七、獣人街
薄暗く狭い路地を、アッシュはひとり歩いていました。周囲には、木切れや石をデタラメに組み合わせ、隙間を布でいい加減に覆った、家とも言えない粗末な小屋がひしめき合っています。ここは華やかな王都の影。外門の向こうに広がる巨大な貧民窟であり、逃げ出した者、帰れない者、隠れ生きる者、行き場の無い者、そんな者たちが集まる吹き溜まりです。
小屋は住人たちによって好きなように建てられ、増築され、あるいは壊され、片づけられています。そのため、小屋の間の道――というより、隙間といったほうが正確かもしれません――は通る人のことを考えて作られてはおらず、狭く、そして迷路のように入り組んでおり、どこに続いているのかさえ分かりません。小屋同士が密集しているため、火事になれば一気に燃え広がり、住民は逃げる間もなく炎に包まれてしまうでしょう。そして火事が収まり、小屋が焼き払われてできた空間には、あっという間に新しい小屋が建てられていきます。消火設備も防火設備もないこの場所では、火事なんてしょっちゅうです。
そんなわけで、昨日まであった道が今日はもう塞がれていたり、逆に朝起きたら今までになかった道ができていたり、とにかく目まぐるしく変化するのです。それゆえに、犯罪者やならず者たちにとっては恰好の隠れ家になっています。
アッシュの視界に人の姿は見当たりません。しかし、小屋の中、道の角を曲がった先、ガレキの影、屋根の向こう、そんなところからじっとこちらの様子をうかがう気配がひしひしと伝わってきます。彼らは見定めているのです。彼らとアッシュと、どちらが強いか。もし彼らがアッシュを弱いと判断すれば、彼らは一斉に襲い掛かってきて、アッシュの持っているものをすべて奪っていくでしょう。
周囲に充満する不穏な気配をまるで気にする様子もなく、足元に転がるゴミやガレキを避けながら、アッシュはどんどん奥へと進んでいきます。向かっているのはこの吹き溜まりの中心。通称『獣人街』と呼ばれる場所です。
「獣人街の顔役の一人に、『片牙』って男がいます。彼に頼めば断崖まで旦那を連れていってくれる。『楽士に言われた』って言えば、話くらいは聞いてくれるはずですよ」
楽士はアッシュにそう言いました。獣人街とは文字通り、獣のごとき者たちの住まう場所と言われています。知性もなく、温かい心も持たず、他人を裏切り、己の欲のためだけに生きている、おおよそ人間とは言いがたい者たち。彼らは自らを獣人と呼び、この国の闇を支配しているのです。獣人街にはこの世のあらゆるものが集まると言います。金も、輝く宝石も、美しい女たちも、おぞましい罪も。
どうして楽士が獣人街の顔役と知り合いなのか、疑問に思わないではありません。しかしアッシュにとってここは『季節の塔』の扉を開ける唯一の手掛かりです。楽士がアッシュと騙す理由もないと踏んで、アッシュは獣人街を目指すことにしたのです。
不意に視界が開けて、アッシュは思わず足を止めました。そこはちょっとした大きさの広場になっており、広場の向こうには、道幅も広く、しっかりとした木造の建物が整然と並んでいます。そして、広場の中央にはまるで門のように二本の大きな木が生えており、その間には黒い布で顔全体を覆った戦士が、地面に突き立てた大剣の柄頭に両手を乗せ、威圧するように立っていました。覆面から覗く瞳だけがギラリと物騒な光を放っています。
「獣人街は人の理の及ばぬ場所。獣の習いに従って、強い者が弱い者を支配する。力を示せば旦那、あなたは獣人街の客になれるが、力がなけりゃ餌になる」
楽士が別れ際に言った警告がアッシュの頭をよぎりました。つまり、あの戦士は門番であり、獣人街を訪れる者が客か餌かを見極める審判者ということでしょう。広場には柵もなければ境界線もなく、広場の端を通れば戦士を無視して中に入ることは可能かもしれません。しかしもしそんなことをしたら、アッシュは獣人街の客としては認められないでしょう。入り口から入らない者が歓迎されないのは獣人街でも同じなのです。
アッシュはわずかに口の端を上げると、無遠慮に、正面から、戦士に向かって歩き始めました。戦士はまるで彫像のように、身じろぎひとつしません。アッシュは散歩でもするように無防備に戦士に近づいていきました。そして、アッシュが戦士の大剣が届く距離に踏み込んだ、その刹那――
ぶんっ
戦士は目にも止まらぬ速さで地面から大剣を引き抜くと、アッシュに鋭く斬りつけました。アッシュはわずかに身を引いてそれをかわすと、不敵な笑みを浮かべて言いました。
「あいさつも無しかい?」
軽口ごと叩き切る勢いで、戦士は大剣を翻します。アッシュは大きく後ろに飛びずさって、斬撃の届く範囲から逃れました。
自分の腕に相当の自信があったのでしょう。斬撃をかわされたことに動揺する気配が戦士から伝わってきます。覆面をかぶっているため表情こそ分かりませんが、アッシュの力量を計りかねて次の一手を迷っているようです。
いい腕をしている、しかしまだ若い。アッシュは戦士をそう判断しました。大剣を軽々と操る膂力は大したものです。経験を積めばいい戦士になるでしょう。しかしまだ、負ける気はしません。
戦士は大剣を構え、じっとアッシュのスキを伺っています。対照的に、アッシュは剣を抜くこともせず、気安い様子で戦士に話しかけました。
「ここに『片牙』って顔役がいると聞いたが、本当か?」
戦士はアッシュの言葉に全く反応せず、殺気を漲らせています。アッシュはアッシュで、返事がないことを気にも留めずに話し続けます。
「楽士の紹介で来たんだがね。『片牙』の知り合いの紹介で来た人間を勝手に追い返したんじゃ、あんたにも都合が悪いんじゃないか?」
戦士はやはり何も答えません。生真面目すぎる戦士の態度に、アッシュは苦笑いを浮かべて空を仰ぐと、ポリポリと頭を掻きました。
ざっ!
アッシュのその様子を隙と見たのか、戦士は弾かれたように地面を蹴り、一気に間合いを詰めると、大上段からまっすぐに大剣を振り下ろしました。すると、次の瞬間。
ぐるんっ
天地がひっくり返り、戦士はいつの間にか地面に仰向けに倒れていました。一体何が起こったのか、訳が分からない。地面に倒れたままの戦士から、そんな困惑の気配が伝わってきます。
アッシュは倒れている戦士を面白そうに見下ろしています。戦士は自分の身に起こったことを、ゆっくりと思い返しました。
戦士がアッシュに斬りかかろうと間合いを詰めたそのとき、アッシュもまた戦士のほうに一歩踏み込んでいました。そして戦士の懐に飛び込むと、勢いをそのまま利用して、ぽーんと投げ飛ばしてしまったのです。
状況を理解して、戦士はあまりの屈辱に身を震わせました。投げ飛ばされたはずなのに、体のどこかが痛いわけでもなければ、けがをしている様子もありません。つまり、アッシュは手加減をしたのです。戦士の体の横には、愛用の大剣が転がっています。アッシュは武器を取り上げることすらしていません。
「……貴様っ!」
激しい怒りの声とともに、戦士は大剣を掴んで勢いよく起き上がりました。アッシュは右足で自分の左のすねを掻きながら、戦士が起き上がるのを眺めています。その態度が戦士の怒りにさらに油を注ぎました。
「うおぉぉぉぉっっっっ!」
唸り声を上げ、戦士はすさまじい勢いで大剣を振り回します。アッシュはそれをひょいひょいとかわしながら、戦士の声が思っていたより若いことに驚いていました。おおよそ十八くらいでしょうか。その年齢でこの腕前は大したものです。
「避けるな!」
簡単に避けられていることに苛立っているのか、戦士が剣を振るいながらそんなことを言いました。「無茶を言う」と苦笑して、アッシュは攻撃を避け続けます。怒りに任せて振り回された剣は、軌道もリズムも単純で、避けるのは難しくありません。しかも疲れてきているのか、剣を振るスピードも徐々に遅くなってきています。
「ぬがぁっ!」
なかばやけくそ気味に、戦士が大剣を大きく払いました。アッシュは距離を取ってあっさりとそれをかわしましたが、戦士はそれを追いかけることなくその場にとどまりました。というより、疲労によって追いかけることができなかった、と言うほうが正解でしょうか。剣の先を地面につけ、ぜぇぜぇと肩で息をしています。
「そんな布を被っているから当たらないんじゃないか?」
「黙れっ!」
涼しい顔で忠告するアッシュに、戦士は怒鳴り返しました。しかし、苦しそうに息を乱しながら怒鳴ったところで、迫力があるはずもありません。
「どんなこだわりか知らないが、視界も悪くなるし、息もしづらいだろう? 脱いだほうが正解だと俺は思うがね」
ようやく息を整え、戦士は大きく息を吐いて冷静さを取り戻したようです。侮りへの怒りは影を潜め、ためらいと僅かな怖れの気配が覆面越しに伝わります。
「……そんなに俺の顔が見たいか?」
「謎の黒覆面とやりあうより、顔の見える相手のほうがいくらか気分がいいだろうさ」
「後悔することになるぞ」
アッシュの言葉に被せるように戦士は言いました。それは先回りしてあらかじめ傷付いておくための儀式のようです。ヤマアラシが逆立てる針に似た戦士の言葉に、アッシュは小さく首を横に振りました。
「そいつはお前さんの決めることじゃあないな」
アッシュの余裕を失わない態度は、自分の心の在り様は自分で決めるのだと言っているようです。戦士は覚悟を決めたように強く短い息を吐きます。
「そこまで言うなら見せてやる。そして、この顔を見たその時が、貴様の最期だ!」
戦士は顔を覆う布に手を掛けると、勢いよく脱ぎ捨てて空へと放り投げました。
「こ、これは……!」
太陽の下に晒された戦士の顔に、アッシュは大きく目を見開きました。