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十、片牙

 フォウは広い『片牙』の館の中を迷う様子もなく進んでいきます。途中ですれ違う者はアッシュに訝しげな視線を向けましたが、ザジのように制止する者はいませんでした。『片牙』のお気に入りにわざわざ難癖をつける者は多くない、ということなのでしょう。ただ、ここでも周囲のフォウを見る目は一様ではないようでした。好意的な態度の者もいれば、憎悪や侮蔑を隠さないものもいます。アッシュは興味深そうにそれを眺めていました。


「ここだ」


 迷路のように複雑な通路の奥に姿を現したのは、牙を剥いた狼を意匠化した紋章が刻まれた厚い鉄の扉でした。扉の両側には黒い覆面姿の護衛が彫像のように控えています。フォウが目配せすると、護衛は滑るように動いて扉を開けました。フォウがアッシュを連れてくるということを彼らはすでに知っているのです。


「剣を」


 フォウがそう言ってアッシュに手を差し出しました。武器を持ったままの入室は許されないということなのでしょう。アッシュは素直に腰の長剣を鞘ごと渡しました。フォウは長剣を受け取り、じっとアッシュを見つめます。しばらくフォウを見つめ返し、降参、というように息を吐いて、アッシュはベルトの短剣も渡しました。うなずきを返し、フォウはアッシュに中に入るように促します。扉の向こうは薄暗く、外から中の様子を窺うことはできません。それはおそらく、敵意を持った者がここを訪れた時に容易に命を奪われないための対策なのでしょう。アッシュはためらうことなく部屋の中に足を踏み入れました。


「虎の子を手懐けたか。退ける者も、斬り伏せる者も大勢いようが、手懐ける者は珍しい。なかなかの器量を持っているようだな」


 薄闇の中から威厳のある声が聞こえます。鉄の扉が軋んだ音を立てて閉められました。外からの光が断たれ、代わりに部屋にある燭台に火が灯されます。部屋の奥にある大きな椅子に座る男の姿が闇の中に浮かび上がりました。


「こ、これは……!」


 アッシュの目が驚きに見開かれます。灯りに照らされたその男の顔は、人のものではありませんでした。


「……ロングコートチワワ?」

「いや、もちろん狼だが」


 若干の戸惑いを含んだ声で椅子に座る男が言いました。狼の顔には戦いの傷と深いしわが刻まれ、口から覗く牙は右側が半ばで折れています。おそらくこの老狼が『片牙』、この獣人街を支配する顔役なのでしょう。

 アッシュの無礼な言葉に周囲の気配がざわめきます。椅子の両脇にいる護衛二人の他に、灯りの届かぬ部屋の隅の暗闇に潜む気配が四つ。隣室には十人ではきかない数の気配が息をひそめている様子を、アッシュの言葉に気色ばむ空気が伝えていました。


「ああ、すまない。犬の種類には詳しくなくて」


 とぼけた顔で返事をしながら、アッシュは頭の中で冷静に計算をしていました。武器を持たない状態で、逃げ場のないこの部屋で、さて、どうやって生き延びましょうか? 一番腕が立ちそうなのは椅子に座る男の両脇にいる護衛のようです。片方を無力化して剣を奪い、もう片方を斬り捨てた後、片牙を人質に取れば――

 アッシュのあからさまな挑発を受けて腰の剣に手を掛けた護衛を軽く手を上げて制し、片牙は微笑みを浮かべます。


「ふふふ、おかしな男だ。そんな可憐な間違いをされたのは初めてだよ。一つ聞くが――」


 微笑みの形のまま、片牙の瞳がギラリと物騒な光を宿しました。


「それは、ワシを侮っているのかね?」


 アッシュの背をぞわりと冷たい予感が走ります。それは死の気配――答え方を一つ間違えれば容易く命が刈り取られるという、流れ者としての直感でした。アッシュは誤解していたのです。今、この場でアッシュが最も警戒すべきは二人の護衛ではありませんでした。この椅子に座った男こそが真っ先に崩すべき脅威だったのです。


「まさか」


 アッシュは引き下がるように首を横に振りました。どうやら片牙の器は、アッシュが思っていたよりも大きいようです。


「ならばいい」


 片牙の瞳に宿っていた物騒な光が消え、周囲のざわめきの気配も霧散しました。アッシュはとぼけた表情を改め、片牙を見つめました。


「手懐けられた虎の子を、あんたたちはどうするつもりだ?」

「それが聞きたかったのかね?」


 意外そうに片牙は目を丸くして、そして再び微笑みを浮かべます。


「そう怖い顔をするな。若者の失敗を咎めたてるほど、ワシは狭量ではないつもりだよ。お主のような使い手との立ち合いは、アレにはいい経験になったろう」


 アッシュは小さく安堵の息を吐きます。門番として敗れたことの責任をフォウが問われることはどうやらなさそうです。片牙は少し懐かしそうに目を細めました。


「アレは人里で生まれた子でな」


 獣の顔を持つ者は、この獣人街以外にも各地に、密やかに暮らしていると言います。しかし稀に、それらのコミュニティから追放され、あるいは逃げ出した者たちが人里に暮らすことがあるのだそうです。獣面の流れ者を人々が温かく迎え入れてくれる、などということがあるはずもなく、そのような者たちは過酷な仕打ちを受け、あるいは利用され、あるいは使い捨てられるのが常でした。そんな生活の中で道を踏み外す者も多く、フォウもそんな者たちのひとりでした。


「十にもならぬ歳で幼い弟妹を抱え、この吹き溜まりに流れ着いた。初めて会ったとき、あやつはワシにナイフを突きつけてこう言ったよ。『命が惜しければ金と食い物をよこせ』」


 もちろん返り討ちにしてやったが、と片牙は楽しそうに笑いました。


「その度胸が気に入ってな。そのままあやつを連れて帰った。もう十年近く前のことだ。時が経つのは早いものだな」


 フォウを語る片牙の様子に情を感じ取り、アッシュはわずかに笑みを浮かべると、すぐに表情を改めて言いました。


「楽士の紹介であんたを訪ねてきた。『サイハテ』への道案内を頼みたい」


 アッシュの口から出た人物の名が意外だったのか、片牙は目を丸くして答えます。


「楽士か。懐かしいな。もうずいぶんと会っていない」

「本当に知り合いだったか。フォウは知らなかったみたいだが」


 片牙の反応にアッシュは安堵の息を吐きます。正直なところ、あの調子のいい楽士が適当なことを言っただけなのではないかと、今の今まで疑っていたのです。一杯の酒欲しさにいくらでも嘘を吐く。流れ者にはよくあることです。


「楽士が最後にここを訪れたのは十年以上も昔、ワシがあやつを拾う前のことだ。知らぬのも無理からぬことよ」


 十年前、と聞いてアッシュはわずかな違和感を覚えました。片牙の言い方では、楽士と片牙は十年よりもずっと前に知り合ったようです。だとすると、あの楽士はいったい何歳なのでしょう。実はアッシュよりずっと年上だったのでしょうか? 勝手に悩み始めたアッシュをしばらく見ていた片牙は、おもむろに話し始めました。


「ワシらは長い間、一人の人間を探している」


 片牙の目から光が消え、どこか異なる時間を見つめます。それは渇望であり、絶望でもあるようでした。求めながら手に入らぬ時を重ねて、希望を失いながら希望を手放すことのできない苦しさが滲んでいます。


「誰を?」

「さあ?」


 アッシュの問いに片牙は苦く笑って首を傾げます。知りたいのはこちらだ、と言いたげな様子に、アッシュは呆れて言いました。


「なんだそりゃ」


 片牙は深くため息をつきます。


「ワシらはワシらの探している者が誰なのかを知らぬ。男なのか女なのか、若いのか年寄りなのか、戦士なのか商人なのか、何も分かってはおらぬ。分かっているのは、その者が解放者だということだけだ」

「解放者?」


 アッシュは片牙の言葉を口の中で繰り返しました。解放者、ということは、何かを何かから解放する者、ということでしょうか? そして片牙が解放者を探しているということは、片牙は解放を望んでいるということでしょうか? 顔役として獣人街を支配するこの老狼はいったい何に縛られているというのでしょう? アッシュの疑問の視線に答えず、片牙は何も映さぬ目でアッシュを見つめました。


「楽士がお主をここに導いたのなら、お主は解放者なのかもしれぬ。ならばワシらはお主を『サイハテ』へと送り届けねばならん。だが、今まで楽士はワシらのもとに何人もの人間を寄こしたが、『サイハテ』に辿り着いた者は一人もおらん。お主が解放者でないのなら、お主も同じ末路を辿ることになろう」


 片牙に期待はなく、ただ淡々と事実を告げて、無数の骸の新たな仲間に入りたいのか、と問うているようです。アッシュは何の気負いもなく答えました。


「そのときはそのときだ」


 片牙はじっとアッシュの顔を見つめ、そしてふっと表情を緩めました。


「『サイハテ』に渡るには『断崖』を越えねばならん。ワシらが案内できるのは『断崖』の入り口までだ。それでいいかね?」

「充分だ」


 アッシュはためらうことなく答えます。片牙はうなずきを返しました。


「明日、フォウに案内させよう。今日はこの館で休むといい。ワシらはお主を獣人街の客として歓迎する」


 その言葉を合図に、部屋の消されていた燭台に火が灯り、隅々までを照らします。背後で鉄の扉がゆっくりと開きました。部屋の隅に潜んでいた者たちが武器から手を放して、無礼を謝罪するように膝をつきます。ようやく命の保証を得て、アッシュは小さく息を吐きました。

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