Prototype
うっすらと瞼が震えながら開いた。何個も灯りが集まって天井にある。たぶんここは手術台の上。
あの子は、あの子は大丈夫だろうか。自分が少年なのか青年なのか、そもそも男なのか女なのかさえ思い出せないまま、「あの子」のことを考えた。「あの子」の髪の色も目の色も思い出せないのに。
そのまま意識が遠退いていく。もしかしたら薬を打たれているのかもしれない。あの子が無事なら、そんなことはどうでもよかった。
猫が死んでいた。
少年はぱっと自分の目の前に広がった光景に目をぱちくりとする。目を開けたまま寝るなんて、魚類の成せる業だ。尤も、その魚類は閉じる瞼がないから目を開けているだけだが。
踏みしめると少し砂利の混じったコンクリートからがりり、と擦れる音がする。鼓膜が震えるのを感じた。リアリティーを脳が認識する。
──これは夢じゃない。
猫が死んでいる。
少年は事象の理解を始めた。猫は腹から血を流して死んでいた。体がどういう模様だったのかわからないほどに斑に暴力の痕跡がある。肉が抉れている部分は毒々しい色をしていた。生きていたとして、もう立って歩くこともままならないだろう。
死んで幸せだっただろうか。暴力から解放されて、幸せになれただろうか。少年は答えを弾き出す。答えは否だ。腹の傷、頭がぐしゃりと歪んでいることから、この猫が即死であったことが窺える。暴力の痕跡と比べて、腹の傷と頭の傷は新しく、まだ血がてらてらと暗い灯りを返していた。これらのことから、猫に感情があったとして、「解放される」と認識する間も、「幸せだ」と感じる間もなく死亡したと思われる。だから死んで幸せだったかに対する答えは否だ。
そもそも、この猫が暴力を受けて不幸だったという前提を決めつけているところからこの議論は破綻している。暴力を受ければ大抵のものは不幸だと感じるのは統計学的にも応と言える。だが、統計とは、多くの人間からサンプルとなる回答をもらい、その回答でどのようなものが多かったかを正答として提示しているだけだ。つまり少数の意見は淘汰されている。少ないにはちがいないが、暴力を受けて不幸と感じない人間も存在はする。
不幸と感じない理由は多岐に渡るだろう。暴力を受けるのが好き。暴力は愛の証。関心を持ってくれている。誰かの身代わりで暴力を受けていて、その誰かを守れていると思うと気分が高揚する。人間の思考回路は複雑怪奇で、一口に理解するのは不可能と言える。
例えば、この猫が親猫だったとして、子猫を守るために暴力を一身に受けていたとすれば、それは称えられる美談だ。美談にされるのは大概が幸せだろう。
ただ、美談を皮肉に感じるものも存在し──とそこまで考えたところで思考を放棄した。あまりにも無意味でぐるぐると回るばかりの議論だ。無機質で、滑稽ですらない。面白くもない上、議論を交わす相手もいないのに、こんなことを考え続けたってそれは脳の容量の無駄遣いだ。もっと有意義なことに頭を回すべきである。
頭が回らないと思った少年は、徐に猫の頭をがしりと掴んだ。骨が砕けて形を成していない。瞼の奥に仕舞われていた翠の宝玉がころりと落ちて、べちゃりと転がる。少年はどくどくと溢れた赤黒い血液にかぶりつこうとして、止められた。
見上げると、看護師がいた。細く冷淡な目で少年を見下ろす。だが、看護師と目が合うことはなかった。
「動物の死骸を何の処理もせずに食べるのは不衛生です。Prototype-1103は速やかに洗浄と消毒を行い、部屋に戻るように。もうすぐ検査の時間です」
「あ……」
とさり、と少年の手から死んだ猫が落ちた。落ちた猫はもう猫の形をしていなかった。
少年の中に感情が流れる。悲しい。虚しい。寂しい。
──美しい。
「誰ですか、箱庭に野良猫を入れたのは。カメラで特定してください。特定までに自首してくるようなら、厳罰には処しません。放送部、この件について放送を。記録班、先程までの1103の行動記録を報告書にまとめて提出するように。提出は十二時間以内です。いいですね。衛生部処理班は死骸の処理を衛生部衛生班は1103の洗浄と消毒をお願いいたします」
看護師はてきぱき指示を出した。無線越しに各部署から了解の声が返ってくる。少年はそれをじっと見つめる。
少年をPrototype-1103と呼ぶこの看護師は少年を監視する存在だ。少年は看護師が嫌いだった。
この看護師がかつて普通の女性だったことを少年は知っている。既婚者だったが、愛する人に先立たれ、その忘れ形見だった息子を大事に大事に育てた。大事に大事に、鳥籠の中に閉じ込めるようにして育てた結果、息子にも先立たれた。自殺という形で。そうして完全に未亡人になったのだ。
自分でも何故生きているかわからない彼女はある研究施設の勧誘を受けた。元々看護師だった彼女は断る気力もなく、ここの監視部看護班の所属となり、少年の監視を担っている。勿論、看護師というからにして、食事や薬の提供など、世話をしてはくれるが。少年は看護師が嫌いだ。
看護師は少年を亡き息子と重ねている。息子を世話している自分に酔っている。少年が自分の息子ではないことからは目を背け、悦楽に浸っているその様が、少年は気持ち悪くて仕方ないのだ。
それでも少年が逃げ出したりしないのは、少年には誰にも話していない秘密があるのだ。
ここはPrototypeと呼ばれる子どもたちをナンバリングして、人体実験を行い、監視、管理している。
この施設が「人体実験」を行っていることを知っている子どもはいない。子どもたちは軟禁されているが、毎日三食の食事を与えられ、ある程度の教養を与えられ、ある程度の娯楽を与えられているだけだ。体調不良となる子どもが多いため、子ども一人一人に看護師がついている。
傍目から見たら、ただの孤児病院だ。だが、人体実験は行われている。
この施設に秘匿された部屋がある。そこには人体実験の贄となっている母なる子が隔離されており、毎日その肉を削られている。削られた肉は一日一回、子どもたちの食事に混入され、子どもたちはそれを摂取することで適合実験をされているのだ。
母なる子は不老不死、肉体再生能力を持つ新人類とされ、新人類を増やすことで、永劫の繁栄を得るという夢想から、研究員は子どもたちに母なる子の血肉を少しずつ投与しているのである。母なる子は今は一人だ。その血肉を成長途上の子どもに与えることによって、母なる子を母なる子どもたちにしようとしている。
そんなことを何故少年が知っているかといえば、少年は母なる子に会ったことがあるからだ。
母なる子は女の子の姿をしていた。いや、伸ばしっぱなしの髪が女の子という印象を持たせているだけで、母なる子曰く、性別はないらしい。不老不死だから繁殖する必要がなく、生殖機能を持たないのだという。
そんな母なる子を増やすために子どもを使って施設は実験をしているのだ、と母なる子は言っていた。しかし母なる子は不老不死であるがゆえ、普通の人間と肉体の構成が異なり、普通の人間がそれに適応するのは難しい、と語っていた。
母なる子は苦しいと言った。自分のせいで、これまで実験されてきた子どもの中には死者も多く出ている。死んだ子どもたちは病死として処理されているが、母なる子の血肉を受け付けなかったから死んだのだ。母なる子は子どもたちの死を自分のせいだと悔いていた。
そんな中、君は生き延び続けている。適合率の高い子どもだ、と母なる子は語った。
「ねえ、こんな実験は終わらせよう。私と一緒に逃げよう」
母なる子は毎日、肉を削られ、不適合者が苦鳴を上げて死んでいくのを聞くのが苦痛だと言った。不老不死でも肉を削がれれば痛いし、自分のせいで人が、子どもが死んでいくのを知ると精神が磨耗していく。もうとっくに頭はおかしくなっているのかもしれないけれど、まだここを地獄と思えるくらいの心は残っている。だから、まだ心が残っているうちに、逃げたい、と母なる子は血を吐いた。
床を汚した母なる子の血の色は明るくて綺麗だった。少年はそれを食らいたい衝動に駆られた。
だから、母なる子に言った。
「じゃあ、一緒に逃げよう。その代わり、逃げ出せたら、君のその綺麗な血を僕に飲ませて」
母なる子は嬉しそうにしながら、諦めに瞳を濁らせていた。
この少年はもう、おかしくなっていたのだ。きっと血の味を覚えたら、肉の味を欲する。適合する代わりに、少年は倫理観を失っていくのだ。
それでも母なる子はいいよ、と言った。
不老不死の母なる子さえいれば、少年がカニバリズムに手を染めることはない。それなら、普通とまではいかないまでも、外の世界で過ごしていけるはずだ、と。
この地獄から出られるなら、もうなんでもいい。そう叫ぶような母なる子の表情が脳裏に蘇ったとき、少年の脳内に情報が一気に溢れ出した。
あの猫の死骸は合図だ。母なる子が外に出られる目処が立ったと少年に伝えるための合図に、外界から動物を箱庭に入れると言っていた。
洗浄と消毒が終わり、全てを思い出した少年は母なる子の元へ急いだ。たぶん、あの看護師が逃げたことを報告している。だから、早くこの研究施設から出なくてはならない。
あの子と一緒に。もしくはあの子だけでも脱出させられれば、実験は終わる。
走り、走り、走った。母なる子は少年がやってきたことに涙をし、少年に手を引かれて、研究施設の出口へと向かっていく。
この施設の欠点は人体実験をしていることを子どもたちに知られないようにするため、母なる子の逃亡を周知できないことだ。
ぺたぺたと走っていく。監視カメラを壊し、出口まで来た。
外は明るい。そこにあるのは希望だ。
でも。
「行かないで、私の愛しい■■■……!」
少年は足首を掴まれ、ぞわりとした。それは少年専属の看護師だ。それが紡いだ名前はおそらく亡き息子のものだろう。
その妄執が、怖かった。それでも少年は力を振り絞り、母なる子を光の向こうへ突飛ばした。
どうか、あの子の地獄だけでも終わりますように、と。
「◇◇◇くん!!」
母なる子が、自分の名前を叫んだ。でも、少年はもう答えることができない。
看護師がやけくそで少年に注射を刺し、薬を注入した。注入された薬により、少年の意識は混濁した。
混濁した意識の中で、少年は思う。
あの子は逃げ延びられただろうか。
あの子だけは、どうか無事で……この地獄を終わらせるために、あの子だけは、どうか、どうか……
そうして少年の意識は闇に閉ざされた。
もう「あの子」が誰のことだったかも思い出せないほどに混濁した意識の中に落ちて、深く、深く、眠った。
そして、冒頭に戻る。