽団の奏でるメロディーが穏やかなものに変わり、ドレスの間を給仕の者たちが銀の盆にグラスを載せて縫うように歩いている。
ルーベンもその人波の中を、微笑みを貼り付けて歩いていく。
令嬢たちのドレスや宝飾品を見るのは楽しかった。
時には立ち止まって令嬢の父親と会話をする。
あくまでも自然に見えるように、令嬢たちを褒めながらドレスばかりを見ていた。
そうしているうちに少し疲れ、ホールから出ると何やら女性たちの声が聞こえてきた。
ひそひそ話でありながら、あまりひそやかではない音量だった。
「あの方をご覧になって? 私の兄よりも背が高い令嬢なんて初めてお目にかかりましたが、ドレスは似合っておりませんわね」
「確かに、モップにドレスを着せてもあの方より上手に着こなせそうですわ」
「ドレス職人もお気の毒ですわね」
「そうだわ! あの方、兄の同級生のご令嬢かもしれませんわ。何でも剣がお強いとかで、兄が言うには男子の名簿にその名を載せるべきだと……」
品の無い会話をしている令嬢たちの目線の先に、ルーベンよりも背が高く見える令嬢が一人佇んでいた。
令嬢たちがチラチラと自分を見て囁いている声も聞こえているだろうに、ただ黙ってそこに立っている。誰かを待っているのだろうか。
うな垂れるでもなく背筋をピンと伸ばして、空のグラスを所在無げに持っている。
令嬢にしては珍しい短い髪のサイドを編み込み、片側に小さな飾りピンがあった。
紺色のドレスは光沢があり良い生地のようだが、シンプル過ぎるように思える。
だが、ホールで見てきたどの令嬢よりも目立たない装いに、逆に興味を持った。
ルーベンは給仕を装った自分の護衛騎士の銀盆からグラスを二つ取り、
「あの背の高い女性の空のグラスを回収したら、彼女の家のことを調べてくれ」
そう囁いた。
給仕姿の護衛騎士は朗らかに女性たちの間をすり抜け、目当ての令嬢に軽い礼をして空いたグラスを盆に載せる。
この護衛騎士は、近衛ではなく諜報部に所属している者だ。
ルーベンは、その令嬢が手持ち無沙汰になる前に、タイミングよくグラスを持って行った。
「ご令嬢、良ければこちらを」
背の高い令嬢は驚いたように目を見開き、『ありがとうございます』と小声で言い、緊張した面持ちでルーベンの差し出したグラスを受け取る。
アルコールの入っていない林檎の炭酸水だとルーベンが言うと、安心したように小さく微笑んだ。
「少しあちらで休みませんか」
ルーベンは自分のグラスを少し持ち上げ、バルコニーのほうを見やり歩き出す。
品のない噂話をしていた令嬢たちは、青ざめて二人を見送ることになった。
***
エルシーは自分にグラスを渡してくれたのが、今夜の主役ルーベン王太子殿下だと気づいたものの、後についていくしかなかった。
あのように高身長を揶揄されることはよくあるが、実害がないのでいつも放置していた。
でも、王家主催の夜会の場とあっては、何らかの対応をすべきだったのかもしれない。
王太子殿下は開け放ってある広いバルコニーではなく、その先の少し小さなバルコニーに出た。
優雅な庭を斜めから見渡せるバルコニーに、ホールの喧騒は届かない。
エルシーはホールで感じていた場違い感より、王太子殿下の近くにいる緊張感のほうがまだ耐えられそうだった。
「華やかなホールから逃げ出す共犯にしてしまい申し訳ない」
「とんでもないことでございます」
エルシーはそう答えたもののそこからうまく話を繋げず、少しの沈黙の後に王太子殿下から渡されたグラスを空にしてしまった。
エルシーのドレスの裾に触れない距離にいる王太子殿下も最後のひと口を飲むと、音もなく現れた給仕が二つのグラスを回収し、新たなグラスを二人に手渡した。そして去り際に、殿下の耳元で短く何か囁いた。
エルシーは給仕の手に剣ダコがあるのを見て取り、給仕を装った殿下の護衛なのだと気づいた。思わず自分の手を見るとそこにも給仕と似た剣ダコがある。
殿下の護衛と似た手をしている自分は、ドレスが似合わないと揶揄されても仕方がなかった。
「先ほどの女性たちは淑女とは思えない話をしていた。背が高いのは素晴らしいことだと思う。どんなドレスも美しく着こなせるではないか」
「ドレスを着たのは久しぶりのことですから、似合わないのは本当なのです。あのような言葉は聞き慣れております。このとおり男性よりも背が高く、板のような身体ではドレスは着こなせません。せめて柔らかい肉が付いていればよかったのですが……」
「深い紺色にメレダイヤを散りばめたドレスは夜空のようで美しく、あなたにとてもよく似合っている。その胸元に三日月を模したブローチを着けたなら、まるで今宵の夜空だ」
思わずエルシーは空を見上げた。
そこには数多の星があり、瞬きのたびに光が揺れている。
薄い三日月が、星たちに優しく寄り添うように空にあった。
「おっしゃるとおりに飾りましたなら、この寂しい胸元も少しは華やぐところでした」
「あっ、そういうつもりではなく……」
ルーベンは、エルシーの今宵の装いが不完全だと言ってしまったような自分の言葉に慌てる様子を見せた。
「不敬な物言いを、申し訳ありませんでした。殿下のご提案がとても素敵なものでしたので、次にこのドレスを着ることがあれば、是非そのように飾ってみたいです」
ルーベンは、エルシーの会話運びに好感を持った。
自分の失言とも取れる言葉にも動じることはなく、柔らかく温かく返してきた。
ルーベンもそっと夜空に目をやる。
寂しい暗闇に、小さな星たちが控えめな光を放っていた。
道標となるはずの月も今宵は薄く細く、静かに夜空にある。
この夜空のすべてが、目の前にいる令嬢に似ているとルーベンは思う。
そしてその佇まいはルーベンにとって、好ましいものだった。
「あなたのことを聞かせてもらえないだろうか。エルシー・クラーク侯爵令嬢。これまで夜会で見かけたことがないように思うのだが」
突然名前を呼ばれたエルシーは、ハッと王太子殿下を見る。
今日は低い靴を履いているがこうしたドレスに合う高いヒールを履けば、王太子殿下よりも背が高くなってしまう。
今は目線が同じ高さだ。
その王太子殿下の目が優しく穏やかだったから、エルシーはこれまで誰にも言ったことのない自分の話を語り始めた。
私は子供の頃から、女の子が好むものを何も好まないおかしな娘でした。
人形遊びが好きでしたが、それはきれいなドレスを着せた人形ではなく、軍服を着た人形でした。
白い軍服を着た人形が青い兵士たちの人形を指揮するように置き、黒い軍服を着た敵方の人形と赤い兵士たちの陣形を整えます。
川に見立てた水色のショール、背後には山に見立てたクッションを置き、ショールの川を挟んで両軍がにらみ合う形を作る、一人でそんな遊びをしていました。
兄と一緒に剣を取り、毎日鍛錬をしました。
最初はお嬢さんの戯れと適当に相手をしていた家の者たちを次々負かすようになってからは、誰も剣を持って向かい合ってくれなくなりました。
主の娘である私に勝っても負けても、彼らにいいことは一つもなかったせいだと気づいたのはずいぶん後のことです。
学園でも女友だちができませんでした。
彼女たちの会話は私にとって退屈で、私の話は彼女たちにとって興味がないのです。
私は親しくなる努力もせずに、静かに一人で過ごす方を簡単に選んでしまいました。
今日の夜会は、王太子殿下の婚約者探しの意味があると伺っておりました。私はこの場に相応しくありません。結婚を考えたことがないのです。
生涯誰かに嫁ぐつもりがないにも関わらずやって来てしまいましたが、冷やかしのつもりはございませんでした。
このような私が大切な夜会に参加してしまい、申し訳ありませんでした──
エルシーは深々と頭を下げた。
自分のことなど人に話したこともないのに、初対面である王太子殿下に長々語ってしまったことを今更のように恥じ入った。
殿下の優しい眼差しは、ぬるま湯のように心地よく、うっかり調子に乗り過ぎてしまった。
申し訳ない気持ちになりながら、もうこれでこのような夜会に出なくても咎められないのではないかという期待もほんの少し生まれた。
(自分のような者にさえ優しさを見せてくださる王太子殿下には、早くそのお立場に相応しい素敵な婚約者を見つけてほしい)
エルシーはそっと祈った。
「エルシー・クラーク侯爵令嬢、あなたの話を聞けてよかった」
ルーベンはバルコニーを飾っていたバラを一輪手に取り、エルシーの髪のシンプルな飾りピンの横に挿した。
白い花びらの中心だけが淡いオレンジ色の、王宮でしか咲いていない貴重なバラだ。
王宮内を飾るバラはすべて棘の処理がしてあった。
藍色の髪に、そのバラはとても映えた。
「うん、よく似合っている。あなたはもっと華やかでいい」
「あ、ありがとうございます。今夜は王太子殿下とお話をする幸運を賜り、よい思い出ができました。これにて失礼いたしますことを、どうかお許しください」
エルシーは淑女の礼をして下がり、ドレス姿で駆け出した。
ルーベンはその後ろ姿を見送りながら、
「あの令嬢に決めたい」
そう呟くと、国王と王妃の元へと急いだ。
ルーベンは、クラーク侯爵令嬢のように駆け出したい気分だった。
***
侯爵家に戻ると、エルシーは王太子殿下が髪に挿してくれたバラを小さなグラスに入れた。
このように短い花を活ける可愛らしい花瓶は、エルシーの部屋にはない。
そのグラスを窓辺に置いて、今日のできごとを思い出していた。
自分よりも華奢に見えた王太子殿下は、肩に届くほどの金色の髪と青い瞳を持っている。
バルコニーの灯りがその瞳に映り、不敬だと解りながら目を逸らせないほど美しかった。
エルシーのような者にも優しく、男性の容姿に特に興味を持たない自分でさえ綺麗だと思うほどの王太子殿下に、どうして婚約者が決まらないのか不思議だった。
父と兄も、王太子殿下の政務は誠実で下の者の意見もよく聞くと評価していた。
ただ、王太子殿下のお優しい面は、そのお立場にとっては良いことばかりではないかもしれないとも思った。
上に立つ者は非情でなければならない時もある。
一つを選ぶことはそれ以外を捨てることでもあって、婚約者選びもまさにそうだろう。
自分の好みだけで決められるわけでもなく、一人を選べばそれが何かの均衡を壊すこともある。
王太子殿下の優しさが意外な弊害となって、ここまで婚約に繋がらなかったのだろうか。
「ルーベン王太子殿下に、幸せが訪れますように」
エルシーは可憐なバラに指先でそっと触れ、祈るようにそう呟く。
窓の向こうの暗い空には、殿下と見上げた三日月と星が瞬いていた。
***
ある日、いつものように政務のために登城したクラーク侯爵が、いつもとは違って早い時間に青ざめた顔で家に戻ってきた。
「旦那様、何かございましたか……」
只ならぬ雰囲気を察知した家令が、小声で尋ねる。
「緊急事態が発生した。エルシーはどこだ、私の部屋に呼んでくれ。ああ、家族全員を私の部屋に呼ぶように」
「旦那様、エルシー様とリーゼロッテ様は学園に行っておりますが」
「今すぐ馬車で迎えに行ってもらいたい、すまないが急いでくれ」
クラーク侯爵の尋常ではない様子に、家令は転ぶように部屋を出て行った。
同じ馬車で学園から戻って来たエルシーとリーゼロッテがクラーク侯爵の執務室に入ると、クラーク侯爵夫人と嫡男ジュードがソファに座っていた。
全員が揃うとクラーク侯爵が口を開く。
「大変なことになった……エルシーを……ルーベン王太子殿下の婚約者として迎えたいと陛下直々にお言葉を賜った。今日この後、殿下が我が侯爵家にお見えになることになったのだ!」
「まあ!」
「なんと!」
「……いったいどういうことでしょうか」
「素敵だわ!」
皆の口から一斉に言葉が漏れたが、クラーク侯爵はエルシーにだけ答える。
「いったいどういうことかというのは私がエルシーに聞きたいことだ。あの夜会で何があったのだ」
「……少し……王太子殿下とお話を……いたしました……」
「何を少し話したら、このようなことになるのか……私は何も聞いていないぞ」
「お父様に報告すべきようなことは、何もありませんでしたので……」
「陛下から『王太子がエルシー・クラーク侯爵令嬢とクラーク侯爵に話をつけてください、彼女と婚約を結びたいと嬉しそうに言ってきた』と、そう伺って私は眩暈がした……」
眉間を押さえたクラーク侯爵の言葉を継ぐように、ジュードが口を開く。
「父上、何か行き違いがあったのではないでしょうか。あの日の夜会で殿下が見初めたのはリーゼだったのでは? エルシーは真面目で努力家で、兄目線なら見た目も悪くないと感じますが、夜会のように着飾った令嬢たちが一同に集う場所で、殿下の目を惹くとは正直思えません。背が高く髪の短いエルシーをモップと揶揄する声すらあるほどです。夜会でも暗い色のドレスに、地味過ぎる髪飾りを着けて行ったではありませんか。会場で給仕をしていた女性のほうが華やかなくらいでした」
「お兄様、それはちょっと悪口では……」
「リーゼ、お兄様は間違ったことは言っていないわ。自分でもそう思っているもの……」
「私も畏れ多くも陛下につい確認をしてしまった。それは本当に当家の長女エルシーのことでしょうかと。もしかして次女のリーゼロッテではありませんかと。すると陛下は──」
言葉の途中で執務室のドアが開き、顔面蒼白な家令に案内されて入ってきたのはルーベン王太子殿下だった。
「約束の時間よりずいぶん早く到着してしまってすまない。クラーク侯爵、私が婚約を結びたいのはエルシー嬢で間違いはない」
「王太子殿下!」
全員が立ち上がって敬意の礼の姿勢を執る。
少しの間の後エルシーが恐る恐る顔を上げると、薔薇の花束を持った王太子殿下が立っていた。
後ろには、同じく花束を持った護衛騎士たちもいる。
「こちらは、夜会に招待できなかったクラーク侯爵夫人に」
王太子殿下は、クラーク侯爵夫人に真っ赤な薔薇の束を手渡した。
「こちらはピンク色のドレスが艶やかだった妹君に」
護衛騎士から受け取ったピンク色の薔薇の束を、リーゼロッテに手渡す。
「そして、エルシー・クラーク侯爵令嬢、あなたにあの夜と同じこの薔薇を」
クラーク侯爵夫人とリーゼロッテに渡した薔薇を合わせたものよりも大きな、中心が淡いオレンジ色をした王家の白い薔薇の花束をエルシーに手渡した。
「本日はエルシー・クラーク侯爵令嬢に結婚を申し込みに参った。まずは婚約を結びたい、どうか私の心を受け入れてもらえないだろうか」
「殿下、どうぞあちらのお部屋に……」
クラーク侯爵は王太子殿下を、貴賓室のほうへ促そうとした。
「侯爵、すまないがエルシー嬢と二人で話がしたいのだが」
するとそれまで黙っていたエルシーが口を開く。
「それでしたら、わたくしの部屋にお越しいただくのはいかがでしょうか。ドアは開け放ち殿下の護衛の方々全員に入っていただきますので、お父様、よろしいでしょうか」
「あ、ああそのようにするのがよいな……。では王太子殿下、エルシーの部屋にお茶のご用意をいたします。狭苦しい部屋ではございますが、ごゆるりとお過ごしください」
家令がエルシーの腕の中の薔薇の花束を受け取り、エルシーは少し先を歩いていく。
そして自室の前で立ち止まった。
「こちらでございます、皆さまどうぞお入りください」
護衛騎士は『失礼します』と先に部屋に入り、ぐるりと部屋の中を見て回る。
エルシーは、黙ってクローゼットルームのドアも開けた。
そちらも確かめた護衛騎士と入れ替わるようにエルシーの部屋に入ったルーベンも、部屋の中に目をやった。
その視線は、怪しいところがないかを調べる護衛騎士の目とはもちろん違っていた。
この部屋は女性らしさやエルシーの個性は感じられなく、まるで機能性を重視した無個性なホテルの部屋のようだとルーベンは思った。
王宮のルーベンの部屋も同じようなものだった。
自分の好きなものや好みの色の物は何一つ置かれておらず、子供の頃に母にもらったクマのぬいぐるみがあるだけだ。
エルシーもまた、寛げるはずの自室でさえその鎧を脱ぐことはできないのかもしれないと、自分のことのようにルーベンの胸で淋しさが軋む。
ふと、窓辺に置かれた一輪の薔薇に目が留まった。
少し俯いているが、あの夜会でエルシーの髪にルーベンが挿した薔薇だった。
あの時のエルシーの装いに失礼なことを言ってしまったにも関わらず、あの薔薇を捨てることなく生かしておいてくれている。
そのことにルーベンは勇気を貰った気がした。
「エルシー嬢、夜会のバルコニーではあなたの話を聞かせてもらった。今日は私の話を聞いてくれないだろうか」
「はい、是非お話を伺えたらと存じます」
ちょうど従者がワゴンでお茶を運んできた。
美しい白磁のティーセットはバラの模様が浮かび上がっている。
この無機質な部屋にもその可憐な茶器はよく映えていた。
茶を運んで来た者たちと同じくして、護衛騎士は部屋を出て廊下に立つ。
ドアは開け放ってあるが、部屋にはルーベンとエルシーの二人だけになった。
「二つ下の弟エリオットは優秀で性質も穏やか、立派な未来の王の器を持っている。偏頗な性質を持つ私は、王太子という地位をエリオットに譲るつもりだったのだ。
この手を見てくれ。私はこの剣ダコがある手を見るといつも泣きたくなった。
この手に剣など持ちたくないのだ。
私は縫物が唯一の趣味で、美しい布でたった一人の友人であるクマのぬいぐるみの服を縫うことだけを楽しみにしていた。
本当は、美しい物や可愛らしい物だけを回りに置きたい。
レースをふんだんに使ったドレスを着てみたい、ドレスとお揃いのパラソルを持って王宮の庭を歩いてみたい、そんなことを夢見ていた。
だが私の立場がそれを許してはくれない。
私は針やパラソルではなく、剣とペンを持って民を守らなくてはならない。
あの夜、バルコニーでグラスを持ったあなたの手に、私や護衛と同じ剣ダコがあるのを見た。
私と違ってあなたのそれは、大切な勲章なのではと思ったのだがどうだろうか」
ルーベン王太子殿下の話をエルシーは驚きながら聞いた。
ドレスを着てドレスとお揃いのパラソルを持って王宮を歩いてみたい──。
王太子殿下のその夢は、どうしたって叶えられそうにない。
エルシーが着るのが苦痛であるドレスを着てみたいと夢見る王太子殿下の哀しみが、その穏やかな口調からじんわりと伝わった。
自分と同列に考えるのは不敬だが、殿下が自分らしく生きることを諦めているのはエルシーと似ている気がした。
「はい。私はこの剣ダコがある自分の手に誇りを持っています。この剣ダコのある手で、自分の夢を掴むのだと思っていた無邪気な頃もありました。
ですがそれは叶いません。どうしても私は女であり、そのように生きるしかありません。女性騎士を目指そうと思ったこともありましたが、父にそれを許してはもらえませんでした」
「私とあなたが一緒になるなら、自分の代わりに互いの夢を掴めるのではないかと思うのだ。あなたの代わりに私は剣とペンを持ち、あなたのために私は強くなろう。
私が着てみたくてデザインしたドレスをあなたが代わりに着てくれたら、どれだけ嬉しいだろうか。エルシー嬢、あなたと共に人生を歩きたくて結婚を申し込んだ」
「互いの夢を代わりに掴む……」
「あなたは軍隊人形で遊ぶのが好きだったと言ったね。私はそういう戦術のようなものを考えるのが少々苦手なのだ。今この国は平和を維持しているが、いつ周辺国との均衡が崩れるか分からない。どういう戦略を巡らせれば我が国が平和を長く享受していけるか、そうしたことを考えるのがあなたはお好きなのではないだろうか」
「はい……眠る前にいつもそうしたことを考えています。もちろん本格的なものなどではありません。あくまでも、軍隊人形遊びの延長です」
ルーベンは優しく微笑んでいる。
「私はあの夜会であなたを見た時から、あなたを着映えさせるドレスをいくつも思い描いた。背が高くスタイルの良いあなたにあれもこれも着せてみたい。
髪飾りも耳飾りも、あなたの髪の色に合うデザインを考えているのが楽しかった。
あ……気持ち悪いと思わないでもらえるとありがたいのだが……」
エルシーはルーベン王太子殿下の言わんとすることが、だんだん分かってきた。
殿下は、エルシーと秘密を共有して生きて行こうと言っているように思えた。
「王宮では王太子夫婦にはドアで繋がる部屋が与えられる。私もあなたも好きなインテリアで部屋を飾ることができる。ピンク色の小薔薇柄の壁紙の部屋が本当はどちらの部屋なのか、誰にも分からない。歴代の王の剣をかたどった壁飾りがある部屋が、本当は誰の部屋であるのかを明確にする必要はない。でもそんなことは些末なことで、私はあなたと結婚することができたら、今よりも自分らしく生きられると思えたのだ」
「……私と結婚することで、殿下がご自分らしく生きられる……」
エルシーの口から、そんな呟きが零れ落ちた。
自身のことよりルーベンのことを案ずるエルシーに、ルーベンは言葉を続けた。
「あなたは女性だから、未婚の時は父上の、結婚すれば夫の意見に逆らわず生きていく以外の道は険しい。本来のあなたを隠し続けること、それが正しいこととされている。
でもあなたの夫になるのが私であれば、自分の家の自分の部屋でさえ心から寛ぐことができない今よりも、ほんの少し呼吸がラクになるような毎日をあなたに約束できるのではないか」
エルシーは自分が涙を落としたことに、隣に座り直したルーベン王太子殿下がその指先でそっとぬぐってくれるまで気づかなかった。
その指先は少し震えていた。
本来の自分をすべて黒く塗り潰し、そこに周囲が望む自分を貼り付ける、そんな日がこれからもずっとどんよりと続くのだとエルシーは思っていた。
でも、そんな自分でも想像ができないほど、ルーベン殿下はご自分の性質に苦しんでいらした。
いずれこの国の頂きに立つ身であれば、『本来の自分自身』に拘泥し続けることはできない。
己を滅し国の為にその身を捧げることが正しい道と解っていても、苦しいだろう。
自分ばかりが不幸だと思っていたことも、厭世的な気持ちでいたこともエルシーはそっと恥じた。
王太子殿下が、ほんの少しでもラクに息ができるようにと、エルシーは祈るように願う。
もしも似ている性質を持つ自分が傍にいることで、僅かでも楽になれるのだとしたら……。
エルシーの涙が止まったとき、ルーベンは改めて膝をつきその手を胸に当てた。
「エルシー・クラーク侯爵令嬢、どうか私と結婚してください。あなたらしい瑞々しい心を、いつまでも大切に護ると誓います」
「……はい。不束者ですが、よろしくお願いいたします。わたくしもこの身を王太子殿下のお幸せの為に、捧げていくことを誓います」
ルーベンはエルシーの薄い肩を、おそるおそる抱き寄せた。
そしてもう離すまいというように、ぎゅっと力を込めた。
エルシーは華奢に見えたルーベンの力強さに驚きながら、安心して身を預けた。
互いに、初めて誰かに寄りかかれた気がした。
これまではどんな時も一人で立ち、これからもそうしていたいとさえ思っていたのに。
いつまでもそうして居たい二人だったが名残惜しそうにそっと離れ、執務室で待っているエルシーの家族の元へ向かった。
「お父様、お兄様、お母様、リーゼロッテ。私はルーベン王太子殿下との婚約をお受けしたく思います」
「王室に嫁ぐことで生まれる多くのことから、私はエルシー嬢を護っていきたいと思っています。まったく苦しめないと言い切ることはできませんが、どうかクラーク侯爵家の大切なご令嬢を、私に預けてくださいませんか」
クラーク侯爵を始め、この家の誰もが自身の目を押さえた。
それは嫁き遅れそうだったこの家の長女が王室に嫁ぐ誉れに対する喜びではなく、エルシーの慎ましいながらも心からの笑顔を、子供時代が終わってから初めて見たからだった。
何か生き辛そうだったエルシーの屈託のない微笑みに、皆が泣きながら喜んだ。
***
「兄上」
「エリオットどうした?」
「このところお忙しそうですね」
「ああ。エルシーのドレスのデザイン最終決定が明後日なのだ。それが決まらないと首飾りの長さも決まらないと、宝飾店が毎日のように返事の催促をしてくるのだ」
「でも楽しそうですね、そのような兄上を初めて見た気がします」
「そうだな。エルシーに何かしてやることは楽しいぞ。エリオット、おまえもそうだろう?」
「私はドレスのことはよく分からなくて、婚約者と母上に任せきりです」
「たしかに、任せて見守るのもひとつの楽しみだな」
「そうなのですよ。女性たちが楽しそうにしているのを見ているが楽しいのです。あ、そうだ兄上、母上がお呼びでした」
「それを先に言ってくれ! 遅れるとまた怒られる」
小走りで行く兄の背中をエリオットが見つめている。
婚約が決まってからのルーベンは精力的に働いている。
軍事的な戦略会議の席でこれまでほとんど発言をしなかったルーベンが、真剣に話を聞きメモを取り、時折質問をしている。
エルシーがどこに興味を持つだろうか、まずはきちんと状況を知らなければ始まらないと、ルーベンは情報を余すことなく把握しようとしていた。
そんなルーベンを見る臣下たちの目も変わってきている。
結婚が決まると人はこんなにも変わるものかと、噂されていた。
婚礼の衣裳も王室から婚約者に贈るものとはいえ、そのデザインまでルーベンが引き受けているらしく、忙しくも楽しそうにしている。
そんな兄の変化を、エリオットは誰よりも好ましく思っていた。
時々、兄と婚約者のエルシー嬢が二人で王宮の庭を歩いているのを見かけるが、いつも二人は微笑みあって幸せに満ちていた。
ルーベンは陛下に、弟のエリオットと一緒に結婚式を挙げることを提案した。
二組の結婚式を一度にしてしまえばそれだけ時間と金の節約になるというのだ。
それでは王太子の結婚が目立たないのではないか、侯爵家が納得しないのではないかと言われたが、むしろ王太子妃になるエルシー・クラーク侯爵令嬢がそれを望んでおり、クラーク侯爵も賛同しているという。
ルーベンも自分の婚約がなかなか決まらなかったためにエリオットの結婚を待たせてしまったことを、エリオットの婚約者に謝罪したという。
王太子である自分の結婚式が先になるとさらにエリオットの結婚式が遅くなる。
ルーベンの提案にエリオットも快諾した。
兄の幸せな様子を見ていたら、エリオットも早く婚約者と一緒になりたくなった。
***
ルーベン王太子の婚約発表から結婚式までは異例の早さとなった。
学園の最上級生だった婚約者のエルシー・クラーク侯爵令嬢の卒業を待ってすぐの挙式となった。
お妃教育期間が短すぎるのではないかという声も上がったが、侯爵令嬢として一般教養とマナーはすでに身についており、学園ではその教科において最優秀の成績の者に与えられる『プラチナペン』の称号を三教科分も持っていたことが判るとそんな声も聞こえなくなった。
卒業してからは王宮に婚約者としての部屋が与えられ、エルシーは実家の侯爵家を離れて毎日お妃教育を受けた。
何より長い間どんな令嬢にも興味を示さなかったルーベン王太子が、周りが驚くほど愛情を持って接していたので国王と王妃はもちろん、王宮内の使用人たちまでが温かく見守っていた。毎朝食事の前に、二人で剣の手合わせをしているのも微笑ましくみつめられていた。
ルーベンは国王の元をたびたび訪れ、国政についての話を積極的に聞くようになった。
そしてその後は、これはエルシーに話しても問題ないと思われることについては、話すようにしていた。
夕食の後に、ゆったりとした二人の時間を作り、そこでいろいろなことを話した。
ルーベンは、自分が『人と違う』性質を持って生まれてしまったと思い込んでいたせいで、周囲に対して自ら壁を作り物事から逃げていたのだと気づいた。
エルシーと多くのことについて話し合う中で、その壁を壊すことができたのだと思った。
そうエルシーに言うと、
「もしかしたら『壁』だと思っていた隔たりは、大きな『扉』だったのかもしれません。
暗闇の中に一人で居た時はドアノブを見つけられませんでしたが、私にルーベン殿下という温かな灯りが点されて、壊さなければならない壁だと思っていたものが、開けることができる扉だったのだと気づきました」
「扉か……。そうかもしれないな。暗い部屋に自分から閉じこもり、そこに扉があることも気づかず四方を壁に囲まれていると思っていた。
この頃はエルシーのドレスを作ることが楽しくて、自分で着てみたいという願望がどこかへ行ってしまったんだ。自分が着るより当然エルシーが着る方が似合う、そのことで十分満たされている」
「……お恥ずかしい話ですが、私はこのような身体かたちをしていますのでどう装っても似合わないと目を逸らし続けていたのです……それがこの頃、ルーベン様が選んでくださるドレスは自分に似合うように思えて……装うことが楽しく感じられるようになったのです」
頬を染めながらそう言ったエルシーに、ルーベンはパッと顔を輝かせた。
「それは、とても嬉しいな……この間のオレンジ色のドレスは本当に似合っていたよ。これまでエルシーは寒色系のドレスばかりを選んでいたと聞いて、これからは暖かい色も花のモチーフやレースをあしらったものも、たくさん着てみて欲しいと思っているんだ」
ルーベンはこの頃、クマのぬいぐるみの服ではなく、エルシーの小物を縫うのが楽しくて仕方がなかった。コサージュを作りエルシーの帽子を飾っている。
そのうち帽子本体も縫うのではないかと、侍女たちは微笑みながら噂をしていた。
「ただ、どうしても気になるのです。ルーベン様は私にたくさんの知らなかった幸せを与えてくださっていますが、私は何も返せていません。私の好きなことなど、ルーベン様をお助けできるほどのこともなく……。ルーベン様に優しくしていただくたびに、無能な自分が悲しくなるのです……」
「エルシーは、僕の隣にいてくれるだけでありえないほどの力で助けてくれているんだ。君がいてくれるから、今の僕がいる。それではダメかな」
「そうおっしゃって戴けることはとても嬉しいです……。少しでも何かお役に立てるように、いろいろなことを学びたいです」
「そう思ってくれてありがとう」
エルシーが謙虚で努力家であることが、自分の隣にこれほど相応しいことはないと思っている。
ルーベンは何よりも、エルシーの笑顔が多く見られることが嬉しく、もっといろいろな笑顔を引き出したかった。
寂しそうな微笑みに惹かれたが、やはり心から幸せそうな笑顔が一番だ。
時間ができるとルーベンはエルシーをお茶に誘っていた。
ルーベンは針を動かしながら、エルシーがその日学んだことをゆったりと聞くのが楽しみだった。
それは思いがけない変化ももたらした。
それまではあまりお菓子を食べなかったというエルシーが、ルーベンとのお茶の時間に美味しいお菓子を勧められるまま食べているうちに、尖った印象のあった面差しが少しふっくらしてきたのだ。ルーベンは慌ててドレスのデザインに修正を入れた。
今日もエルシーは美味しそうにフルーツのタルトを食べている。
ルーベンは幸せな気持ちでそんな婚約者をみつめながら、手元ではせっせと針を進めていた。
***
結婚式の当日は、高いところに刷毛で描いたようなすじ雲が広がっていた。
エルシーは支度の途中でバルコニーから空を見て、雲一つない快晴にならなかったところがいかにも自分の結婚式らしいと思え、ルーベン殿下には申し訳ないが少し面白く感じた。
早朝から湯浴みで磨かれた。
湯の中でエルシーは、柔らかい肉がうっすらとついた自分の腕をそっと撫でた。
腕だけではない、太もも、お腹周り、そして胸のあたりも、人からは判らないと思うが自分ではこれまでとの違いがはっきり分かる程度の肉がついている。
クラーク家に居た時に、別段食べるものを控えたりしてはいなかったけれど、王宮に来てからはとにかく殿下とのお茶の時間が多かった。
クリームが添えられたシフォンケーキや、バターの良い香りがするパイやタルトなど、勧められるまま何でも食べていたせいだろう。
骨の上にじかに筋肉がついているような自分の身体はそれほど嫌いではなかったが、こうしてドレスを着てみると、柔らかい肉は基本の『飾り』なのだと思える。
ルーベン殿下がデザインしてくださったウェディングドレスは眩いほど白く、背中側の腰からボリュームのあるフリルがあしらわれていた。
胸元はハートカット、オーガンジーで首回りまで覆われていて清楚なイメージに仕立てられている。ハートカットの上部には小さなパールが散りばめられていた。
何人もの侍女が、エルシーの藍色の髪を丁寧に巻いていく。もちろん髪を巻くというのは初めてのことだった。
熱を当てられてしばらくしてまとめられた髪は、ふんわりとエルシーの顔を柔らかく縁取っていた。
サイドの髪を緩く編み込んで、ティアラが載せられる。
お礼を言いたいのに、別の侍女が化粧をしてくれているので何も言えなかった。
頬に載せようとしているパウダーの赤さに少し驚いたが、できあがってみればほんのり恥じらっている程度の赤味でそういうものなのかと納得する。
口紅は真ん中を赤く、輪郭はぼかしながら透明の何かを載せて艶やかになった。
目元はあまり色を付けずにグレーのペンシルでまつ毛の際を縁取られたが、それだけで目が丸く大きくなったように見えた。
「できあがりました。とても美しく可愛らしい花嫁様になりました」
エルシーは手品を見せられたような気持ちになった。
鏡の中に自分のようで自分ではない女性がいた。
「王太子殿下が首飾りをお持ちくださいました」
「エルシー、入るよ」
そう言って姿を見せたルーベン殿下に、エルシーは驚いて声も出なかった。
肩まであった金色の髪が、耳が見えるほど短くカットされていたのだ。
耳に掛けるほど長かった前髪は短くなって、眉毛のあたりにふんわりと流してある。
今までの儚げなイメージから、男性らしい雰囲気に変わっていた。
「あ、あの……ルーベン様の御髪が……」
「ああ、久しぶりにこんなに短くしたよ。皆がせっかくだから切ってみてはと言うのでね」
「とても素敵です、よく似合っていらっしゃいます」
「それは嬉しいな……。君に出会って気づいたんだ。大事なのは外側でなく、心の内側を自分自身が大切に思えるかどうかだと。少し拗ねた思いから髪を長くしていたが、もうそこに何のこだわりもわだかまりも無い。髪も軽くなったが、何より心が軽くなった」
エルシーは、ルーベンの言葉が自分の心に温かく沁み込んでいくのを感じた。
大事なのは外側ではなく、心の内側を自分自身が大切に思えるかどうか……。
男性よりも背が高いという自分の外側を、気にしていないふうを装いながらずっと捉われていたのかもしれないとエルシーは思った。
男性のような外側だから、仕方なく剣を好きになったのではなかった。
でも、自分を好きになれなかった自分の弱い心も、大切にしていきたい。
エルシーは顔を上げて、ルーベンをみつめた。
「ルーベン様のそのお言葉を伺って、私の心も温かく、そして軽くなりました」
「エルシー、とても晴れやかな笑顔が……もの凄く綺麗だ……。女神と妖精が同時に舞い降りたみたいな贅沢さだ……。ドレスがとても似合っている。さらにもう少し、顔を上げてもらえると嬉しい」
「ルーベン様が、あまりに素敵で眩しくて……そうできないと言いますか……」
エルシーは自分が真っ赤になっているだろうと自覚があった。
頬も耳も、熱を持っていることが自分で分かる。
「もう結婚式をやめてエルシーを連れ出してもいいかな!」
「王太子殿下、それはなりません!」
侍女頭の悲鳴のような言葉に、ルーベンは笑いながら謝っていた。
そしてエルシーの背後に回り、その首に首飾りを着ける。
「ああ、長さもボリュームも素晴らしい。エルシー、今日の君を引き立てる首飾りは、邪気を祓うとされているダイヤモンドにしたんだ。石は母上から譲られたものを、僕がデザインしたんだ。ゴテゴテしたデザインより一点に絞ったシンプルさがエルシーの潔さに似合うと思ったけど大正解だった」
「とても素敵です……。このような素晴らしいもの……」
私には似合わない、そう言いそうになってエルシーはその言葉を呑み込んだ。
これからは、エルシーの自虐的な言葉はそんなエルシーを選んだルーベンを馬鹿にしてしまうことになる。
何より、そんな言葉をルーベンは好まないことを知っていた。
今この瞬間も自分に自信はないが、美しい物がそれだけ浮いてしまわないように、努力を重ねる力に変えていこう──エルシーはそっと自分に誓った。
「さあエルシー、行こう」
「はい、ルーベン様」
エルシーはルーベンと手を重ね、光溢れるほうへ歩いて行った。
おわり