成金令嬢のペット
氷雨そら先生主催の「モフモフヒーロー小説企画」に参加している作品です。
よろしくお願いいたします。
※誤字報告ありがとうございます!
「アビー……ど、どうか僕との婚約を解消してほしい」
僕はテーブルの上で指先を組み、真剣な表情でそう告げる。
緊張のせいで声は震えてしまったが、なんとか言い切ることができた。
「まあ!セシルったら、突然どうしたの?」
しかし、返ってきたのは危機感なんて欠片もない、のんびりとした声だった。
ここは王都に店を構えるカフェの個室。
テーブルを挟んだ向かいのソファには、僕の婚約者であるアビゲイル・スウェンソンが座っている。
大切な話があるから……と、僕が彼女を呼び出したのだ。
アビゲイルは赤茶色の長い髪に、ややツリ目気味なヘーゼルの瞳を持ち、十七歳という年齢より幼く見えるその顔には薄っすらとそばかすが散っていた。
そんな自身を大人っぽく見せるために、濃いめの化粧に派手な色のワンピース、そしてローズの香水をつけている。
「そんなことよりも、デザートを注文しましょう。このお店はアップルパイが絶品なんですって」
アビゲイルは、僕の言葉なんてまるで無かったかのようにあっさりと話題を変えてしまう。
(そんなことよりも……か)
アビゲイルの言葉に、怒りよりも虚しい気持ちが胸に広がっていく。
僕の覚悟も何もかも、彼女にとってはその程度のことなのだろう。
「……いや、僕はいらない」
「あら、それは残念だわ」
アビゲイルはそう言うと、目の前に置かれたティーカップをゆっくりと持ち上げた。
「………熱っ!」
ティーカップの縁がその唇に触れた途端、アビゲイルは小さく叫ぶ。そして、やや乱暴にティーカップをソーサーの上に置いた。
陶器がぶつかる音と共に、紅茶の雫が飛び散る。
「だ、大丈夫?」
僕は立ち上がり、慌てて彼女の側へ駆け寄ると香水の匂いが鼻をかすめた。
「思ったよりも紅茶が熱くて……」
アビゲイルは手で口元を押さえ、俯いたままそう告げる。
(そういえば、アビーは猫舌だったな)
婚約を結んだばかりの頃、なかなか紅茶に手を付けられなかったアビゲイルの姿を思い出す。
しかし、今では二人でお茶を飲む機会もすっかりなくなり、そんなことも忘れてしまっていた。
「火傷は……?」
「大丈夫よ。これくらい、たいしたことないもの」
とは言うものの、やはり熱かったのだろう。顔を上げたアビゲイルの瞳がわずかに潤んでいる。
「服にも零れてしまったみたいだね。店員を呼ぼう」
「その必要はないわ」
「でも……」
アビゲイルが着ているワンピースは、高級服飾店の新作だと聞いている。
「このままショッピングに行きましょう!」
「え?」
「新しい服を買って着替えるわ。それに、そろそろセシルの夏服もオーダーしないと」
「いや、僕は……」
「ふふっ、遠慮はいらないのよ」
そして、彼女は自信たっぷりに口を開く。
「お金ならあるんだから!」
◇◇◇◇◇◇
この世界には多種多様な種族が存在する。
ザインバル王国では、獣人族と人族……この二つの種族が共存して暮らしていた。
獣人は、人と動物の特徴を合わせ持つ種族であり、身体能力は人族よりも遥かに高い。
だが、人族の持つ技術力は獣人族よりも遥かに優れていた。
僕、セシル・シェーベリは、狼獣人と人族の混血である。
そのため、短く整えた薄紫色の髪に金の瞳という人族と変わらぬ容姿に、白い三角の獣の耳とふさふさの尻尾が生えている。
対する婚約者のアビゲイルは、純血の人族だった。
アビゲイルの父親であるスウェンソン子爵は、元はただの田舎貴族の一人であったが、領地でエメラルド鉱山が見つかったことをきっかけに富豪の仲間入りを果たす。
そんなスウェンソン子爵に、子供はアビゲイルただ一人だけ。
この国では性別と種族に関わらず、直系の子が当主となることが認められている。
つまり、アビゲイルがスウェンソン子爵家の次期当主となる。
すると、スウェンソン子爵家の財産を目当てに、数多の貴族がアビゲイルの婿の座を狙い始める。
ただ、スウェンソン子爵は一人娘のアビゲイルを溺愛しており、「婚約者はアビゲイル本人に決めさせる」と明言していた。
我がシェーベリ伯爵家は爵位こそ上だが、その資産はスウェンソン子爵家の足元にも及ばない。
『楽して生きていきたいな』を信条に掲げる僕の父は、そんなスウェンソン子爵家の財産を狙う一人だった。
「セシル、誕生日パーティーに行くぞ!」
そう言われ父に連れて行かれたのは、アビゲイルの十歳を祝う誕生日パーティー。
改築されたばかりのスウェンソン子爵邸のホールには、きらびやかな飾り付けと豪華な料理の数々、そして、それに負けないくらいに着飾った人々で溢れていた。
パーティーの主役であるアビゲイルは、プレゼントを手にした僕と同年代の令息や令嬢たちに囲まれている
「お前は行かないのか?」
父の言葉に、こくりと頷く。
内気な僕は、知らない子供たちの輪の中に飛び込む勇気なんてなかった。
それに、少しでもアビゲイルの気を引こうとする彼らのギラギラとした表情が、なんとなく怖くもあったのだ。
「そうか……。じゃあ、せっかく来たんだから、料理はいっぱい食べて帰ろうな」
そんな僕のことを責めるでもなく、父はテーブルに並んだ料理を皿に盛り、ワインをがぶ飲みし始める。
「あー、やっぱり金持ちのパーティーはいい酒が飲めるぅ……」
「…………」
しみじみと呟く父に、僕はなんとも言えない気持ちになる。
僕が言うのもなんだが、父はスウェンソン子爵家の財産を狙う気があるのだろうか。
(たぶん、上手くいけばラッキーくらいに思ってるんだろうな……)
そんな父の隣でもくもくと料理を食べ続けていたのだが、お腹がいっぱいになると手持ち無沙汰となってしまう。
隣の父は、また高級ワインをおかわりしている。
「ねぇ、庭に出てもいい?」
「ああ、見終わったらここに戻って来いよ」
父に許可を取ると、ホールを出て一人廊下を進む。しばらくすると庭へと続く扉を見つけ、その扉を開けると……。
「うわぁ!」
僕は思わず感嘆の声をもらす。
広大な庭にはいくつもの色鮮やかな花が咲き誇り、庭木は曲線に剪定され美しく整えられている。
きょろきょろと辺りを観察しながら、僕は庭の中を歩いて回った。そして、真っ白な円形屋根のガゼボを見つける。
僕はガゼボのベンチに座ると、目を閉じて鳥の囀りに耳を傾けた。
まるで、誰もいない美しい庭を独り占めしているかのような心地を楽しむ。
「ねえ!何をしているの?」
突然、後ろから掛けられた声にドキリと心臓が跳ね、耳と尻尾の毛が逆立つ。
おそるおそる後ろを振り返ると、そこにはパーティーの主役であるはずの少女が立っていた。
「ええっと……あの……」
突然の出来事にうまく言葉が出てこない。
そんな僕のことなどお構いなしに、少女はスタスタとこちらへ近付き、目の前で立ち止まる。
「隣に座ってもいいかしら?」
「う、うん」
僕は慌ててベンチの左に寄ると、少女は空いた僕の右隣に座った。
「このガゼボ、素敵だと思わない?私のお気に入りなのよ!」
そう言って、少女はにっこりと笑う。
僕は辺りをきょろきょろと確認するが、彼女の他に人は見当たらなかった。
「えっと、パーティーは……?」
「ちょっと疲れたから、こっそり抜けて来ちゃった」
「そ、そうなんだ……」
主役が抜けてしまって大丈夫なのだろうか?
そうは思ったが、僕が何かを言う前に彼女は話題を変えてしまう。
「あなたのお名前は?」
「僕は、セシル。セシル・シェーベリ……です」
「ふぅん、セシルね。私の名前はアビゲイルよ!」
「あ、アビゲイルさん……」
「そう!アビーって呼んで」
僕がこくりと頷くと、アビゲイルは溌剌とした口調で話し続ける。
「ねえ、セシルはいくつなの?」
「今は九歳で、来月十歳に……」
「じゃあ、同い年になるのね。だったら敬語もいらないわ!」
アビゲイルのその言葉に、僕は彼女が誕生日であることを思い出す。
「あの、お誕生日おめでとう……アビー」
おそらく、アビゲイルはすでに多くの人に祝いの言葉をもらっている。だけど、僕自身は彼女に何も伝えていなかったから……。
ただ、女の子を愛称で呼ぶのが初めてで、最後は小さな声になってしまった。
「ありがとう、セシル」
そう言って微笑むアビゲイルに、僕の頬は熱くなる。
その時、アビゲイルを囲む令息や令嬢たちの姿が脳裏に浮かんだ。
「あっ!プレゼント……」
たしか、父がアビゲイルのためにプレゼントを用意していたはずで……。
(今からホールに取りに戻ったほうがいいのかな?でも、アビーを待たせちゃうのも……)
僕の顔から熱が引き、代わりに頭の中がパニックになってしまう。
そんな僕に、アビゲイルはある提案をした。
「ねえ、プレゼントなんだけど……その尻尾を触らせてもらうのはどうかしら?」
「えっ、尻尾?……僕の?」
「ええ」
突拍子もない提案に、僕は目を見開く。
「そんなことでいいの?」
「そんなことって……。セシルの尻尾はこんなに素敵なのよ?きっと、皆が触りたくて仕方がないはずだわ!」
「そ、そうかな?」
「ええ、絶対にそうよ!」
自信たっぷりに言い切るアビゲイル。
まるで僕の尻尾が価値のあるもののような言葉に、嬉しくなってしまう。
「じゃあ……どうぞ」
アビゲイルが触れやすいように、僕は尻尾を彼女に傾ける。
「うわぁ〜!何これ、すっごいモフモフ〜!」
嬉しそうにそう言いながら、アビゲイルの手が僕の尻尾を優しく撫でる。
「これなら一生触っていたいくらい!」
「そんな、大げさだよ」
そう答えながらも、僕は尻尾を褒められて満更でもない気持ちになる。
それから僕たちは二人きりでいろんな話をした。
アビゲイルが一方的に話し、僕が聞き役になる場面が多かったが、会話があまり得意ではない僕にとってそれが心地よかった。
ただ、僕の家族の話になった時だけは、目を輝かせたアビゲイルから様々な質問を受けた。
純血の人族である彼女にとって、異種族婚の話が珍しかったのかもしれない。
結局、使用人がアビゲイルを探しにやって来るまで、僕たちは夢中でお喋りを続けていたのだった……。
「お父様!私、この子に決めたわ!」
アビゲイルと共にホールへ戻ると、客人たちの視線が一斉に僕たちへと向けられる。
それに臆することなく、アビゲイルは僕の手をとると、自身の父であるスウェンソン子爵に声高らかに宣言する。
「セシルを婚約者にします!」
「ええっ!?」
僕が驚きの声を上げると同時に、ざわめく人々の声がホール中に広がっていく。
そんな中、アビゲイルは僕だけをじっと見つめた。
「セシル、私の婚約者になるのは嫌?」
「…………」
僕を見つめるヘーゼルの瞳が不安気に揺れている。
「い、嫌じゃない……」
「ほんと?」
「うん!」
アビゲイルは安堵の表情となり、掴んでいた僕の右手を
両手でぎゅっと包み込んだ。
(この子が僕の婚約者……。僕の……僕だけの番になるんだ)
彼女からほんのりと甘い匂いがする。
それと同時に、言いようのない多幸感に包まれた。
そうして、僕とアビゲイルの婚約が結ばれたのだった。
ちなみに、パーティーから帰った日の夜、書斎からは「いよっしゃあああっ!」という、父の雄叫びが聞こえていた。
◇◇◇◇◇◇
僕とアビゲイルは仲睦まじく、婚約者として良好な関係を築いていく。
それがおかしくなってしまったのは、貴族学園の中等部に入学してからのこと。
「おっ!成金令嬢のペットが歩いてるぜ」
「おいおい、ちゃんとペットらしく這いつくばれよ」
人族の男子生徒二人がニヤニヤと笑いながら、僕に向けて嘲りの言葉を放つ。
「…………」
僕はそんな二人の前を、無言のまま早足で通り過ぎた。
成金令嬢とはアビゲイルのことを揶揄する言葉。
そして、そのペットとは……もちろん僕のことだ。
人族の一部には、純血を尊ぶ者たちがいる。
まあ、それは人族に限ったことではなく、獣人族にも同じ考えの者たちがいるのでお互い様なのだろう。
問題は、そんな純血思想を持つ人族の貴族たちにとって、アビゲイルの婚約者という立場は喉から手が出る程に魅力的だということ……。
それなのに、アビゲイルの婚約者が混血の僕なんかであることに納得がいかないのだ。
(僕のせいでアビーまで……)
言い返すことすらできず、アビゲイルの価値を貶めてしまう僕自身が許せなかった。
(このままじゃダメだ……。アビーの婚約者として認められるように、僕が変わらなきゃ!)
それからの僕は、今まで以上に学業に打ち込むようになった。
貴族学園では学期ごとに成績上位者が発表され、成績順にクラスが編成される。自身が優秀であると周りにアピールするなら、成績を上げることが一番の近道だと思ったからだ。
(ペットだなんて言われるのは、背が低くて薄っぺらな体型のせいかも……)
鏡に映る自身の貧相な身体を見ながら、僕はそんなふうに考えた。
それからは、学業と並行して身体を鍛えることにも力を注いだ。
努力の甲斐あってか、獣人の血が流れているせいか……僕の背はどんどん伸び、薄っぺらだった身体にしっかりと筋肉がついていく。
それに比べると学業は苦戦したが、中等部の卒業間際になんとか成績上位者に名を連ねることができた。
そして、高等部に入学してからは、成績上位者のみが集められたAクラスに在籍している。
しかし、それでも『成金令嬢のペット』という周囲からの呼び名は変わらない……。
「セシル!今日の放課後は宝飾店に行きましょう!」
昼休み、わざわざ僕のクラスにやって来たアビゲイルが、周りに聞こえる声で放課後の予定を告げる。
「あなたに似合うカフリンクスを選びたいの!」
「えっ?で、でも……」
「じゃあ、また放課後に!」
「アビー!ちょっと待っ……」
僕の返事を待たずに、アビゲイルはさっさと教室を出ていってしまう。
高等部に入ってからのアビゲイルは、様々な店へと僕を連れ回すようになっていた。
「セシルに似合う靴を見つけたのよ!」
「話題のデザイナーに、セシルの服を作ってもらいましょう!」
「限定販売の懐中時計をセシルのために予約しておいたわ!」
そんなことを言っては、次から次へと僕に高級品を買い与えるのだ。
「アビー、この前も服を買ってもらったばかりだし……」
「あら、今日は服じゃないわよ?」
「そうじゃなくって、そんなに買ってもらわなくても……」
「セシルったら、遠慮なんてしなくても大丈夫よ」
僕がいくら断ろうとしても、彼女は決して引き下がらない。
「お金ならあるんだから!」
そう言って、全てを押し通してしまう。
そして、アビゲイルはそのことを周りに隠そうともしなかった。
そのせいで、飼い主がペットを着飾らせているのだと、口さがない連中が触れ回る。
(あの頃は楽しかったな……)
アビゲイルはいつも僕の尻尾を撫でて、幸せそうに笑っていた。そんなアビゲイルと過ごす時間が大好きだったのに……。
今では、買い物に連れ回され、高価なプレゼントを受け取る僕を見てアビゲイルは満足そうに笑う。
それでも、アビゲイルが僕だけを見ていてくれるのなら、それでいいと思っていたのに……。
「えっ?アビーが……?」
ここは学園の空き教室。
放課後、同じAクラスのシャノン・イリック伯爵令嬢に、話したいことがあると呼び出されていた。
「ええ。セシル様にお伝えすべきが迷ったのですが……」
シャノンはハニーブロンドのウェーブがかった長い髪に翠の瞳を持ち、長い薄茶色の獣の耳とふんわり丸い尻尾の生えた、僕と同じ混血の兎獣人だ。
彼女は中等部の頃から常に成績上位者に名を連ね、イリック伯爵家の次期当主として相応しい才媛だと有名であった。
また、シャノンにはいまだ婚約者がおらず、貴族の次男や三男の婿入り先としても大変人気だという話を聞いたことがある。
人当たりも良く、アビゲイルのペットだと馬鹿にされる僕にも話しかけてくれる、親切なクラスメイトの内の一人だった。
そんなシャノンによると、アビゲイルには最近お気に入りの男子生徒がいるのだという。
アビゲイルと同じCクラスで、親密そうな二人の姿を学園内で何度も目にしたそうだ。
しかも、その男子生徒はアビゲイルと同じ純血の人族であるという。
「先日、街でお二人が仲睦まじい様子でカフェに入って行く姿をお見かけして……」
シャノンの話を聞いた途端、全身から血の気が引いていく。
(アビーが、僕以外の誰かと……)
この国では、貴族家の当主が愛妾を持つことを認められていた。
理由は単純で、血筋を途絶えさせないよう子を成し、家を存続させることが貴族にとって重要な責務であるからだ。
つまり、スウェンソン子爵家の次期当主であるアビゲイルも、愛妾を持つことが可能であって……。
「そんな……」
目の前が真っ暗になってしまった僕に、シャノンは申し訳なさそうな表情のまま言葉を続ける。
「スウェンソン嬢のお噂は、いろいろ耳に入っておりました。セシル様が何もおっしゃらないので静観しておりましたが……でも、これは……あんまりですわ!」
胸の前で握りしめていた両手をぶるぶると震わせ、シャノンの声がだんだんと熱を帯びていく。
「セシル様のような才気溢れる方を、ペットのように扱い蔑ろにするだなんて……。私は許せません!」
「シャノンさん……」
ただのクラスメイトである僕のために、こんなにも怒ってくれるとは……。シャノンはとても優しい人なのだと思った。
「だって、あなたには気高き狼獣人の血が流れているのですから!」
そう言って、シャノンはその瞳を潤ませながら僕を見上げる。
(狼獣人の血……)
正直、狼獣人の血が自身に流れていると自覚できるのは、この獣の耳と尻尾の存在くらいだった。
それくらい、僕の中身は荒々しく残忍な狼獣人の気性とは程遠い……。
「僕のために怒ってくれてありがとう」
「いえ、私こそ出しゃばった真似を……」
「ううん。ショックだったけど……教えてもらえてよかったよ」
そう言って、ぎこちない笑みをシャノンに向けると、彼女の頬がわずかに朱に染まる。
「あ、あの、セシル様は甘いものはお好きですか?」
「え?……う、うん。まあ」
突然の話題の転換に驚きつつ答えると、シャノンは学園のカフェテリアの期間限定ケーキが美味しいのだと説明をし始めた。
「落ち込んだ時には甘いものを食べるのが一番だと思って……」
どうやら、僕を励まそうとしてくれているらしい。
「よければ、これからご一緒にいかがですか?」
「…………」
正直、甘いものを食べるよりも、今すぐ自分の部屋のベッドに潜り込んで泣きたい気分だった。
しかし、僕を気遣うシャノンの気持ちを無下にするのも、なんとなく憚られる。
結局、僕はシャノンに押し切られるようにして学園内のカフェテリアへと向かった。
そして、見てしまったのだ。
アビゲイルが黒髪の男子生徒と並んで歩きながら、カフェテリアへ入って行く姿を……。
◇◇◇◇◇◇
(僕はどうすればいいんだろう……)
あれから、僕はカフェテリアへと向かう途中で回れ右をして、もと来た道を戻って空き教室に籠もった。
そんな僕に寄り添い、シャノンは謝罪と励ましの言葉を繰り返していた。
別に彼女が悪いわけではないのに……。
ただ、アビゲイルと共にいた黒髪の男子生徒が、例のカフェへ行った男と同一人物であると告げられ、僕はさらにどん底へ突き落とされてしまう。
(やっぱり僕じゃダメだったのかな……)
帰りの馬車の中、一人きりになると先程の光景が頭に浮かび上がる。
アビゲイルと黒髪の男子生徒は、親しげに会話をしながら歩いていた。
そんな二人の姿が、僕とアビゲイルよりよっぽどお似合いに見えてしまったのだ。
(アビーが僕以外の男を選んだ……)
それは、僕との婚約を解消しようとしている?
それとも、僕との結婚後に、あの男を愛妾にするつもりなのだろうか?
胸の奥がじくじくと痛み、その苦しさで呼吸が乱れる。
そうこうしているうちに、馬車はシェーベリ伯爵家の邸宅に到着した。
もう、食欲すらも湧かず、出迎えてくれた家令にそのことを伝えようとしたのだが……。
「おかえりなさいませ、セシル坊ちゃま。帰ってすぐのところを申し訳ございませんが、ご当主様のアレが始まってしまい……」
僕が何かを言う前に、家令から厄介ごとの解決を頼まれてしまう。
「……わかったよ。場所は?」
「執務室でございます」
仕方なく了承をした僕は、急いで階段を上り、母の執務室へと向かった。
「母上、セシルです」
執務室の扉をノックして声をかけるが、返事はない。ただ、中からかすかに言い争う声が聞こえる。
僕の後を追いかけてきた家令に目配せをし、溜息を一つ吐いてから執務室の扉を開けた。
「カーティス!言い訳は無用だ!」
途端に、母の怒鳴り声が部屋中に響く。
「だから、身に覚えがないんだって!」
そこに、負けじと母に言い返す、父カーティスの涙声が続いた。
足を踏み入れた執務室の床には書類が散らばり、テーブルのすぐ側にはティーカップが転がっている。
そう、厄介ごととは、両親の激しい夫婦喧嘩のことであった。
「ならば……どうして、私以外の雌の匂いが付いている?」
地の底から響くような母の冷たい声。
僕と同じ三角の獣の耳と尻尾の毛が逆立ち、全身から怒気が立ち昇っている。
狼獣人は番を匂いで判別しているため、自分以外の異性の匂いが番に付くことをひどく嫌悪する。
狼獣人と人族のハーフである母は、見た目は僕と同じように人族の姿に獣の耳と尻尾が生えていた。
しかし、狼獣人の血が濃いせいか、その本能から番である父に執着している節がある。
「いや、前から言ってるけど、俺の嗅覚じゃわかんないんだよ!」
対して、純血の人族である父は狼獣人特有の感覚が理解できず、このような夫婦喧嘩が勃発してしまうのだ。
どうやら今回も、父が気付かぬうちに異性の匂いを付けたまま帰宅し、母の逆鱗に触れてしまったらしい。
「匂いがわからぬのなら、そもそも雌を近付けさせなければいいだけのこと」
「仕事なんだから、そういうわけにもいかないだろ!」
「ふんっ!そんなものは言い訳に過ぎない」
シェーベリ伯爵家の当主は、母クラウディアである。
しかし、人を寄せ付けない性格と迫力ある容姿を持つ母に社交は不向きで、今やそのほとんどを父が担っていた。
「あああっ!セシル!助けに来てくれたんだな」
その時、ようやく父が僕の存在に気付き、安堵の表情を浮かべる。
僕は狼獣人の血を継ぎながらも母のような嗅覚と本能は持たず、人族寄りの思考と感覚を持っていた。
そのため、怒り狂う母を宥め、仲裁することが僕の役割である。
ちなみに、僕には兄がいるのだが、兄は獣人の血が濃いようで父の気持ちが全くわからず、喧嘩の仲裁には不向きなため呼ばれない。
「セシル、私はカーティスと大切な話をしている。邪魔をするな」
「いやいや、セシルの話を聞いてやってくれよ。俺のために。なっ?」
「これは私たち夫婦の問題だ」
そう言って、僕と同じ金の瞳が父を睨み付ける。
「そもそも、私に求愛をしたのはお前ではないか」
「いや、美人だねって言っただけで……」
「つまり私の容姿を好ましく思ったのだろう?」
「それはそうなんだけど!」
父は男爵家の三男だったが、自身に秀でた才覚がないことを理由に、お金持ちの家に婿入りをして楽に暮らそうと画策していた。
そして、当時『孤高の花』と呼ばれた母を軽い気持ちで口説き、その言葉を真に受けた母の重く激しい愛に捕らわれてしまい……今に至るそうだ。
「それとも……まさか、私のことを愛していないのか?」
父の胸ぐらを掴み上げながら、母が問いかける。
「い、いやいや、そんなことは……」
「ならば、他の雌なんぞに目を向けるな。お前は私のことだけを見ていればいい」
「わかった……から、首が締まってるぅ……」
父が涙目で僕に助けを求めている。
「…………」
いつもなら、僕が二人の間に割って入り、母の暴走を止めていた。
しかし、アビゲイルのことがあったからだろうか?
一途に母に愛されていながら、なぜそれに応えないのかと……父に対して苛立ちのような感情が沸き起こる。
「それでは、僕は失礼します」
「えっ?セシル?ちょっ、どこ行く……」
僕はそのまま父と母に背を向け、執務室の扉へ向かって歩き出す。
「セシルーっ!!俺を置いて行かないでー!」
「カーティス、よそ見をするなと言ったばかりだろう?」
母の声が再び怒りに染まり、開いた口から鋭い犬歯がぎらりと光る。
「待って、許して、俺が愛してるのはお前だけだからぁぁ!」
そう叫ぶ父の声を聞きながら、僕は振り向くことなく執務室を出て扉を閉めた。
イライラとモヤモヤが胸の内で渦巻いている。
『私、セシルのご両親みたいな関係に憧れるわ!』
それは、婚約をしたばかりの頃、アビゲイルが僕に言った言葉。
その時は、喧嘩ばかりする僕の両親のどこに憧れる要素があるのか不思議に思った。
しかし、過激ながらも母に愛されている父を、僕は素直に羨ましいと思ってしまった。
この婚約は、アビゲイルが僕の尻尾の手触りを気に入ったことがきっかけで決まったもの。
それを、僕はアビゲイルからの愛情だと思っていたけれど……。
(きっと、お気に入りのペットを側に置きたかっただけなんだ)
そのことを理解した瞬間、胸を掻きむしりたくなるような深い悲しみに襲われる。
(ああ、もう無理だ……)
そうして、僕はアビゲイルに婚約解消を申し出ることを決意する。
しかし、アビゲイルはそんな僕の言葉を一蹴し、いつものように買い物に連れ回されてしまったのだった。
◇◇◇◇◇◇
「それでは、婚約の解消を決意されたのですね」
「うん。……でも、アビーには相手にされなかったんだ」
昼休み、人がまばらになったAクラスの教室で、シャノンから声をかけられた僕は、これまでのことを彼女に説明していた。
さすがに周りに聞かせるような話ではないので、声を落としていたのが聞こえづらかったのか、シャノンが僕にくっつく程に顔を寄せる。
「きっとその決断が、セシル様とスウェンソン嬢のお二人にとって最良のものとなりますわ」
「そうだね……」
僕との婚約を解消すれば、アビゲイルは愛する男と婚約を結ぶことができる。
それに、成金令嬢だなんて不名誉な渾名で呼ばれることもなくなるだろう。
スウェンソン子爵家との繋がりがなくなり、父は悲しむかもしれないが、また新たな婿入り先を探せばいい。
それに、番との愛を何よりも大切にする母ならば、きっと僕の気持ちをわかってくれるはずだ。
そんなことを考えていた時だった。
「セシル!今日の放課後は……」
僕のクラスにやって来たアビゲイルが、いつものように放課後の予定を告げようとし……僕の姿を捉えた瞬間、大きく目を見開き固まった。
「セシル様、どうぞスウェンソン嬢のもとへ」
「あ、ああ」
シャノンにそう耳元で囁かれ、僕は慌ててアビゲイルのもとへと向かう。
「アビー、どうしたの?」
「あ……」
アビゲイルがじっと僕の瞳を見つめる。その表情はどこか不安気で……。
しかし、それも一瞬のことで、「今日の放課後はオーダーした夏服を受け取りに行きましょう」と僕に告げる。
「うん。わかった」
「……じゃあ、また放課後に」
アビゲイルはそう言うと、今度は僕の顔も見ずに教室から出ていってしまう。
そうして放課後になると、僕たちは馬車に乗って王都に店を構える高級服飾店へと向かった。
様々な服が見栄え良く飾られている店内には、誰一人として客はいない。
どうやら上客であるアビゲイルのために、この時間は貸し切りとなっているらしい。
そのまま店員に奥の個室へと案内され、オーダーした僕の夏服が並べられる。
いつもなら、僕が試着をして、それに対してアビゲイルが感想を述べるのだが……。
「アビー、素敵な服をありがとう」
「ふふっ、気にしないで」
店員には席を外してもらい、個室には僕とアビゲイルの二人きり。
「でも、僕へのプレゼントはこれで最後にしてほしい」
「………っ!」
きっぱりと告げた僕を、アビゲイルが驚いた表情で見つめる。
「そ、そんな、遠慮なんていらないのよ?」
「…………」
「だって、私、お金なら……」
「お金なんていらない!!」
僕は強い口調でアビゲイルの言葉を遮る。
「もう、何もいらないんだ……」
「…………」
力無く呟く僕を見て、アビゲイルは無言のまま目を伏せる。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……わかったわ。先日の婚約解消のお話、承ります」
「え?」
「心配しないで。婚約を解消したからって、スウェンソン子爵家との共同事業を取りやめるなんてことにはならないから」
そう言うと、アビゲイルは優しく微笑んだ。
(どうして……?)
たしかに、僕はこの場でもう一度婚約解消の話をするつもりだった。
だけど、なぜこんなタイミングでアビゲイルが同意してくれたのかがわからない。
「だから、家のことは心配しないでイリック嬢と幸せになってね」
「シャノンさんと……?どうして、ここでシャノンさんの名前が出るの?」
「どうしてって、あの方をお慕いしているんでしょう?」
アビゲイルが不思議そうな表情でパチパチと瞬きをする。
「彼女はただのクラスメイトだけど」
「そんなはずは……!今日だって、あんなにも仲睦まじそうに……」
そう言いながら、アビゲイルはくしゃりとその顔を歪めた。
「ご、誤解させてしまったなら謝るよ。でも、誓って僕はアビー以外の誰かとなんて!」
僕は慌てて否定の言葉を口にする。
「そう……。私ね、あなたのご両親に憧れていたの。あんなふうに深く強く愛されたいって……。でも、私なんかじゃダメね」
そして、アビゲイルは深く息を吐き出す。
「セシル、あなたは勤勉で優秀な人だわ。それに、整った顔立ちに均整の取れた身体と、素敵な耳と尻尾まで持っている。それなのに……そんなあなたの隣にいる私は、美しさも知性も教養も、何一つパッとしない」
そう言って、自嘲気味な笑みを浮かべるアビゲイルを、僕は信じられない思いで見つめる。
「でも、そんな私でも唯一持っているものがあるの。私、お金なら……ううん、違うわね。私には、お金しかないの」
「…………」
「だから、あなたを引き留めるには、こうしてプレゼントを贈るしかなかった。だって、私にはそれくらいのことしかできないから……。本当にごめんなさい」
そして、アビゲイルが僕に頭を下げた。
いつもと違う弱々しいその姿に、僕の胸は締め付けられ……気付けば心の内を叫んでいた。
「違う!違うんだ!婚約解消を望んだのは……アビーが僕のことをペットだと思っているからで」
「え……?」
「僕はアビーのペットなんて嫌だから。それに、他に恋人ができたって話を聞いて……」
僕の言葉に、アビゲイルは驚いたように目を見開く。
「私はセシルのことを婚約者として選んだわ!それに、他に恋人なんて作ってない!」
「じゃあ、あの黒髪の男は……?」
「黒髪?」
僕は学園のカフェテリアで二人を見かけた時のことを話す。
「他の友人も同席していたし、彼にはアドバイスをもらっていただけよ」
「そうなんだ……」
アビゲイルのその言葉に、僕はあからさまにホッとしてしまう。それと同時に、モヤモヤとした感情が沸き起こる。
「アドバイスって……?」
なぜ、そんな男にアドバイスをもらうのか……。その理由が知りたかった。
すると、アビゲイルが恥ずかしそうに下を向き、僕から目を逸らす。
「私とセシルの仲がうまくいくようにアドバイスを……」
「そ、そうだったの?」
アビゲイルがこくりと頷く。
「どんどん素敵になっていくセシルに追いつきたくて、私だって努力をしていたの。でも、勉強も何もかもうまくいかなくて……。そんな時、クラスメイトの彼から、自分の得意分野で勝負すべきだって言われて」
「得意分野?」
「ええ。私にはお金がたくさんあるでしょう?それを使えばいいんじゃないかって……。高価な物を贈れば、それだけ相手に気持ちは伝わるからって」
「…………」
「セシルと同じ男性の意見は貴重だから……」
やっと、アビゲイルが僕に高級品を買い与える理由を知ることができた。
まさか、あんな男のアドバイスを真に受けていたとは思わなかったが……。
だけど、今はそんなことよりも、確かめなければならないことがある。
「つまり、アビーは僕のことが好きってこと?」
僕がそう問いかけると、彼女は顔を真っ赤にしてこくりと頷く。
(アビーは、僕のことをちゃんと想ってくれていたんだ……)
その瞬間、頭の中でプツン……と、何かが切れる音がした。
そして、胸の奥からはまるで激流のような感情がぶわりと湧き上がる。
──欲しい、欲しい、欲しい!……僕のもの。僕だけのもの。
心も身体も何もかもが渇望し、全身の血が燃えたぎるように熱くなる。
訳が分からないまま、その苦しみから逃れたくて目の前にいるアビゲイルに手を伸ばした。
「セシル!?」
彼女の肩に触れる。
ただそれだけで、僕の心は満たされていく。
──アビーは僕だけのもの。
その強過ぎる感情に揺さぶられ、気付けば彼女を抱きしめていた。
「ね、ねぇ?どうしたの?」
戸惑うアビゲイルの声に構わず、その柔らかな赤茶色の髪に顔をうずめる。
しかし、きついローズの香りが鼻をかすめた。
(違う。これじゃない……)
あまりの不快感に思わず舌打ちをしてしまう。
「アビー、お願いがあるんだ」
僕は彼女から身体を離すと、その右手首をそっと掴む。
「とりあえず服を脱いでほしい」
「へ?」
「それから、湯浴みをして」
「な、な、な……」
アビゲイルが何かを言いたげに、口をぱくぱくと動かす。
「化粧と香水の匂いを洗い流してほしいんだ」
「…………え?」
◇◇◇◇◇◇
昼休み、西棟へと繋がる渡り廊下を一人で歩く。
食堂とは逆方向のためか、周りには誰もいない。
「セシル様!」
後ろから名前を呼ばれ、仕方なく足を止め振り返ると、シャノンが急ぎ足でこちらへ向かって来るところだった。
「どうしたの?僕、ちょっと急いでるんだけど……」
「えっ?あ、えっと、その……」
苛立ちが表に出てしまった僕に、シャノンは戸惑いを隠せないでいる。
「何?」
「あの、スウェンソン嬢との婚約解消はどうなったのかと思いまして……」
「解消?」
「そ、そういうお話だったではありませんか!」
今度はシャノンが苛立ったように声を荒げた。
「あれは忘れてくれていいよ」
「なっ……。スウェンソン嬢は他の男性に目を向けていらっしゃるのですよ?セシル様はそれをお許しになるんですか!?」
「でも、アビーはそんなことはしてないって言ってるんだよね」
「それは……。きっとセシル様を手放したくなくて、彼女が嘘をついているんです!」
「…………」
僕はアビゲイルの言葉を信じている。
しかし、それだけではシャノンを納得させることはできないのだろう。
「たしかに、アビーが嘘をついているのかもしれない」
「それじゃあ……」
「でも、それは過去のことだよ。これからは、他の雄が彼女に近付くことはない」
「え?」
「だって、僕が近付けさせないから」
そう言って、僕は笑みを浮かべた。
「君が言ってくれたんじゃないか。僕のことを気高き狼獣人だって」
「それは……」
「僕の番はアビーだけ。これからアビーの側にいるのは僕ただ一人。もし、それを邪魔するような奴がいれば……」
僕は笑みをさらに深め、生え変わったばかりの鋭い犬歯をむき出しにする。
「………っ!」
途端にシャノンは青ざめ、その身体をぶるぶると震わせた。
「そうそう。アビーにくだらない助言をした、君のオトモダチにも伝えておいてくれる?」
「………え?」
「例の黒髪の男のことだよ」
クラスメイトとしての付き合いはあったが、二人きりになったことは一度もないと、アビゲイルは断言していた。
そもそも、黒髪の男とアビゲイルが親密であるという話は、シャノンから聞かされただけ。
そして、シャノンと僕があたかも恋仲であるかのように、黒髪の男がアビゲイルに吹き込んでいた……。
「な、何をおっしゃっているのか……」
「やだなぁ。しらばっくれないでよ」
僕は目を細め、シャノンをひたりと見据える。
「だって、君からはあの男の匂いがするよ?」
「あ………」
つまり、シャノンと黒髪の男はグルだったということ。
おそらく、黒髪の男はアビゲイルの婚約者の座を狙い、それにシャノンが手を貸していたのだろう。
じゃあ、シャノンは何を狙っていたのか……。
(まあ、どうでもいいか)
真っ青な顔で震えているシャノンから視線を外す。
そんなことよりも、早くアビゲイルのもとへ行かなくちゃ。
「それじゃあ、僕はアビーに会いに行くから」
そして、シャノンに背をむける。
「……どうして?」
「ん?」
シャノンの震える声に、まだ何か用があるのかと、僕はうんざりした気持ちで再び振り返る。
「優秀なあなたに、あんな女は相応しくない……。あんな、容姿も教養も全てが平均以下の成金女なんて!私のほうがよっぽど……!」
シャノンの悲痛な叫びに、僕はあっさりと答えを告げる。
「僕が優秀でありたいと望んで努力をしたのは、アビーのためだ。アビーがいなければ、僕は上を目指そうだなんて思わなかった。ただそれだけのことだよ」
その場で泣き崩れたシャノンに背を向け、今度こそ振り返ることなく歩き出す。
(早くアビーに会いたい……)
逸る気持ちのまま、急いでCクラスへと向かう。
そして、僕はずかずかと教室の中に入り、椅子に座るアビゲイルを後ろから抱きしめた。
「きゃっ!?」
「アビー!会いたかった!」
「セシル!?」
アビゲイルの驚く声にも構わず、そのままぎゅうぎゅうと抱きしめ続ける。
そして、アビゲイルの髪に顔をうずめた。
「アビー……いい匂い……」
「ちょっと、セシル!!」
アビゲイルからは甘い香りがする。
その喜びから、僕の尻尾はゆらゆらと揺れ動く。
あの日、僕はアビゲイルを我が家へ連れて帰り、そのまま有無を言わせず浴室へと案内し、化粧も香水も洗い流してもらった。
すると、アビゲイルの身体からは、なんだか懐かしい甘い香りが漂う。
僕はその香りに誘われるかのように、ふらふらとアビゲイルに近付き、たまらず彼女を抱きしめて匂いを嗅ぎ続ける。
そんな僕を見た母が呆れたように言葉を放つ。
「なんだセシル。やっと番の匂いがわかるようになったのか?」
「え?」
狼獣人は、番だと決めた相手の匂いを記憶し、他者との区別を付けることはもちろん知っていた。
ただ、その匂いがこれほどまでに甘く心満たされるものだとは思わなかった。
そして、そんな番の匂いに余計なものが混じると、ひどい不快感を覚えてしまうことも……。
「おそらく、眠っていた狼獣人の本能が目覚めたんだろう」
母の言葉がストンと腑に落ちる。
僕には狼獣人の血がわずかしか流れておらず、本能なんてものは持ち合わせていないと思っていた。
だけど、アビゲイルとの婚約が決まった時、気付かぬうちに僕は彼女を番だと認識していたらしい。
(ああ、やっとわかった)
あの時のわずかな香りが、今では手に取るように感じられる。
そして、強く強く求めてしまうのだ。
(もう、僕はアビーを手放すことなんてできない)
そうして、今日も僕はアビゲイルの匂いを求めてしまっている。
「セシル、教室で抱き着かないで!み、みんなが見てるでしょ!!」
アビゲイルの強い口調に、しぶしぶ身体を離す。
僕のために濃い化粧も香水もやめてくれたアビゲイル。
おかげで、僕は彼女の匂いで確認することができる。
(他の雄は触れていないな)
だけど、安心はできない。
(これからは毎日確認しなきゃ)
そして、昼食を外で食べようとアビゲイルを中庭へと連れ出した。
並んでベンチに座ると、僕はすかさず尻尾をアビゲイルに傾ける。
「ねえ、アビー。昔みたいに尻尾を撫でて?」
「なっ……こんなところで!」
「大丈夫。抱き着かれるよりは恥ずかしくないよ」
「………っ!」
アビゲイルは昔から僕の尻尾を撫でるのが好きだった。
きっと今でもそれは変わらないはず……。
アビゲイルはしばらく悩んでいたが、僕がふりふりと目の前で尻尾を振ると、我慢できずに手を伸ばした。
「ああ!やっぱりモフモフ!」
「ふふっ。昨日は念入りにブラッシングしたんだ」
「そうなの!?たしかに、前と比べて触り心地が良くなってる気がするわ!」
尻尾に夢中になってるアビゲイル。
可愛い可愛い僕の番。
そのままアビゲイルの右耳をかぷりと甘噛みする。
「ちょっと!」
「ごめん、痛かった?」
「痛くはないけど……びっくりするでしょ!!」
右耳を押さえながら、アビゲイルの顔は真っ赤になっている。
甘噛みは狼獣人の愛情表現。
僕の父も、母の強めな愛情表現によって、よく血塗れになっていた。
「ふふっ、ごめんね。お詫びに僕の耳も触っていいよ」
「えっ?……いいの?」
「アビーにだけ特別だよ」
そう言って、僕はごろんと横になり、アビゲイルの膝の上に頭を載せる。
「はい、どーぞ」
「もう!セシル!」
「膝枕のほうが触りやすいでしょ?」
結局、誘惑に負けたアビゲイルは、僕の耳をゆっくりと撫で始めた。
(ふふっ、まるでペットみたいだ)
あれだけ気にしていたはずなのに……。
アビゲイルが僕のことを番だと認めてくれるのなら、周りに何と言われようが構わないと、そう思うようになっていた。
「ああ、幸せだわ」
そう呟くアビゲイルの匂いに包まれながら、僕はされるがままに耳を撫でられていた。
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