五、サイハテ
「だとしたら、『季節の塔』の扉を開ける方法はないな」
アッシュは淡々と言いました。『女王』が『季節の塔』の扉を閉ざし、冬を終わらせることを拒む明確な理由があるのなら、その原因を突き止めて問題を解決すれば扉は開くでしょう。しかしもし、はっきりとした理由がないのなら、ただ何となく嫌になってしまったのだとしたら、力づく以外の方法で扉を開けることは不可能です。そして、力づくで扉を開けることが不可能だということを、アッシュは昼間に『季節の塔』の前で目の当たりにしているのです。
歌う酒樽亭は、相変わらずの喧騒に満ちています。人々が語らい、歌い、飲み、騒いでいます。机と机の間を、忙しそうにパタパタと駆け回るルルカの足音も聞こえます。アッシュは無言でグラスに残った酒をちびちびと飲んでいました。楽士もまた何も言わず、ワインをなめるように飲んでいます。アッシュは酒をもう一杯頼むには財布が心もとないと思っていて、楽士は次の一杯はおごってくれないだろうな、と思っていたのです。
たっぷりの時間をかけて、二人の酒がグラスからなくなった時、
「……方法は、なくはないんですがね」
楽士は渋い顔でつぶやきました。その歯切れの悪い物言いから、言うべきか言わざるべきか、迷っている様子が伝わってきます。
「なにか心当たりでも?」
アッシュはそう言って話の続きを促しました。楽士はアッシュの顔をちらりと伺うと、
「冬を終わらせるのは何だと思います?」
アッシュの問いに答えず、まったく別の問いをアッシュに返しました。楽士の意図を計りかねて、やや困惑した様子でアッシュは答えます。
「……春の訪れ、かな?」
「鋭い! その通りです。春が来れば冬は終わる。しかし、アルファシルは『女王』によって四季が支配されていますから、『女王』の意思に反して春が訪れることはありません」
何を当然のことを、とアッシュは訝しげに楽士を見つめます。
「だから『季節の塔』の扉は開けられないんだろう? 『女王』の意思で凍り付いているんだから」
「いいえ、旦那。この世にはね、『女王』の支配を受けない場所がある。私たちはその場所を『サイハテ』と呼んでいます」
「『サイハテ』?」
耳慣れぬ地名をアッシュは口の中で繰り返しました。長く旅をしていますが、そんな場所は聞いたことがありません。北にあるのか南にあるのかさえ、アッシュには分かりませんでした。楽士はうなずきを返しました。
「言葉の通り、この世の果てのような場所だと言われています。行ったことはありませんがね」
遥か古の伝承にのみ伝わる地。今やほとんど誰の記憶にもない、忘れられた大地。『サイハテ』はそんな場所なのだと、楽士は言います。
「『サイハテ』は千年前、レスカテへの服従を拒んだ人々が、一人の魔法使いに導かれて渡った地だと伝えられています。『女王』の力によって季節が正しい巡りを取り戻したアルファシルと違い、『春の終わりが雪に閉ざされ』と歌われた季の乱れがそのまま残る過酷な土地です。見渡す限り荒野が広がり、木々はねじくれ、魔物が跋扈する人外魔境。だがそこには、『女王』に支配されない季節の力がある。それを持ち帰ることができれば、あるいは」
「『季節の塔』の扉を開けることができる、か」
アッシュの相槌にうなずきながら、楽士はしかし浮かない顔です。言ってはみたものの確信がない、あいまいな情報を伝えることにいささかの葛藤を感じているようでした。アッシュは値踏みするような視線を楽士に向けます。
「あんた、最初に『扉を開ける方法は知らない』って言ってなかったか?」
「うまくいく可能性なんてほぼゼロですよ。そんな話をおいそれとできるはずもない。私は旦那の生命力をゴ……えー、生命力を信じてお話ししたんです」
「ゴの後に続く言葉に非常に興味があるな」
正面を向き、酒をひと口含もうとして、グラスがカラであることに気付き、アッシュは苦々しい顔になりました。アッシュの穏やかな怒声にじんわりと汗を滲ませ、楽士はせわしなく視線を彷徨わせると、ようやく搾りだしたように言いました。
「……ゴ、ゴンザレス」
「誰だよ」
「我々楽士の間では有名な、有名な、戦士、そう戦士です。三十七回死にかけたにもかかわらず生還した奇跡の英雄です」
妙に早口でゴンザレスの解説をする楽士を、カラカラに乾いた視線でじっと見つめながらアッシュは言いました。
「絶対、今考えただろ」
「それはともかく、『女王』を説得することも、力づくで破壊することもなしに塔の扉を開ける方法は、それしかないってことですよ」
強引に話題を戻し、楽士は力強く断言します。半眼で楽士をにらみ、小さくため息を吐くと、アッシュは楽士に問いました。
「季節の力を持ち帰るって言うが、どうやって? 『春』って物体がその辺に転がってるわけじゃないだろう?」
「それは……頑張って」
わずかにアッシュから視線を外し、楽士はもごもごと答えました。アッシュは冷静に問い返します。
「頑張ってどうにかなるのか?」
「私だってわかりませんよそんなことは行ったことないんだから! そもそも、限りなく可能性の低い話だって言ってるでしょう! 実は『サイハテ』にそんなものはないってことも充分あるし、季節の力を持って帰ることができるとも限らない。持って帰ったとして、それで扉を開けられる保証もない。確実な方法をお望みなら『サイハテ』には行くべきじゃない」
わからないのは自分のせいではない、と力説する楽士を、アッシュは冷ややかに見つめます。楽士は不満そうにアッシュを見つめ返しました。ふむ、と小さくうなり、アッシュはしばらく楽士を見ていましたが、やがて辻馬車の行き先を聞くように事も無げに言いました。
「で、どうやったら『サイハテ』に行ける?」
「行く気ですか!? 本当に? 全くの無駄足になるかもしれませんよ?」
驚いたように目を見開き、楽士は身を乗り出しました。目的を果たす当てもなく、ただただ過酷な旅になるかもしれません。いや、間違いなくそうなるでしょう。そしてその旅は生きて戻れぬ旅になるかもしれないのです。
「ここでボーっとしててもしょうがないだろ。それに、そんな面白そうな場所があるならぜひ見てみたい」
「観光に向いた場所じゃありませんがね」
危機感のないアッシュに楽士はあきれ顔です。しかしアッシュはまるで気にしていません。
「その土地の人々の生活、そのままに飛び込んでいくのが、旅のだいご味ってやつなのさ」
アッシュの言葉には何の気負いも、覚悟も、執着もありませんでした。楽士は心底感心したようにため息をつきます。
「旦那って人は、本当に囚われない人ですねぇ」
楽士の目に興味深げな光が宿りました。この男になら、という期待と、この男がダメでも、という冷酷さが共存しています。ためらいを捨て、楽士はまっすぐにアッシュを見つめました。
「『サイハテ』は存在するがこの世には無い場所です。だから、旦那がどれだけ歩き回っても辿り着くことはできません」
「存在するが、この世には無い?」
意味が分からないとアッシュは眉を寄せます。楽士は大きくうなずきました。
「神に与えられた『女王』の力は強大で、この世にあってその力の支配を逃れることは不可能でした。そこでレスカテに服従することを拒む人々を導いた魔法使いは、『サイハテ』の地をこの世から切り離した」
「それは、すさまじいな」
アッシュは目を丸くして感嘆の声を上げます。世界から切り離された土地、という言葉に好奇心が刺激されたようです。
「当時の魔法使いは、今よりもはるかに強い力を持っていたそうですよ。神が去ったとはいえ、世界はまだ魔法の力に満ちていた。神が去って久しい今の世では考えられないようなことが、千年前の魔法使いにはできたんですよ。とはいえ、ある土地をこの世から切り離すなんて離れ業が誰にでもできたわけもない。その魔法使いは、当代最高と言われた伝説級の人物だったそうです」
「へぇ」
魔法使いの凄さを語る楽士に対し、アッシュはピンとこないような生返事で応えました。千年も前の人間に会えるわけでなし、と、あまり興味を持てないのでしょう。
「……興味が薄そうなご返事で。でも、その魔法使いのことは頭の隅に置いておいたほうがいい。彼の名はアロガンス。『サイハテ』で『季節の塔』の扉を開ける方法を探すなら、その名前は手がかりになるはずです」
「ふぅん」
アッシュの反応の手応えのなさに楽士は肩を落とします。
「……まあ、いいですけどね。アロガンスは『サイハテ』を異界化し、そしてこちら側とあちら側の境界に『断崖』を作った。『女王』の力が及ばないよう、城壁としてね。だから、『サイハテ』に至るには必ず『断崖』を越えなきゃなりません」
ランプの灯りが揺らめき、楽士の影が不吉な予感を伴って歪みました。周囲の喧騒がどこか遠くなります。
「実はね、旦那。私にはちょっとしたコネがありましてね。もし旦那がお望みなら『断崖』への道案内を世話してもいい。ただし……」
楽士の目に酷薄な光がかすめます。それは勇者に試練を与える神のようでも、憐れな愚者を死に誘う死神のようでもありました。
「命の保証はありません。そして今まで、私が『断崖』への道案内を世話した人間は何人もいるが、無事に帰ってきた人間は一人もいない。それでも行きますか?」
楽士の試すような視線に、アッシュは不敵な笑みを浮かべて頷きました。