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最終話 我が故郷


 帰路、アレックはオンボロ馬車に揺られ、肩や腕をあちこちにぶつけていた。乗り心地はひどいものである。


 以前乗っていた立派な馬車は売り払ってしまったので、これは隣国に行くために手配した借りものだった。御者もプロではなく、この馬車の持ち主が、小金目当てに引き受けたというだけ。


 車内には竹籠や鎌、縄、萎びた苗などが詰め込まれていて、窮屈で仕方ない。――本職は農家なのだろうか。馬車は事務方が手配したので、アレックは詳しいことを知らないのだが。


 御者が何者であるか、それはこの際どうでもいい。仕事を引き受けた時点で、まっとうすべきだというだけで。


 王族を乗せるのだから、荷物くらい片しておけばいいものを……そんな苛立ちを覚えたものの、文句を言えるような状況でもなかった。一人旅でお付きの者もいないから、アレックが何か言ってそれに御者が腹を立てた場合、ひどく殴られて放り出されてしまうかもしれない。喧嘩をして、華奢なアレックが勝てるとも思えなかった。こちらが大人になって耐えるしかない。


 とはいえ、アレックからすると非常識であっても、御者には御者の言い分もあるのだった。彼は乗客が文句を我慢していると知れば、びっくり仰天したに違いない。


 あれだけ運賃を値切っておいて、よくぞ我儘を言えたものだな、と。――後部席には屋根もあり、(簡素ではあるが)四方囲われていて、その上一応イスもついている。感謝されてもいいくらいだった。


 国境を越え、やっと故郷のブレデルに戻って来られた。長い旅だったなと御者は考えていた。


 片側に森が広がり、反対側は丘になっている。通りは起伏がある上に、道も凸凹していて、揺れがいっそうひどくなっていた。


 ――ドンドン、と壁を叩かれ、『止めてくれ!』と大声で言われたので、御者はのんびりした手さばきで馬車を停めた。


 後部席のドアが開き、乗客が外套を掻き合わせるように背を丸め、よろけながら出て来る。そのまま振り返らずに森の中に入って行くさまを眺め、御者はやれやれとため息を吐いていた。かぶっていたハンチング帽を脱ぎ、ぼうっと空を眺める。


 ――アレックは震える足を踏みしめ、木々のあいだを進んで行った。


 気持ちが悪かった。幹に手を当て、跪く。胃の中のものを吐き出した。饐えたような臭いが鼻をつき、涙が滲む。えづきながらさらに吐いた。数分、そんなことを繰り返し、やっと出すものもなくなったようだ。


 やがて立ち上がったアレックは表情を失っていた。喜怒哀楽、全てが抜け落ちてしまったかのように。


 彼は方角を見失ったかのように蛇行しながら森の中を彷徨った。そして枝ぶりの良い木を見つけると、その根元で立ち止まり、静かにそれを見上げた。


 外套の下に手を入れ、脇の下に挟んでいたものを引っ張り出す。――それは一本の『縄』だった。馬車を出る時に持ち出してきた。積荷の中、竹籠のそばに置いてあったもの。


 アレックは枝めがけて縄の端を投げ、何度も根気強く挑戦して、それを渡すことに成功した。作業中はここ最近で一番落ち着きを取り戻していたかもしれない。彼は縄を握りながら、丁寧に結び目を作っていった。


 ――御者席に残っていた農夫は、体の向きを変えたり、足を揉んだり、伸びをしたりして時間を潰していた。


 五分たち、十分たっても、客はまだ戻らない。それからさらに数分が経過し、御者は乗客が消えて行った暗い森のほうを眺めた。


 仕方がない、探しに行くか……彼は脱いでいたハンチング帽をかぶり直し、腰を浮かそうとした。


 しかしそこで彼は、ゼンマイが切れたかのようにピタリと動きを止めてしまった。運賃を値切られた件が頭をよぎったためだ。


 もう一度暗い森のほうを見遣る。――彼が考え込んだのはほんの一瞬のことだった。


 やがて身じろぎした彼は、落ち着き払った様子で元の位置に腰を据え直し、帽子のツバを指でいじり、ふっと息を吐いた。


 鞭を取り、馬の尻を叩く。


 パカ、パカ……蹄の音を立てながら、景色が後ろに流れ始める。後部座席が軽くなったぶん、馬は少し機嫌が良くなったように見えた。


 やがて森の端を越え、一気に見晴らしが良くなる。


 空は晴れ渡っていた。白い雲が綿のように浮かび、のどかに風で流されていく。


 農夫は鼻歌を口ずさみ始めた。昔からブレデルに伝わる『おお、我が故郷』という民謡を。


 ――今現在ブレデル国が重大な問題を抱えていようが、先行きが暗かろうが、そんなことは関係ない。どこか遠くへ逃げ出してしまおうとも思わない。


 彼にとってはブレデルこそが『我が故郷』であり、帰るべき場所なのだ。


 農夫の歌声は呑気に響き、爽やかな風が道端の黄色い花を揺らしていた。





 隣国で幸せになります(終)



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― 新着の感想 ―
面白かったです!闇がありそうな泉の設定が考察されるところにわくわくしました。 ラストも良かったです。 また書いてください\(^o^)/
[一言] 最終話、なんとも言いようのない感覚でした(ほめ言葉 一国の王太子が運賃を値切られたオンボロ馬車に乗っているとか、最後は自業自得で惨めな最後だが下手したら亡骸すら発見されない可能性。 王族ほぼ…
[良い点] 色々な心理パターンの描写が非常に興味深かったです。 ・アレックを始めとする周囲の人物からパトリシアへ向けられる陰湿な嫌がらせはモラル・ハラスメントのテンプレートのようですし、彼女に性欲を感…
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