二十、マドワシ
霧はますます深く、アッシュは自分が本当に前に進んでいるのかどうかさえ分からぬまま、案内人の背を追っていました。案内人はアッシュが声を掛けようが、魔物の鳴き声が聞こえようが、立ち止まることも足を速めることもありません。質問をしても返事はなく、景色を楽しむにも霧のせいで何も見えず、アッシュは少しうんざりした様子で額の汗をぬぐいました。時間の感覚も狂っているようで、相当に歩いてきたはずなのですが、霧の中は仄明るく、日暮れにはまだ間があるようです。腹は減ったんだがなぁ、とアッシュはひとりぼやきました。もっとも、こんな場所で食事をとる気にもなりませんが。
そろそろ飽きてきた様子のアッシュの耳に、今度はどこか聞き覚えのある声が聞こえてきました。かすかに聞こえるその声にアッシュの顔が強張り、思わず足を止めて周囲を見渡します。懐かしいその声は、聞こえるはずのない、ある娘のものでした。
びゅう、と強い風が吹き、深い霧を吹き散らします。アッシュの前に、栗色の少しウェーブのかかった髪をした、小柄な若い娘の姿がありました。アッシュが辺りを見回すと、いつの間にかそこには、彼の故郷の風景が広がっていました。娘はアッシュに向かって嬉しそうに微笑みます。
「おかえり」
その声を聞いて、アッシュはわずかに目を伏せました。真新しい家の玄関の前で、帰りを待ってくれている愛しい人。それはかつてアッシュの手の中にあって、そしてこぼれていってしまった光景でした。
「どうしたの? 変な顔をしてるわ」
娘は怪訝そうにアッシュの顔を覗き込みます。いかにも彼女が言いそうなセリフにアッシュは小さく笑います。勝ち気で、明るくて、表情のくるくると変わる娘でした。そのまっすぐな性格に支えられ、救われてきました。
「君は、変わらないな」
「なぁに? 何年も会っていないような言い方」
何が言いたいの、とばかりに娘は口を尖らせます。アッシュは自分の声が若くなっていることに気付きました。そういえば、見える景色も雪が降り積もる冬ではなく、すでに雪解けを迎えた穏やかな春の風景です。アッシュは頭の芯が甘やかに痺れていくのを感じました。今はいつで、ここは、どこだった? 認識は急速にあいまいになっていきます。
「さあ、入って。猪肉をいただいたのよ。食べたら元気が出るわ」
娘はアッシュの手首を掴み、家の中へと引っ張っていきます。たいていの問題は食べたら解決すると彼女はよく言っていました。本当に変わらない。掴まれた手首から彼女の体温が伝わり――はっと激しい違和感に気付いて、アッシュは娘の手を振り払いました。体温、などあるはずがないのです。アッシュが最後に彼女に触れたとき、すでに彼女は温もりを失っていたのですから。アッシュは素早く腰の長剣を抜き放ち、振り向いた娘の首に突きつけました。
「……何の冗談か知らないけど、やめてくれる?」
娘ははっきりと怒りを示してアッシュをにらみました。そう、彼女はこういうとき、怯えるよりも怒るのです。その再現性に苦笑いしながら、アッシュは静かに言いました。
「彼女は死んだよ。もう十年以上前に。お前は、ただの幻だ」
その言葉を聞いた途端、娘の顔からスッと表情が消えました。
「そう」
娘の姿をした『なにか』は、無表情にアッシュを見つめます。
「確かに私は彼女じゃない。でも、あなたの心の中にいる彼女を正確に模倣している。ならば私と彼女の違いは何? 私はあなたにとっての彼女であってもよいのではないの?」
「あんたは彼女じゃない、ってことが、全てなのさ」
アッシュは乾いた目で彼女に答えました。『なにか』はさらに言い募ります。
「幻だとしても、ここには私がいて、故郷がある。あなたさえ望めば、あなたは失ったものを取り戻すことができる。ほら」
『なにか』はアッシュの剣を握る右手に両手を添えました。
「触れることも。愛し合うことも」
アッシュは冷厳と首を横に振りました。
「俺がそれを望むことはない。彼女は死に、故郷は失われた。すべてもう過去のことだ。過去を変えることはできない。紛い物に溺れる趣味はない」
『なにか』は真意を確かめるようにじっとアッシュの目を覗き込みます。そして、どこか呆れたようにかすかに笑いました。
「幻だと分かっているなら、少しくらい甘えたっていいのではないの?」
アッシュは剣を収め、軽く肩をすくめます。
「幻に甘えたら、そりゃ浮気だろう?」
冗談めかした、でも真剣なアッシュの答えに『なにか』は目を丸くし、そしておかしそうに吹き出しました。『なにか』の輪郭が徐々にぼやけ、彼女の形を失っていきます。吹き散らされたはずの霧が再び周囲に漂い始めました。
「あなたに愛された、本物の彼女が、少しうらやましい」
『なにか』はアッシュにゆっくりと近づき、その頬を包むように両手を差し出しました。しかし、幻である『なにか』は、アッシュに何の感触も残さないまま、急速に深まる霧に溶けるように消えていきました。
『なにか』の姿が消えると同時に、懐かしい風景もまた、霧の中に沈んでいきました。辺りは再び真白に覆われ、
――シリン
案内人の鈴の音だけが聞こえます。案内人の姿は霧に隠れてすでに影も見えず、アッシュは置いて行かれたようです。アッシュは荷物から鉄の礫を取り出し、目を閉じて耳を澄ませました。
――シリン
案内人の鈴の音を頼りに、アッシュは右手の親指で鉄の礫を弾きます。礫は霧を切り裂いて飛び、
――シャン!
正確に鈴を打ち抜きました。鈴が地面を転がる音が騒がしく響きます。
「ずいぶん悪趣味なマネをしてくれるじゃないか」
音で案内人の位置を測り、アッシュは駆け寄って袈裟懸けに長剣を振り下ろします。柿渋色のローブが切り裂かれ、案内人がその正体を現しました。
「お前、『マドワシ』だな?」
――バサッ
案内人は大きな羽音を立てて空に舞い上がります。翼が巻き起こした風がわずかに周囲の霧を払いました。その姿は全身が硬い毛に覆われ、腕は鳥のような翼に変じ、脚には猛禽の爪を持ち、猿のような顔は口が耳まで裂けています。案内人の正体は『マドワシ』。人に幻を見せ、幻に捕らわれた人間を喰らうという化け物だったのです。マドワシはクククと喉を鳴らします。
「お客人の言う通り、確かにアタシは人間じゃあない。しかし案内人というのは本当ですよ。正確に言えば、案内人兼判定者、ってとこですがね」
翼を羽ばたかせて剣の届かない空中に留まったまま、マドワシはアッシュを見下ろします。
「『サイハテ』は『まつろわぬ民』の住む地。誰もが足を踏み入れていい場所じゃあない。だからアタシたちは判定するんですよ。迎え入れるにふさわしいかどうかをね」
マドワシは目を細め、アッシュを値踏みするようにその顔を見つめました。
「迎え入れてはならぬ者は三種類。欲深き者。情け深き者。絆を持つ者。欲深き者は己の欲によってサイハテを食い荒らす。情け深き者は情に惑わされてサイハテをかき乱す。絆を持つ者は、絆に縛られてサイハテを狂わせる」
やがてマドワシは哀れむような表情を浮かべ、ギギギッという耳障りな、満足そうな笑い声を立てました。
「お客人。あんたには欲が無い。情に流されて判断を誤ることもない。大切な誰かに、心を残してもいない。己に執着せず、他者と繋がらず、どんなことにも心を惑わされることがない。つまり、人間として大切なものが、決定的に欠けている」
嘲るようにのどを鳴らし、マドワシはアッシュに告げました。
「だからお客人、アタシたちはあんたを歓迎する。あんたは人だが人間じゃあない。『サイハテ』の地を踏む者として、あんたほどふさわしい人を、アタシは今まで見たことがない」
マドワシがもう一度、大きく翼を広げて羽ばたきます。すると辺りを覆っていた霧がみるみるうちに晴れていきました。そしてアッシュの目の前に広がったのは、痩せこけ、干からびた荒れ地の姿でした。マドワシは地面に降り立ち、道化のように大仰な仕草で深々と一礼しました。
「ようこそ『サイハテ』へ。ここはかつて隷属を拒み、楽園を追われた者たちの住まう場所。季節の恵みを奪われ、生きるために人の形を失った者たちの故郷だ」




