カーラジオ
「ねぇ、FMつけていい?」
「いいよ」
助手席に座る彼女は、こちらの返答を聞く前にカーラジオのチューナーを合わせだした。
それをチラリと横目で見てから、いつものことだ、と再び前を向く。
「うーん、良いの流れてないなぁ。いくら中古の車とはいえ、テレビ付きのカーナビくらい付けようよ」
「落ち着いたらね」
「もう、そればっかり」
彼女とは、大学の卒業式から付き合いだして五年になる。結婚を視野に入れて、俺は節制した生活をしている。
しかし、最近になって、彼女と価値観がずれていることが気になり始めてしまった。
特に金銭感覚などは顕著だ。
交際と結婚では、やはり違うのだろうなと強く感じているところだ。
この夏は、二人とも同じ日程で盆休みが取れたため、今は山の上のほうにある温泉宿に向かって、車を走らせている。
旅行客が増える時期に、急に決めた旅行のため、どこの宿も満室。
諦めようかと思った矢先に、山奥にある無名の温泉宿で、温泉付きの部屋がひとつだけ空室になっているのを見つけた。
ホームページに載っている写真を見たかぎりでは、築年数のわりに、きれいな宿だった。
そして、割高だが仕方ない、と予約を取った。
舗装されているとはいえ、山道は大きなカーブがいくつも続く。そして、トンネルを抜けたかと思えば、またすぐに次のトンネルが現れる。
(こんなにトンネルが続いてちゃ、どうせラジオもテレビも途切れてばかりだろ)
そう思うが、彼女の機嫌が悪くなると厄介なため、口には出さない。
そして、案の定、ラジオからは砂嵐のような音と、聞き取れそうで聞き取れない女性の声と音楽が聞こえてくる。
おそらく、リスナーからリクエストされた曲を流したり、「ラジオネーム、〇〇さん」と、お決まりのセリフで、悩み相談に答えるような感じなのだろう。
高速道路を走りながら聞くことが多い、この手のラジオ番組はわりと好きだ。
どうにか言葉を聞き取れないかと、ラジオに意識を集中させるが、ザー、ザッ、ザザーという不快な音の間に、断片的に何かが聞こえるだけだ。
無理か……と諦めたときに、ふと彼女が呟いた。
「こういうのってさ、『死ねばいいのに……』とかが聞こえる定番の怪談あるよね」
「やめろよ。ただでさえ、暗い山道で……。スマホで、音楽でもかけたら?」
「無理。電池の残量、少ないもん。もし、道に迷ったときのために残しておかないと……」
「まぁ、たしかに」
(少しわがままだけど、こういうしっかりしてるところもあるんだよなぁ)
そこから先は険悪なムードになることもなく、無事に宿に着いた。
「飯も美味いし、部屋もきれいだな。ここ、当たりだったかもなぁ。隠れ家的な温泉宿って感じかな?」
「あ、でもねぇ……。さっき、変なサイト見つけちゃった」
夕食前に俺が入浴している間、彼女はネットサーフィンをしていたらしい。
「もう何年も前の話だけど、婚約者に捨てられた女性がこの宿に泊まって、この近くのガードレールに車で追突して亡くなったらしいよ。しかも、その車は婚約者のものだったんだって」
そのサイトを見せるために、彼女は机の向かいから隣に移動してくると、俺に寄り添うように、ぺたんと畳に座った。
「ほら、このサイト。その女性が亡くなった後に、婚約者の絞殺死体も山中で見つかったって。怖くない?」
「本当の話なら気の毒だけど、亡くなった場所はこの宿じゃないんだろ?」
「まぁ、そうだけど……。部屋で一人になるの怖いから、寝る前のお風呂、一緒に入っていい?」
「いいよ」
くすっと笑いながら、俺は応えた。
彼女のこういうところも、少し可愛いと思う。
それに、「恋人と一緒にお風呂」は温泉旅行の醍醐味だろう。
「じゃあ、俺は先に行ってるから」
「うん。後から行くね」
女性は風呂に入るだけでも、支度に時間がかかる。
俺は先に湯につかり、力を抜いた。
ぼんやりと星空を眺めていると、どこからかラジオが混線するような音が聞こえてくる。
(何だ?)
この宿は、ひとつひとつの部屋が離れているため、隣の音が聞こえてくる、なんてことはないだろう。
耳を澄ませていると、どうやら音は湯の中から聞こえるような気がする。しかも、自分の脚の間から。
しかし、湯が乳白色のため見えない。手で探ってみるが、何の感触もなかった。
(気にしすぎか……。たぶん、車で聞いた音が耳に残ってるんだな)
そう思いながら、ザブっと肩まで湯に浸かると、端の方まで水面が静かに揺れる。
(たまには、広い風呂も良いな)
目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。
しかし、ぽこぽこと気泡が湧くような音が脚の間から聞こえ、目を開けた。
そして、またラジオのような音が聞こえだし、思わず下に視線を向ける。
すると、ゆらゆらと何か黒いものが浮かんできた。
人間の……女の髪のように見える。
困惑と恐怖で硬直して、体が動かない。
ゆっくりと、それは湯から上に姿を現して、とうとう目が合ってしまった。
その姿は凄惨だった。
眼圧が上がったように目玉が飛び出している。
頭から血を流し、顔には車のハンドルで打ち付けたようなアザ。
肩の長さほどの黒髪が一筋、頬に張り付いている。
その女が、何かをぶつぶつと呟きながら、合間に鼻歌を歌っている。
恋人との幸せな時間を表現した歌詞が有名な曲だ。
山道を走りながら、途切れ途切れにラジオから聞こえていたのも、この曲だった。
怖いのに目を離すことができない。
すると、女の左手が目の前に迫り、目隠しのように俺の視界を塞いだ。
そして、温度のない細い指が、ゆっくりと一本ずつ首に添えられていく。左手は俺の視界を奪ったままのため、女の表情は分からない。
五本すべての指が俺の首を包むと、少しずつ力をかけられる。
鼻歌を歌う息づかいが口元まで近づいたとき、女は囁いた。
「大丈夫。私も後から逝くね……」
中古車(事故車輌)には、ご注意を……
お読みくださり、ありがとうございました。