十九、霧の中
深く霧が覆う『断崖』の道を、案内人は迷いのない足取りで進んでいきます。宣言通りにアッシュを気遣うそぶりはなく、はぐれれば本当に見捨てられそうです。アッシュは置いて行かれないように案内人の背中だけを見て歩きます。
やがて霧はますます深まり、すぐ前にいるはずの案内人すらぼんやりとかすんでしまうほどに視界を覆いました。案内人が確かにそこにいることを示すのは、その杖に結わえられた鈴の音だけ。シリン、という澄んだ音だけがアッシュの道しるべです。すると、必死で鈴の音を追うアッシュの耳に、場違いな声が届きました。
「おーい。誰か、誰かおらぬか」
深い霧の向こうから、聞き覚えのない男の声が聞こえます。アッシュが目を凝らすと、向かって左のほうに、影のようなものが見えました。声はその影の辺りから聞こえてくるようです。
「誰か、誰か、いたら返事をせよ」
再び影のほうから声がしました。どうやらあちらからはこちらが見えていないようです。アッシュが案内人のほうを見やると、案内人はまるで声など聞こえていないように、歩調を速めも遅めもせず、同じペースで進んでいるようで、同じ間隔で鈴の音が聞こえます。案内人に置いて行かれないよう注意しながら、アッシュは声の主に向かって声を掛けました。
「どうかしたのか?」
すると、どこからかびゅうと強い風が吹き、辺りを覆っていた霧を吹き散らしていきました。足元さえ見えなかった今までと打って変わって、周囲の状況がしっかりと確認できます。自分の踏みしめている地面を目で確認することができて、アッシュは軽く安どのため息をつきました。
「おお、お前は旅の者か。丁度良い。ほれ、そんなところに突っ立っていないで、私を助けよ」
霧はすっかり晴れ、先ほどは影しか見えなかった場所もよく見えるようになっていました。声の主の姿を探したアッシュは、おおよそこの断崖にはふさわしくない光景に目を疑いました。そこには悪趣味と言っていいほどに豪華に飾り立てられた馬車があり、馬車の窓からは脂ぎってテカテカと光る顔をした小太りの中年男がこちらを覗いています。しかし馬車に繋がれているはずの馬の姿は見えず、馬を操る御者の姿もありません。
「私は、訳あって正体を明かすことはできぬが、とある伯爵家の血筋に連なる者。本来であれば王都にあって国王陛下をお助けせねばならぬ身ではあるが、生来の勇気と冒険心が平穏に安住することを許さず、こうして未踏の地へと私を導いた、わけなのだが」
中年男は窓から身を乗り出すと、頼みもしないのに自分のことを話し始めました。彼がいるのはアッシュたちが進んでいる道とは別の道で、こちらの道と向こうの道との間には底の見えない深い裂け目が横たわっています。しかし、最も幅の狭い場所を選べば、こちらから向こうに飛び移ることは簡単にできそうです。
「私自身は獅子のごとき勇猛さを備えておっても、我が従者にまでそれを求めるは酷であったようだ。この深い霧と、ほれ、どこからか聞こえる魔物のごとき声に恐れをなし、皆逃げ散ってしまいおった」
遠くから風に乗って、獣とも何とも分からない不気味なうなり声が聞こえてきました。なるほど気の弱い人間なら恐ろしくなって逃げだしてもおかしくないなと、アッシュは変に納得しました。むしろ、こんな声が聞こえてくる場所に取り残されて平然としているこの中年男の図太さのほうが驚きです。
そんなことを考えているアッシュの心の内に気付く様子もなく、中年男はしゃべり続けています。
「そこでだ。由緒正しき家柄のこの私を助けるという名誉を、お前に与えてやろうというのだ。さあ、早くこちらに渡ってくるがいい。そして我が馬車を引く馬を連れ戻し、私をサイハテまで送り届けよ」
なぜか得意そうな笑みを浮かべて、中年男はアッシュに命じました。助けられる立場なのに、とても偉そうな態度をしています。アッシュは、これほど助けようという気が起こらない遭難者も珍しいな、と感心しました。こちらの答えを待っている中年男に、アッシュは自分の素直な気持ちで応じました。
「悪いが急いでるんだ。自分で何とかしてくれ」
中年男はアッシュの言葉を聞いて、あれ、おかしいな、という表情になりましたが、すぐに何か納得したように頷くと、少し反省したような態度で言いました。
「む、そうか。お前のような下賤の輩は、高尚な精神よりも低俗な利益を好むのであったな。よかろう。欲しいものをなんでも言ってみるがいい。そのすべてを与えようぞ」
庶民の卑しさというものを忘れておった、いやぁ失敗失敗、と呟いて、中年男は照れたように微笑みました。いっそ清々しいほどの傲慢さに、アッシュは怒るより前に笑ってしまいました。だからといって助けようという気は起きませんでしたが。
「いや、どうぞお構いなく。それじゃ」
軽く手を上げて挨拶をすると、アッシュは中年男に背を向けました。中年男にかまっている間に、案内人はずいぶん先に行ってしまったようです。
信じられないものを見るように、中年男は目を大きく見開きました。無礼者、人でなし、島流しだいや死刑だ、と、ありとあらゆる罵詈雑言を背に受けながら、アッシュは歩き始めました。中年男から離れるにつれ、晴れていた霧が再び立ち込めはじめました。それと同時に中年男の声も徐々に小さくなり、そのうち聞こえなくなりました。
――シリン
案内人の鈴の音だけが、一定のリズムで辺りに響きます。いつの間にか霧は辺りを完全に覆っていました。アッシュは案内人の姿を見失わないよう、歩調を速めました。
霧は濃く、深く、意思を持って身体にまとわりついてくるようで、アッシュはどこか息苦しさのようなものを感じながら歩いていました。案内人は歩く速さを変えることもなく、常に同じペースで進んでいきます。おかげで案内人が持つ鈴の音も、シリン、シリンと一定の間隔で『断崖』に響いていました。岩壁にへばりつくように設けられた桟道は体と同じくらいの幅しかなく、一歩足を踏み外せば助かる術はありません。
やがてアッシュの耳に、再び聞き覚えのない声が届きます。先ほどとは違い、弱々しく助けを呼ぶその声は、年若い青年のようです。
「誰か、いらっしゃいませんか。どうか、助けてください」
アッシュが目を凝らすと、今度は向かって右のほうに影のようなものが見えます。案内人は相変わらず歩調を緩めるつもりはないようです。案内人の様子を気にしながら、アッシュは霧の向こうの影に向かって声を掛けました。
「どうかしたのか?」
すると、またどこからかびゅうと強い風が吹き、辺りを覆っていた霧を吹き散らしていきます。霧はすっかりと晴れ、そこに見えたのは足を怪我して座り込む十代後半の青年の姿でした。
「ああ、こんなところで人に会うなんて、これを天の助けと呼ばず何と呼びましょう」
青年は安堵したようにそう言って表情を緩めました。右足のすねのあたりがざっくりと裂け、血を流して動けずにいるようです。青白い顔で青年はアッシュに状況を説明し始めました。
「私は近くの村に住む者ですが、先日母が病に罹り、この『断崖』に生える薬草を採りにここに来たのです」
雑草もほとんど生えていないこの『断崖』に薬草が生えているのか、アッシュは疑問に思いましたが、青年はアッシュの様子を気にするふうもなく話を続けます。険しい『断崖』を巡り、ようやく薬草を見つけ、これで母の病を治せると手を伸ばした時、青年は足を滑らせて『断崖』を転げ落ちたのだそうです。その時に足を怪我してしまい、這いずってここまで移動してきたものの、もう動けなくなって座り込んでいたのです。
「申し訳ありませんが、肩をお貸し願えませんか? このままここにいては死んでしまう」
青年は縋るような目でアッシュを見つめます。シリン、と鈴の音が響きました。案内人は何を気にする様子もなく淡々と歩みを進めています。アッシュは少しだけ迷いを浮かべ、青年に答えました。
「悪いがこっちにも都合があってね。今日中に『断崖』を越えないといけないらしいんだ。近くの村に住んでいるならそのうち村の誰かが捜しに来てくれるだろう」
アッシュは少し距離が開いてしまった案内人に小走りに駆け寄ります。青年は驚いたような顔で言いました。
「待って! 私は帰らねばならないのです! 病の母を置いて死ねない! どうか助けてください! どうか!」
悲痛な青年の声に振り向き、アッシュは冷淡に言いました。
「『断崖』が安全な場所じゃないってことは知ってたはずだろう? 備えもなく立ち入って、怪我をしてから助けてほしいと言われても応じられない。こっちも余裕があるわけじゃないんでね」
青年に背を向け、アッシュは案内人の背を追います。信じられないものを見るように青年は目を大きく見開きました。人の心はないのか、この悪魔、助けて、見捨てないでと、なじる言葉と哀願を背に受けながら、アッシュが振り返ることはありませんでした。青年から離れるにつれ、晴れていた霧が再び立ち込めはじめました。それと同時に青年の声も徐々に小さくなり、そのうち聞こえなくなりました。
――シリン
案内人の鈴の音だけが一定のリズムで辺りに響いています。またも霧は辺りを完全に覆いました。霧に何かを試されているような息苦しさを感じ、アッシュは小さく息を吐きました。




