二十一、兄妹
マドワシはバサリと羽ばたき、『断崖』の向こう、つまりもと来た方向へと飛び去っていきました。マドワシは『サイハテ』に辿り着くまで案内するのが仕事で、『サイハテ』の中まで案内するつもりはないということなのでしょう。アッシュはマドワシが消えた『断崖』の空を見つめながら、苦々しい顔でつぶやきました。
「言いたい放題言いやがって」
人間として大切なものが決定的に欠けている、そう言われて、アッシュは言い返すことができませんでした。欲も情けも絆も、何年も前に失ってしまいました。一人になり、流れ者になった日から、アッシュにとって世界は本質的な部分で『関係のないもの』になってしまったのです。
「さて、どうするかな」
気持ちを切り替えるために大きく息を吐いて、アッシュは周囲を見渡しました。『サイハテ』の名にふさわしく、見渡す限り何もない荒野が続いています。はるか遠くに見える山際には、弱々しい太陽が苦痛にあえぐように沈もうとしていました。乾いた風が砂埃を巻き上げ、どこからか獣の鳴き声を運んできます。この場所に留まっているのはあまり賢明ではなさそうです。
アッシュは視界の端に、何か荒野とは異なる、黒い影のような塊を見つけました。よくよく目を凝らしてみると、どうやらそれはアッシュの見たこともないような木々が生い茂る森のようです。森があるならそこには水があり、水があるところには生き物がいるはずです。水と生き物がいれば、それらを糧に生きる人がいてもおかしくありません。歩いていくには相当な距離ですが、こんな荒野にポツンといたところで誰かに会える確率は極めて低いでしょう。ならば、少しでも可能性のあるほうに賭けたほうがいい。アッシュは黒い影のような森へ向かって、少し早足で歩き始めました。
日没とほぼ同時に、アッシュは森の入り口までたどり着きました。アッシュは道具袋からカンテラを取り出して灯りを点しました。『サイハテ』の過酷さを体現しているかのように、木々はねじくれ、枝には棘を生やし、樹皮はうろこ状に細かく割れて鈍く光を反射しています。まったく見たことのない樹木の姿に、アッシュは『サイハテ』に来たことを実感しました。森は鬱蒼として、星の光は中に届いてはいないようです。闇の森に案内もなく足を踏み入れて生きて帰れるのか、アッシュは思案げに森の奥を見つめます。
「ふむ」
ややわざとらしくそう唸りながら、アッシュは森の中からこちらに注がれる視線を感じていました。視線の数は二つ、でしょうか? 気配を殺し、明らかな警戒と共にこちらの様子を探っています。向こうはアッシュが視線に気付いていることに気付いてはいないようです。アッシュはそちらに視線を向けないよう気を付けながら、ゆっくりとした動作で腰のベルトに差した投げナイフを手に取ると、素早く気配のほうに投げつけました。
「うわっ!」
幼い叫び声が聞こえます。アッシュは迷わず真っ暗な夜の森に飛び込み、声の主を探します。せっかく会えた言葉の通じるかもしれない相手、ここで逃せば次に誰かに出会えるとは限りません。敵であれそうでない相手であれ、今ここで確保しなければ未来は闇です。
「兄ちゃん!」
叫び声とは別の声が近くから上がります。先ほどよりもさらに幼い声――なぜかアッシュの脳裏にリリとラサの顔が思い浮かびます。
「バカ、来るな! 逃げろ!」
「でも!」
やぶをかき分け、アッシュは声の主のいる場所までたどり着きます。カンテラを掲げると、そこには小さな二つの影がありました。影たちはまぶしそうに手をかざして目を細めます。カンテラの光に照らし出されたのは、二本足で立って服を着たふたりの仔猫でした。片方の仔猫は木に服をナイフで縫い留められて動けず、もう片方の仔猫はそのナイフを抜こうと必死です。アッシュは地面にカンテラを置き、木に縫い留められている仔猫に正面から近付くと、しゃがんで目線の高さを合わせ、頭を撫でました。
「頭をなでるな!」
バカにするなと言わんばかりに仔猫が抗議の声を上げます。アッシュは撫でるのをやめ、しばし仔猫を見つめると、服を縫い留めていたナイフを抜いて仔猫を抱きあげ、あやすように揺らしました。
「抱っこするな!」
憤懣やるかたなし、といった様子で仔猫はアッシュをにらみ、シャーと威嚇します。アッシュは揺らしていた腕を止め、またしばし仔猫を見つめると、その身体をひょいと持ち上げ、肩車しました。視線の位置が高くなり、仔猫は「ふおぉ」と感嘆の声を上げます。
「か、肩車は、しても、いいぞ」
「兄ちゃん……」
簡単に篭絡されてしまった兄の姿に、妹であろうもう片方の仔猫が肩を落とします。アッシュは妹猫に向かって声を掛けました。
「肩車する?」
妹猫は小さく首を横に振りました。
「いえ。もうそんな子供じゃないので」
ツンと大人の顔をする妹猫に「それは失礼」と謝罪し、アッシュは尋ねました。
「俺は旅をしていてね。今日の宿を探してるが、この辺りには不案内なんだ。よかったら君たちの村に連れて行ってくれないか?」
妹猫は兄猫を見上げます。
「どうする?」
兄猫はアッシュの頭をぺしぺしと叩きながら答えました。
「ボクの家来になるんだったらいいぞ」
妹猫は呆れたような表情を浮かべます。
「フィーリウスに怒られるよ」
「だいじょうぶさ。となり村の奴らと関係があるわけでもなさそうだし。それに、家来になるんだったらボクの命令は何でも聞くってことだろ?」
兄猫は再びアッシュの頭をぺしぺしと叩きました。
「さあ、どうする? ボクの家来になるか?」
「なります」
アッシュは悩む素振りもなく即答します。兄猫は満足げにうなずき、妹猫はじゃっかん疑いの目をアッシュに向けました。その視線を平然と受け止め、アッシュは慇懃な態度でふたりに尋ねます。
「もし叶うならば、我が主となるお二方の名を、この家来めに教えていただけますか?」
「いいぞ!」
兄猫は得意げに胸を張って答えました。
「ボクの名前はクー。こっちは妹のスーだ。よく覚えろよ」
ははーっ、とアッシュは畏まります。妹猫のスーは二人のやり取りを冷めた目で見ていましたが、
「もう行こうよ。早く帰らないと、絶対フィーリウス怒ってるよ」
と兄猫クーを促します。クーは「げっ、そうだった」と顔をしかめ、森の奥を指さしてアッシュに命じます。
「よぉし、家来一号! 最初の任務を与える! ボクたちを無事に村まで連れていけ!」
「ショウチイタシマシタ」
なぜかカタコトで命令に応え、アッシュはスーの手を取りました。
「案内を頼むよ」
大人にお願いをされたことが嬉しかったのでしょう、スーは元気に「いいよ!」と答えます。右手にカンテラを持ち、左手をスーとつないで、クーの「行けー」というあいまいな支持を聞きながら、アッシュは森の奥へと進んでいきました。




