四、楽士
しばらくして、舞台裏から一人の男が出てくると、カウンターの端の席に座りました。長い髪を後ろでまとめ、飾り気のない、動きやすそうな服を着ています。印象はずいぶん違いますが、男は先ほど舞台で喝さいを浴びていた楽士に違いありません。
「ごくろうさん。今日もよかったよ」
「ありがとうございます」
主人の賛辞に素直に礼を言って、楽士は酒と料理を注文しました。
「一杯おごらせてくれ」
アッシュはグラスを持った右手を軽く上げ、楽士に声を掛けました。
「いいんですか? それじゃ、遠慮なく」
楽士は嬉しそうにそう言うと、本当に遠慮する様子もなく、アッシュの隣の席に移動しました。アッシュは主人に楽士の酒代を自分が払うと伝えました。
「どうでした? 私の歌」
「愛国心とは無縁でね。流れ者には向かない歌さ」
アッシュは皮肉気に口の端を上げました。
「あらら、これは手厳しい。私としては、流行に乗ったつもりなんですがね」
アッシュの言葉を大して気にした風もなく、楽士は笑って言いました。
「この歌はね、旦那。今から千年も前に、旅の吟遊詩人が時の王に献上した歌なんですよ。王はこの歌を大層気に入りましてね。その吟遊詩人は初代の宮廷楽士になりました」
「どうりで薄っぺらいわけだ」
「ははは、旦那って人は遠慮がない。私にはそんなこと、とても口に出して言えません。心で思っていてもね」
本音を言うには差し障りのある職業でして、と楽士は笑いました。権威というものはどこにでも存在しており、それらを敵に回すような発言をするのは難しいのだと。不謹慎だ、不敬だと、そう言い立てられれば、もうその街で歌うことはできないのです。
主人がワインの入ったグラスを楽士の前に置きました。楽士は「ありがたい」と言いながら嬉しそうにグラスを手に取ると、アッシュに向かって軽くグラスを掲げ、そして中身の半分ほどを一気にのどに流し込みます。
「くぅー、うまい! おごりだと思うとなおさらうまい!」
楽士はそう大きな声で呟き、機嫌良さそうにアッシュに笑顔を向けました。
「で、旦那。私に何が聞きたいんです?」
「おっと、見え透いてたか」
アッシュは少しだけばつが悪そうな笑みを浮かべました。楽士は「当たり前でしょ」とでも言いたげな目をしてアッシュを見ています。
「私も旦那と同じ種類の人間ですよ。目的のない善意は気持ちが悪い」
楽士の目に、一瞬だけ冷たい光が掠めました。柔和な笑顔の裏で、常に警戒し、決して他人を信用しない、そんな野の獣のような心を持つ者の、独特の光。もっとも、それは流れ者なら誰でも持っているものです。己を守るものは己しかいない、そんな人間なら、誰でも。
「『女王』について。知ってることがあれば聞かせてほしい」
「おやおや、旦那も『季節の塔』の前でやらかしちまったクチですか?」
楽士は意地悪そうにニヤニヤと笑いました。アッシュは肩をすくめると、
「残念ながら芸人の才能はないんだ。遠くから見てただけさ」
そう答えました。楽士はがっかりした顔になると、少しすねたように言いました。
「『季節の塔』の扉の開け方なら知りませんよ。知ってたら私が開けてる」
「分かってるよ。聞きたいのはそこじゃあない」
アッシュはひと口だけ酒を含むと、昼間の『季節の塔』での様子を思い返しました。
「塔の前のお祭り騒ぎを見て、力づくじゃどうにもならないと分かった。別の視点が必要だ。あんたなら俺の知らない『女王』の話を知ってるんじゃないかと思ってね」
「ふぅん」
楽士は目の前に持ち上げたグラスをぼんやりと眺めながら、少し何かを考えているようでした。カウンターに置かれたランプの灯りが楽士の横顔を照らしています。しばらくの沈黙の後、楽士はアッシュに視線を向けました。
「旦那はどうして塔の扉を開けたいんです? やっぱり、王様からの褒美が目当てで?」
「もらえるものを拒みはしないがね。どうしてもってほどじゃない」
「だったら、なぜ?」
「聞きたいだけさ。どうして急に冬を終わらせたくなくなったんですかってね」
アッシュの言葉に楽士はぽかんとした表情になり、そして口を押えて笑い始めました。ひとしきり笑い終わった後、
「旦那、あんたは面白い人だ。いいでしょう。私の知ってることで良ければ、何なりとお教えしますよ。ただ……」
楽士は空になったワイングラスを軽く目の高さに掲げました。
「もう少しのどの滑りが良くなると、私もしゃべりやすいんですがね」
楽士の露骨な催促に苦笑しながら、アッシュは主人に追加のワインを注文しました。新しいワインが注がれたグラスを嬉しそうに手に取ると、楽士はひと口だけのどを潤し、アッシュに向かって話し始めました。
『女王』とは、先ほどの薄っぺらい歌にあったように、今から千年前、神によって季節を司る力を与えられた一人の女性のことを指す呼び名です。年の頃は十五ほど、美しい黒髪と透き通る白い肌の、清らかな乙女であったと伝えられています。当初は『聖女』『四季の巫女』『神の娘』など、様々な呼び方をされていましたが、レスカテの建国と同時に『女王』と呼びならわす決まりとなりました。というのも、レスカテは彼女の治める国であると定められたからです。少なくとも名目の上では、この国の主は『女王』なのです。
季節の力を授かって以来、『女王』は歳を取ることも、病気になることも、死ぬこともなくなったのだと言います。もはや人を超越した『女王』は、生き神として王国の各地で敬われ、信仰の対象になっています。
『女王』は『季節の塔』にこもり、日夜祈りを捧げています。その祈りのおかげで季節は正しく巡り、大きな災害も起こらないのです。『女王』はその役割を果たすために、『季節の塔』から外に出ることは叶わないのだと言います。外に出ると祈りが天に届かなくなるから、というのがその公式な理由ですが、『女王』自身の身の安全を守るためでもあります。『女王』はレスカテ王国にとって極めて重要な人物です。ということは、王国に不満を持っていたり心に叛意を持つ者の中には、『女王』を害そうとしたり、自分の欲のために利用しようとする者も大勢いるのです。
「名目上の君主。不老不死。生き神。季節を司る力。自由のない日々。あらためて考えると大変だな。俺なら三日で逃げ出してる」
『女王』が担うものの大きさに、アッシュはため息をつきました。今、この世界は、『女王』の存在なしには成り立たなくなっているのです。それはつまり、この世界に住むすべての人々――もちろんアッシュもその中の一人ですが――が、その自覚があるかどうかにかかわらず、『女王』に頼り切って生きているということです。アッシュは、たった一人の、それも少なくとも見た目は十五そこそこの子供に頼らねばならないこの世界の在り方に、気持ちの悪さを感じていました。
「旦那のような人間ばかりじゃないってことですね」
楽士はアッシュのそんな感傷をまるで意に介していないようです。
「……どういう意味だ」
半眼で睨むアッシュの視線をにこやかにかわして、楽士はさらりと話題を変えます。
「さて、ここまではよく知られた普通の話。ここからが内緒の話だ」
楽士は声のトーンを落とすと、顔をアッシュにグッと近づけました。
「さっき私が歌ったあの歌。あの歌の中で、王は神からの啓示を受けて季節の乱れの原因とその対処法を知る。つまり、季節の乱れは人の心の荒廃によって引き起こされたため、清い心を持った者が季節を操る力を得ればよい、ということを知るってことになってますが、旦那、大きな声じゃ言えませんがね。どうにも胡散臭い話のようで」
「胡散臭い?」
楽士の言葉に興味を惹かれたのか、アッシュもまた楽士のほうに顔を寄せました。楽士は得意げに話を続けます。
「仕事柄、どうしても歴史や伝承の勉強は不可欠でしてね。いつの間にか、各地の町や村を訪れるたびに、古い文献や長老の話なんかを収集するようになってしまったんですよ。職業病ってやつですかね。それでね、私の知る限り、王が神の啓示をうんぬんって話は、レスカテ建国以後にしか出てこないんです。逆に、建国後にはあちこちに出てくるようになる。急に、しつこいくらいにね」
どういうことだかわかります? と言うように、楽士は一度話を区切り、アッシュの反応を伺います。
「創作、ってことか?」
「おそらく。建国間もない王国の、権威づけのための政治宣伝ってとこでしょうかね」
アッシュの言葉に間髪を入れず、楽士は答えを披露しました。楽士の答えを聞いてアッシュの顔が曇ります。その表情を見て、楽士は満足そうに頷きました。
「おや、お気づきのようですね。そこが創作だとしたら当然、その後の話も疑うべきだ。はたして、『神に仕えし乙女』は本当に自らの意思で『季の司たらん』と言ったのか」
「意思に反して彼女は『女王』になった」
「あるいは、意思を問われずに『女王』になった」
「意思を問われずに?」
言葉の意味を捉えかねて、アッシュは怪訝そうに楽士を見ました。
「『女王』になるということがどういうことかを知らされなかったということです。そして今回、何かのきっかけで不満が限界に達して、『女王』の役割を放棄するに至った」
「何かのきっかけって?」
「それは、まあ、何かあったんじゃないですか? 知りませんけど。夕食のハンバーグがいつもより小さかったとか」
楽士の言葉に、アッシュは力が抜けたようにガックリと肩を落としました。少しでも真剣に話を聞いていたことを後悔しているようです。
「絶対に違う。もしそうだとしたら、俺がでっかいハンバーグ作って持ってくわ」
アッシュの言葉に大きく目を見開き、何かすごいことを思いついたように身を乗り出して、楽士は今までにない真剣な表情を作ると、
「『季節の塔』の扉を開けるためにハンバーグを持参した人間はたぶん一人もいませんよ。試してみる価値はある」
自分の胸の前でこぶしをグッと握ってアッシュを見つめました。アッシュは心底疲れた顔をすると、楽士から顔をそらして正面に向き直りました。
「お断りだ。自分で試せ」
「私、こう見えて料理は全くできません」
「知らんわ。何のカミングアウトだよ」
食材がかわいそうになるレベルです、と朗らかに笑う楽士を、アッシュは冷たく突き放しました。楽士はアッシュの態度を気にすることもなく、腕を組んでうーむと唸りました。
「ちょっと無理筋でしたかねぇ。いいとこ突いてると思ったんですが。ああ、ついでに言うと、彼女が『神に仕えし乙女』だったというのは明らかな嘘ですよ。当時、女性は神職にはなれない決まりでしたから」
女性が神職になることを認められるようになったのは、レスカテの建国以後のことなのだと楽士は言いました。女性である『女王』が信仰の対象となったことで、『女王』に仕える聖職者は徐々に性別を問われなくなっていったのだそうです。
「嘘だらけだな」
アッシュはあきれ顔で軽くため息をつきました。そんなもんでしょ、と楽士は訳知り顔です。
「嘘じゃないこともありますよ。彼女が季節を操る力を得たこと。そして、彼女を庇護する北の小国の王がアルファシルを統一し、レスカテを作ったこと。その二つだけはまぎれもない事実です。その二つだけはね」
「含みのある言い方じゃないか」
楽士の瞳を冷酷な光がかすめます。それは人の業を冷笑しているようでも、憐れんでいるようでもありました。
「旦那ならおわかりじゃないんですか? 北の辺境にあった小国の王がどうやってアルファシルを統一したのか」
「『神は正しきを幸いとし』だろ?」
「本気で言ってます?」
アッシュは少しおどけたように肩をすくめます。楽士が表情を改めました。
「季節を操る力を持った『女王』を手に入れた王が長く続いた戦乱の世の勝者となったなら、『女王』が何をさせられたのかは想像に難くない」
「さぞ人の醜さを見せつけられただろうさ」
「嫌というほどね」
楽士はグラスを掲げて灯りに透かせると、どこか遠くを見つめました。
「……それでも、千年、役割を果たし続けたのか」
アッシュはぼんやりとそう呟きました。千年という時間の長さを想像しようとしてみても、なかなかできるものではありません。しかも『女王』は、その時間のすべてを『季節の塔』の中で、季節を巡らせるための祈りに捧げているのです。
「本当はとっくに、人に望みなど失っていたのかもしれませんよ。いつ投げ出してもおかしくなかった。百年前でも、十年後でもね。偶然に今になっただけで、理由もきっかけも無いのかもしれません」
灯りに照らされた楽士の横顔は無表情で、彼が何を考えているのかをうかがい知ることはできませんでした。




