一緒に
経験談を語り終えたパトリシアは、クロード殿下に見解を伝えた。
「朝の挨拶時、軽く微笑んだだけでも、嘘と判断されてあれだけ泉が濁ったので、とてもショックを受けました。あれがもしも……私がもっと悪質な嘘をついていて、儀式を強行していたなら……そしてそれをやり直す者がいなかったなら、水はかなり汚染されていたはずです」
クロード殿下はしばらくのあいだ物思う様子でケイレブ聖泉を眺めていた。
やがて小さく息を吐き、パトリシアのほうに向き直って告げる。
「このまま話をしていたいのだが、申し訳ない。時間の余裕がなくて……」
クロード殿下にそう告げられ、パトリシアはハッとさせられた。まるで目の前から光が消えたような心地だった。
……これはお断りの意志表示ね。パトリシアは静かにそれを受けとめた。
彼の言葉にはそう思わせるような何かがあった。ほかに言いづらいことがあり、それが喉まで出かかっている……というようなぎこちなさが。
分かっていたはずじゃない。がっかりしてはいけないわ。たとえ短時間であっても、楽しくお喋りできたのだから、良かったと思わなくては……。
そう自分に言い聞かせるのに、心は千々に乱れた。
態度がよくなかったかしら? 時折――いえ、結構、笑ってしまったから、彼はそれを軽薄な態度であると捉えたかもしれない。
それとも、話し方が要領を得なかった? それは十分に考えられる。長いあいだ婚約関係にあったアレック殿下だって、あれだけパトリシアに対して苛立ちを表していたのだ。聡いクロード殿下が、初対面でパトリシアに見切りをつけたとしても、なんの不思議もない。
パトリシアが傷つき、瞳を伏せると、クロード殿下がそっと彼女の手を掬い取った。
パトリシアは戸惑い、彼の顔を見上げた。
クロード殿下の憂いを帯びた瞳がこちらに向けられている。
パトリシアはそれだけで胸がいっぱいになった。そして彼のほうもまた、切羽詰まった感情のうねりに呑み込まれそうになり、戸惑いを覚えていた。
「……普段の僕なら、絶対にこんなことは言わないのだが……どうかしてしまったのかな」
「クロード殿下」
「その――君さえよければ、一緒に来る?」
「え?」
「このまま、身一つで。馬鹿馬鹿しいことを言っている自覚はあるんだが……」
パトリシアの頬に血の気が戻った。ふわりと気が緩み、それが行き過ぎて、熱に浮かされたような顔つきになっている。
パトリシアはそっと手を伸ばし、クロード殿下の鎖骨のあたりに触れた。
上着越しであるのに、クロードは触れられたところに熱を感じた。
「――私、あなたと一緒に行きたい」
「本当に?」
「行きたい。連れて行って」
パトリシアは彼に抱き着いていた。涙声で、「連れて行って」と繰り返した。
彼に抱き返される。……温かかった。
パトリシアはとうとうこらえきれなくなり、彼の腕の中で泣き出してしまった。
***
クロード殿下はパトリシアの手を取り、歩き始めた。
側近のミラーは事態の急展開ぶりに顔を強張らせていたものの、苦言を呈することはなかった。ミラーは従順にあるじのあとを追う。
――途中、クロード殿下はミラーのほうを振り返って、こんな問いを口にした。
「……これって誘拐になるかな」
「さぁ、どうでしょうか。確かにお二人はまだ籍を入れていないですからね」
入籍どころか、だ。クロード殿下はパトリシア嬢に会うまで、縁談自体に了承の意を示していなかったので、現状では婚約関係にすらないのだ。
「順序は守るべきだよなぁ。僕もそう思うよ」
「でもこのまま連れて行くのですよね?」
「うん」
クロード殿下に手を引かれ、パトリシア嬢は成り行きを気にしている。歩く時の身のこなしや、雰囲気、全てが洗練されていて品格のある美しい女性であるのに、その表情は子供のように無垢だった。
それを視界に入れ、さらにあるじであるクロード殿下の『もう決めたんだ』という瞳を見てしまえば、協力するという以外の台詞は口から出てこなかった。
「でしたら……あとのことは私が処理します」
ミラーはしばらくブレデル国に残り、面倒な諸々を引き受けると申し出た。
クロード殿下が淡く微笑んで見せる。
「悪いね。この恩は忘れない」
「海辺に豪華な別荘でも買っていただけるのでしょうか?」
「海ごとくれてやる」
なんとも夢が膨らむ冗談だなと、愉快な気持ちになったミラーは、笑みを浮かべて彼らを見送った。
――ミラーとしては、少なくとも一週間程度は拘束されるものと覚悟していたのだが、結論からいうと、そうはならなかった。
彼は数時間ほどで解放され、すでにここを発ったあるじのあとを追うことができた。
というのも、グレース王太后殿下が全てこちらの希望通りに取り計らってくれたからだ。
「あなたも早くクロード殿下を追いなさい」
ミラーはグレース王太后殿下にそう促され、得体の知れない不安を覚えた。――ここに長居してはならぬという、グレース王太后殿下からの強い意志を感じたからだ。
もちろん彼はお言葉に甘え、ブレデルの王宮をすぐに発つことにしたのだった。