プロローグ
小雨の降る薄暗い路地裏で、男は座り込む彼女を見下ろしてこう告げました。
「お前に役割を与えてやろう。何の役にも立たないお前に。誰からも顧みられないお前に。さあ、私の手を取るがいい。世界のすべてがお前に傅く」
これは、今でないとき、ここでない場所の物語。一つの王国の、穏やかにめぐる季節の、その終わりのお話。
アルファシル、と呼ばれる島があります。複雑な海流と岩礁に囲まれ、島から外に出ることも、島の外から入ってくることもできない、外の世界から閉ざされた島です。そこにはレスカテという名の王国があり、一人の王様が国を治めていました。島には肌の色や瞳の色が異なる幾つかの民族がいましたが、千年前のレスカテ建国以来、ただの一度も戦が起こることはなく、レスカテ王のもと、皆が平和に暮らしていたと言います。
レスカテの繁栄を支えるのは、王様の政だけではありません。レスカテには、春・夏・秋・冬、四つの季節を管理する不思議な力を持つ女性がおりました。彼女は『女王』と呼ばれ、都の外れにある『季節の塔』という名の小さな塔の最上階で、季節が正しく巡るよう、いつも祈りを捧げていました。『女王』が祈ることによって、すべての季節は毎年、同じ日に始まり、同じ日に終わるのです。祈りの力によって穏やかにめぐる季節は、日照りも長雨もなく、作物の豊かな実りをもたらしました。『女王』の力によって、人々は飢えることもなく、幸せな日々を送ることができたのです。
ところがある年のこと、春が始まるはずの日を迎えても、雪は解けず、日差しは弱いままで、人々は冬が終わっていないことに気が付きました。王国は辺り一面雪に覆われ、春の訪れる気配さえ感じることはできません。このままではいずれ食べる物も尽きてしまいます。 王様は慌てて『季節の塔』に兵士を遣わせて『女王』に話を聞こうとしましたが、『季節の塔』の扉はカチカチに凍り付いて、塔の中に入ることさえできません。困った王様は国中にお触れを出しました。
『季節の塔』の扉を開くことができた者には、好きなだけ褒美を取らせよう。
お触れを見た人々は、冬を終わらせるため、そして褒美を手に入れるために、『季節の塔』に集まりました。しかし塔の扉はやはり固く凍り付いたままで、誰一人、中に入ることはできません。外から『女王』に声をかけて出てくるように説得する者もいましたが、『女王』からの返事はありませんでした。どうにも打つ手がなくなって、人々は困り果ててしまいました。
すると、人々の間をかき分けて、一人の大男が塔の前に進み出ました。男はとてもたくましい体つきをしており、雪が降り積もる中でも上半身は裸のまま、平気な顔をしています。大男は自信満々に扉に手をかけると、満身の力を込めて引っ張りました。腕の筋肉が大きく盛り上がり、顔は真っ赤になって湯気が出そうです。鋼鉄さえ曲げられそうなその雰囲気に、人々の期待は高まります。ぴきぴき、と音を立てて、扉の表面の氷が剥がれ落ちました。これはいける。人々がそう思った矢先、男はゼイゼイと荒い息をついて、扉から手を放してしまいました。どうやら力を使い果たしてしまったようです。人々の冷たい視線から逃げるように、大男は背中を丸めて去っていきました。
すると今度は、ぎょろりとした目の小男が塔の前に進み出ました。小男は大男が去っていった先を見やり、意地の悪い顔で笑うと、扉の取っ手に手を掛けました。あの大男でも扉を開けることができなかったのに、こんな小男に開けられるはずもないと、人々があきれながら小男を見ていると、小男はなんと、扉の取っ手に足をかけ、身軽な様子で塔の外壁を登り始めたではありませんか。そしてあっという間に二階の窓までたどり着くと、腰のポーチから器用に金槌を取り出し、窓に向かって振り下ろしました。なるほど窓から入る手があったと、人々は感心しましたが、その感心はすぐに落胆に変わりました。窓をたたき割るはずの小男の一撃は、カチンという甲高い音を響かせただけで、窓に傷一つ付けることはできなかったのです。窓の表面にも氷は厚く張っており、金槌で叩いたくらいでは壊すことはできなくなっていました。小男は意地になって何度も窓を叩きましたが、やがてあきらめたのか、するすると塔の壁を伝い下りてきました。人々の冷たい視線を避けるように、小男は早足でその場を去っていきました。
すると今度は、メガネをかけた青白い顔の男が塔の前に進み出ました。男は大男のように強そうでも、小男のように身軽そうでもありません。こんな男に何ができるのかと、人々はいぶかしげな様子で男を見ています。男は小男の去った方向を意地の悪い顔で見やると、右手の人差し指で自分のこめかみをトントンと叩いて、懐から小さなツボのようなものを取り出しました。ツボは小さな油壷で、男はそれを扉に叩きつけると、たいまつを使って火をつけました。火によって扉についた氷を溶かそうというのです。なるほど火を使う手があったと、人々は感心しましたが、その感心はすぐに失望に変わりました。油が燃え尽きた後も、扉の氷はまるで解けてはいなかったのです。男は驚きに目を見開き、何度も油壷を投げては火をつけましたが、結果は変わりませんでした。ついに持っていたすべての油壷を使い切った男は、人々の冷たい視線に背を向けてすごすごと退散していきました。
その後も様々な人々が現れ、大きな木づちで扉を壊そうとしたり、はしごをかけて壊せそうな窓を探したり、果ては投石器で壁に穴をあけようとしたり、あらゆることを試しましたが、結局そのどれも、成功することはありませんでした。もはや完全に打つ手を失った人々は、あきらめて家に帰っていきました。
誰もいなくなった『季節の塔』の前に、一人だけ、たたずんでいる男がおりました。黒目黒髪、年は三十を少し過ぎたくらいでしょうか。大きな荷物袋を肩に掛け、飾り気のない丈夫な服を着て、厚手のマントを羽織り、腰に長剣を佩いたその姿は、男が旅人であることを示していました。きっといろいろな場所で、いろいろな旅をしてきたのでしょう。どこか油断のならない雰囲気をまとっています。
旅人の名前はアッシュと言います。自分でもそう名乗っていますし、彼の知り合いはみんな、彼のことをそう呼びます。彼は旅人の中でも、土地に定住することを許されず、税を払わない代わりに法に守られることもない、流れ者と呼ばれる類の人間でした。
アッシュは何か思案気に、しばらく塔を見上げていましたが、やがてくるりと踵を返すと、今日の宿を求めて街の大通りへと向かっていきました。