八、決着
覆面を脱ぎ捨てた戦士の、その顔は――
「……スコティッシュフォールド?」
「トラだ! どんな目してやがんだっ!」
戦士の顔は、まぎれもなく虎のものでした。
「ああ、悪い。猫の種類って詳しくなくて」
「トラだっつってんだろうが! ぶっとばすぞこのヤロウ!」
若干申し訳なさそうな顔を作ったアッシュでしたが、その態度は戦士の怒りに油を注いだだけのようです。本当に悪いと思ってはいなかったらしく、アッシュはすぐに態度を翻してなだめるように言いました。
「まあまあ、そう怒るなよ。俺はここにケンカするために来たんじゃないんだ」
「その態度がケンカを売ってる以外のなんだってんだ!」
話が通じないことに身悶えして戦士は何度も地面を踏みしめます。はっはっは、とアッシュは無意味に笑いました。戦士は牙を剥きだしてアッシュをにらみつけますが、やがてそれが何の効果もないことに気付いて、すべての憤りを押し殺すように大きく息を吐きました。
「……俺の顔見て、何とも思わないのか」
戦士は視線をわずかに落としました。人間というものは『違う』ということにひどく狭量なはずだろう。いつも『違い』を探しては内と外を区別し、外にいる者を責め苛むはずだろう。告発するような声音にアッシュは真剣な面持ちで答えます。
「意外と動物好きだ」
「人間の体にトラの顔が乗ってるんだぞ!?」
顔を上げて戦士は叫びます。この男は本当に状況を理解しているのか? それとも理解したうえで騙そうとしているのか? 信じて裏切られることを怖れて、戦士の心が牙を剥いています。アッシュは何も気負うことなく言葉をつなぎました。
「いいんじゃないか? 人間の体にトラのケツが乗ってるよりよほどいいと思うぞ」
戦士はぽかんとアッシュを見つめます。アッシュはぽかんとしている戦士の様子を不思議そうに見つめ返しました。奇妙な沈黙が流れ、やがてあきれたように戦士は苦笑しました。
「どういう比較だ」
毒気を抜かれたのか、もう彼から怒りや苛立ちは感じられません。アッシュはそういう男なのだと理解したのです。『違い』をあげつらうことをしない、内と外を区別しない。なぜなら彼にとって自分以外は等しく他者だからです。他者の首から上が人であろうがトラであろうが、心から信用はしない、という点で何も変わりはしない。だから彼は誰も拒まないのです。
「あんた、変わってるな」
感心したとも憐れんだとも取れる声音で戦士は言いました。他者と繋がりたい、コミュニティに帰属したい。それは人の根源的な欲求です。それを容易く手放すようなアッシュの態度は、どこか人の在り方から逸脱しているように戦士には感じられたようです。
「そうかい? 自分じゃ極めてまっとうな人間だと思ってるんだがね」
やや不満そうにアッシュは肩をすくめます。主張はするものの理解されることを求めている様子はありません。「どこがだよ」と戦士は答えました。芝居がかった仕草で首を横に振り、気を取り直してアッシュは言いました。
「さっきも言ったが、俺は楽士の紹介で『片牙』に会いに来た。ここを通してもらえないか?」
戦士は首を横に振りました。アッシュの他者に対する一線を引いた態度は戦士にとって居心地の良いものでしたが、アッシュがどんな人間であれ、門番としてここを通すかどうかは別の話です。
「俺は楽士なんて奴は知らない。俺が知らないやつの紹介で来たお前を『片牙』に会わせるわけにはいかない」
「……楽士の奴、全然役に立たないじゃないか」
アッシュは『歌う酒樽亭』のある方角に恨みがましい目を向けました。調子のいいあの楽士の顔が目に浮かびます。アッシュが文句を言えば彼はきっとこう言うでしょう。「旦那ならきっと何とかなりますよ、頑張って」と。想像の中の楽士のにこやかな笑みにアッシュは苛立ちを浮かべました。
「このまま、帰ってくれないか?」
戦士は静かにアッシュに言いました。それは門番として、というよりも彼自身の素直な望みのようでした。もはや彼は戦いを望んでいません。しかしアッシュがここを通ることを諦めなければ、門番の責務を果たさねばなりません。
「そういうわけにもいかなくてね」
少し困ったようにアッシュは答えます。誰に頼まれたわけでもない、自分自身の心に従ってここに来ました。戦士を困らせたいわけでも、戦いたいわけでもありません。しかしこのまま帰れば自分を裏切ることになります。
「どうしても?」
望みをかけるような、もう分かっているような、表情に感情を示さずに戦士は問いを重ねます。アッシュははっきりとうなずきました。
「どうしても」
「そうか」
少し笑って、そして戦士は表情を改めました。戦いの意志が周囲に満ち、強い緊張感がビリビリと肌を刺します。アッシュは侮りのない瞳で戦士を見つめました。
「勝てると思うか?」
「俺は門番だ。『勝てない』は逃げる理由にならない」
戦士は大剣の切っ先をアッシュに向けます。殺気が刃に宿り、彼の覚悟を伝えます。
「『片牙』には恩がある。どんなに返しても返しきれない大きな恩だ。だから俺は『片牙』のために命を捨てる。『片牙』の役に立つならいつでも死ぬ覚悟がある」
戦士のその言葉を聞いて、アッシュの表情がひどく真剣なそれへと変わりました。体感温度が急激に下がり、戦士は気圧されたようにごくりとつばを飲み込むと、改めて大剣を構えなおしました。アッシュはやや身をかがめると、じっと戦士の目を見つめました。そして――
ザッ!
アッシュは地面を蹴り、あっという間に戦士との距離を詰めると、左手で戦士の左の手の甲を打って大剣を払い、右手で奥襟を掴んで、右足を戦士の左足に引っ掛けて地面に引き倒しました。受け身を取る間もなく倒された戦士は、背中をしたたかに打って動けなくなりました。アッシュは戦士に馬乗りになると、腰に差していた短剣を抜いて逆手に持ち、戦士の喉元めがけて振り下ろしました。
ガッ!
短剣の突き刺さる音が響きます。そして、辺りから音が無くなりました。
「……どうして」
静寂を破ったのは、戦士のかすれた、か細い声でした。自分がまだ生きていることが信じられないように大きく目を見開き、強張った表情でアッシュを見つめます。アッシュが振り下ろした短剣は、戦士の首のわずか数ミリ横の地面に、深く穴を穿っていました。
「力を示すのに、相手を殺す必要はないさ」
アッシュはそう言うと、戦士の体の横に腰を下ろしました。地面に胡坐をかき、諭すように戦士に話しかけます。
「俺を獣人街の、『片牙』の客だと認めてほしい。ここはそういう場所なんだろう?」
戦士の瞳が迷いに揺らぎました。自分が負けたというだけで客とみなすことができるわけではありません。もしこの男が『片牙』の害になるなら、彼は命を投げ出してもアッシュを阻止しなければならないのです。そして戦士はアッシュが『片牙』の利になるのか害になるのか、判断しあぐねているようでした。アッシュは戦士の右肩をぽんぽんと叩きます。
「命を捨てるなんて難しいことじゃない。自分の価値を軽く見るだけでいい。だが、死者は何もできないぞ。誰かの役に立つこともない」
アッシュは空を見上げていました。終わらぬ冬に縛られた空は厚い雪雲に覆われています。しかしアッシュはその雲の向こうの、その先を見ているようでした。
「お前さんは生きるべきだ。生きていればこそ、できることがある」
アッシュの声は大きくも強くもなく、沁み入るように広がっていきます。冬の冷たい手触りが肯定も否定もせずに揺らめいていました。
「……俺に、生きろと言ったのは、あんたで二人目だ」
小さくそう呟いて、戦士は右手で自らの顔を覆うと歯を食いしばり、しばらくの間、その恰好のまま地面に横たわっていました。アッシュは戦士の横に座ったまま、じっと戦士の言葉を待っていました。
「俺の、負けだ」
ずいぶんと時間をかけて、戦士は絞り出すような声で、アッシュにそう告げたのでした。