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十二、急報

 アッシュは床にこぼした酒を拭かされ、いすやテーブルの片付けをさせられ、ついでになぜか他の客への謝罪もさせられ、ようやく食事にありつくことができました。ごろつきからくすねた財布の中身にご機嫌のミランダは気前よく料理をおごってくれました。もっとも、それが掃除や客への対応の対価として見合うのかと言われるとよくわからないのですが。どこか釈然としない思いを抱えながらアッシュは供された硬いパンをスープに浸しました。


「すまない。客にやらせることじゃないのに」


 掃除も謝罪も手伝ってくれたフォウが申し訳なさそうに頭を下げます。アッシュは首を横に振りました。


「誰もミランダには勝てないさ」


 二人は鼻歌を歌っているミランダに目を遣り、しばし見つめて、小さく息を吐きます。アッシュの様子を遠くから見ていた常連と思しき男たちが憐れみとも面白がっているとも取れるような笑みを浮かべました。おそらくアッシュが動かなければ常連たちがゴロツキをつまみ出していたのでしょう。この店もミランダも、それからフォウの弟妹達も、きちんと愛されているのです。アッシュはわずかに目を細めました。


「あの……」


 遠慮がちな声が低い位置から聞こえ、アッシュは声の主を見下ろしました。声を掛けてきたのはお盆を胸に抱いたラサでした。ラサの隣ではリリが肩に手を置き、「ほら」と促します。アッシュは黙ってラサの言葉を待ちました。ラサは全身から勇気を振り絞るように大きく息を吸い、ぎゅっと目を瞑って言いました。


「……ありがとう」


 頭を下げ、目を瞑ったまま動かないラサに、アッシュは微笑みました。


「どういたしまして」


 ラサは顔を上げ、わずかに頬を染めて嬉しそうに微笑みを返すと、限界を迎えたように背を向けてパタパタと奥に消えていきました。リリが「もうっ」と悔しそうにラサの背を見送り、アッシュを振り返ってにこやかに言いました。


「ありがとう、おじさん。ラサを助けてくれて」

「気にしなくていい。大したことじゃない」


 アッシュの言葉にリリは少し驚いた顔になりました。アッシュが本当に、ラサを助けたことを恩に着せようとか、そういう気持ちがないことに気付いたのです。「ふうん」とつぶやき、リリはアッシュを値踏みするように見回すと、にこっと愛嬌のある顔になりました。


「また来てよ。そしたら好きになってあげる」


 は? とアッシュは間の抜けた顔を晒しました。リリはくすくすと笑って背を向け、パタパタと駆けて、再び振り向いて、


「約束ね」


と言って片目を瞑り、そして奥に引っ込んでいきました。アッシュはぽかんとその姿を見送り、ぽりぽりと頭を掻きます。フォウはにっこりと笑い、大剣の柄を握りしめると、ひどく穏やかに言いました。


「妹たちに手を出したら叩っ斬るからな」




 食事を終え、アッシュとフォウは席を立ちました。ミランダは「この店で最も高価な料理を」と言っていましたが、実際に出されたのはありふれたパンとスープのセットでしたから、さすがにミランダもフォウから搾り取ろうとはしなかったということなのでしょう。あるいは、ただのパンとスープに法外な値段を設定しているのでしょうか? あながちあり得ない話でもないことにアッシュは若干怯えていました。


「世話になった」


 勘定を、と言おうとしたフォウに、まるでクマのような大男が声を掛けてきました。顔もクマに似ていますが、どうやら人間ではあるようです。クマ男はアッシュとフォウに軽く頭を下げます。アッシュがフォウに目を向けると、


「この店の主、ミランダの親父さんだ」


と説明してくれました。へぇ、とアッシュは改めて店主を見つめます。身にまとう雰囲気はとても料理人のそれではなく、さっきのゴロツキなどまとめて畳んでしまいそうな強さを感じました。


「馬鹿どもを追い払ってくれたらしいな。改めて礼を言う。本当に助かった」

「あんなごろつき、あんたなら簡単に追っ払えたんじゃないか?」


 やけに丁寧な店主の態度に、アッシュは素直な感想を述べました。店主は首を横に振ります。


「ウチの娘に難癖をつける馬鹿を俺が見たら、おそらく歯止めがきかん。そうなれば血の臭いが抜けるまで店が営業できんからな」


 お、おお、とアッシュは気圧されたように頷くことしかできませんでした。店主が感謝しているのはごろつきを追い払ったことではなくて、店主にごろつきを追い払わせずに事態を収めたことだったのです。なんと答えていいか迷いながら口を開き、結局何も言えずに口を閉じたアッシュは、ふっと表情を緩めました。ミランダはラサを「可愛い妹」と呼び、店主は「ウチの娘」と言いました。フォウにとってこれほど心強い味方はいないでしょう。獣の顔をしていようが人の顔をしていようが、そんなことなど軽々と飛び越えて絆を結ぶこの親子を、アッシュは頼もしく思いました。


「代金はいい。本来ならこちらが謝礼を出さねばならんくらいだ」


 金入れを取り出したフォウの動きを店主は手を前に出して制しました。フォウの目が戸惑いに揺れます。店主の気持ちはありがたいのですが、金を払わなかったらミランダが何と言うか――案の定、耳ざとく会話を聞きつけたミランダが足を踏み鳴らして近付いてきます。


「ちょっと父さん! 勝手にタダにしないで! 助けてもらったのと料理代は関係ないでしょう!」


 ミランダは腰に手を当て、眉間にしわを寄せて店主を見上げます。大きなクマを小さな猫が叱っているようだな、とアッシュは思いました。クマ、もとい店主は娘を見下ろし、静かに問いかけます。


「妹を助けてもらった恩は、一食の代金よりも安いのか?」


 ぐっと小さくうめき、ミランダは口を閉ざしました。しばらく店主を険しい顔で見つめ、やがて目をそらしたミランダは、憎らしげにアッシュをにらみます。どうして俺が、とアッシュは理不尽を感じました。


「また来てくれ。あんたならいつでも歓迎する」


 店主は右手を差し出します。アッシュは「ありがとう」とその手を握り返しました。フォウも「また来るよ」とあいさつをして、ミランダの視線から逃れるようにふたりは店を後にします。リリとラサがパタパタと入り口に駆け寄り、「またね」と手を振ってくれていました。




「悪かったな。付き合わせて」


 フォウはじゃっかんすまなさそうに言いました。ミランダの強烈さは分かっていましたが、彼女があんなにアッシュに突っかかっていったのは予想外だったようです。普段なら初対面の人間にはもう少し遠慮があるのに、とフォウはぼやきました。それに、ゴロツキが難癖をつけてくるようなこともあの店では珍しいことです。店主のことを知っていれば恐ろしくてそんなことはできません。アッシュを連れて行ったその日にちょうど、その珍しいことが起きるなんて偶然にもほどがあります。


「疫病神でも憑いてるのか?」


 フォウは真剣な瞳でアッシュに聞きました。こっちが聞きたい、と言うようにアッシュは肩をすくめました。


 片牙の屋敷に戻り、フォウはアッシュをゲストルームに案内してくれました。流れ者には明らかに不相応な、豪華な調度品にアッシュは軽くめまいを覚えます。机の上には新鮮な果物がこぼれるほどに盛られた器があり、「好きに食べていい。足らなければ持ってこさせる」と言われて、アッシュは今日のうちに食べられるだけ食べておこうと心に決めました。流れ者の日常に新鮮な果物など望むべくもない贅沢です。下手をしたらアッシュの人生で最後の贅沢かもしれないのです。


「不都合があればここにあるベルを鳴らしてくれ。大抵のことは叶えられるだろう」


 フォウはそう言って入り口近くに置かれたベルを示すと、部屋を出て行きました。アッシュはとりあえずベッドに身を投げ出します。信じられないほどに深く沈むベッドの感触にアッシュはうなりました。


「人間をダメにするな、こりゃ」


 野宿が日常の流れ者にとってこの待遇は毒です。もとに戻れなくなっては生きていけない。しかしまあ、今日だけならしっかり堪能してもいいか、と思考を切り替え、アッシュは横になったまま大きく伸びをしました。


「……まだまだ、世は知らぬことばかりか」


 長く旅をして、ある程度は世のことを知っているつもりでした。しかし今日、この獣人街で見たものは、他の場所で見聞きしたこととはまるで違いました。虎や狼の顔をした者が存在したことも、それらと人間が共存していることも、アッシュは知りませんでした。ならば『サイハテ』に行けば、いったい何が待ち受けているのでしょう? この世界と断絶しているという異界の風景を想像して、アッシュは口元を緩ませました。




 果物を食べつくし、贅沢に湯を使って体の汚れを拭い、厚かましく酒とつまみを要望して、アッシュは一夜の客人待遇を満喫しました。どうせ一夜の夢なのですから、せいぜい溺れるのが酔狂というものでしょう。夜が明け、朝の陽ざしを受けて、アッシュは思いました。一日延長できないかな、と。


――コンコン


 扉をノックする音がアッシュを現実に引き戻します。夜は明け、延長はできないのです。ふっと短く息を吐き、アッシュは勢いをつけてベッドから起き上がりました。


「準備ができたら声を掛けてくれ。遅くなると『サイハテ』に今日中に着けなくなる」


 身支度を整えながらアッシュは「分かった」と答えます。もともと大した荷物も持たない流れ者ですから、支度もすぐに終わりました。荷物を担ぎ、少しだけ名残惜しそうに部屋を見渡して、アッシュは部屋を出ます。早朝にも関わらずフォウはピシッと背を伸ばして立っていました。


「行こう」


 短くそう言ってフォウは身を翻します。よろしく、と言ってアッシュはフォウの後をついていきました。


 館の入り口に差し掛かると、どこかざわついた気配が伝わってきました。どうやら外で何か起こっているようです。フォウがわずかに眉を顰め、アッシュは物見高そうに目を光らせました。外から聞こえるのは誰かが言い争う声。その声の中にかすかに「フォウ」「アッシュ」という言葉が聞こえました。二人は顔を見合わせると、急いで扉に手を掛けました。

 扉を開けると、そこには中に入ることを制止されているミランダが激しく門番に詰め寄っていました。よく見るとミランダの服はところどころ破れて血が滲み、顔に殴られたような跡があります。フォウは息を飲み、ミランダに駆け寄りました。


「ミランダ!」

「フォウ!」


 ミランダの顔に安堵と、そして強い後悔が浮かびます。駆け寄ったフォウの腕を強く掴み、ミランダはその目から涙をこぼしました。


「ごめん、フォウ。ごめん――!」


 かすれた声でミランダは「ごめん」と繰り返します。彼女が泣いて謝るなんて尋常なことではありません。震える身体を支え、フォウは言いました。


「どうした? 何があった?」


 ミランダは強く唇を噛み、うめくように答えました。


「トバとリリとラサが、攫われた――」


 フォウの顔が青ざめ、アッシュの瞳に鋭い光がかすめました。

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