クロード×パトリシア①
クロード殿下との顔合わせ当日。
パトリシアは窓のそばにじっと佇み、小道のほうを見おろしていた。今日は朝からずっとそわそわしている。
約束の時間まであと五分もないから、そろそろ下の通りに現れる頃だろう。
殿下は到着後、国王陛下、アレック殿下に挨拶をしてから、離れであるこちらの建物まで来てくださるそうだ。この段取りは国王陛下とアレック殿下が相談して決めたらしいのだが、パトリシアはそれで大丈夫なのかしらと内心では疑問に感じていた。
遠路はるばるいらしてくださったクロード殿下に、王宮内を長々移動いただくのも申し訳ないことである。本来ならば、初めからパトリシアが謁見の間に同席しているべきで、クロード殿下を煩わせないように気遣ったほうがよいのではないかという気がした。それで事前にそう申し出てみたのだが、『君は重要人物ではないのだから、こういう場面では出しゃばらず、離れの三階で大人しく待機しているべきだ』とアレック殿下からお叱りを受けてしまい、それ以上は何も言えなくなってしまった。
――パトリシアが今いる小窓の左下には、楡の木が茂っている。穏やかな陽光が新緑に当たり、そよ風がそれを揺らす。時折、鳥の鳴き声が響き、のどかな空気だった。
足音が響いて来て、男性が二人、小道をこちらに向かって歩いて来るのが見えた。もっとお付きの者や警護をぞろぞろと引き連れて現れるものと思っていたので、その身軽さに驚いてしまった。もしかすると連れて来た部下たちは、本館のほうで待機させているのだろうか。
パトリシアは口元に手を当て、まじまじとクロード殿下らしき人を見つめた。この時の彼女は驚きすぎて、「え」と思わず声が出そうになったほどだ。
――とっても優しそうな方だわ! パトリシアは心臓がドキドキしてきた。
なんてしなやかな身のこなしなのかしら。軽やかで気取りがないのに、とても品が良い。表情の作り方が柔らかく、部下のほうに振り返って一言二言何か告げている様子を見ただけでも、目下の者に親切な方なのだろうなというのが分かる。威圧するような気配が皆無で、とても感じが良い。
それになんていうか、彼……パトリシアは混乱のあまり、複雑な形に眉根を寄せていた。
……聞いていたのと、全然違う……
ちょっと、なんていうか……素敵すぎない? どうして?
確かに派手派手しい美形ではないけれど、パトリシアからすると、彼の自然体なところが、ものすごく魅力的に感じられるのだった。
……あの方をパッとしない半端者扱いするだなんて、隣国って、美意識や感覚がちょっと変なのかしら? と首を傾げたくなったくらいだ。(実際のところ隣国では、クロード殿下は知る人ぞ知るという存在で、コアな人気があるのだが、あまり表に出て来ないので、知名度がないというだけである)
クロード殿下が素敵な人だというのが分かり、パトリシアは段々不安になってきた。
婚約が決まったって、本当なのかしら? 考えてみれば、その件を伝えてきたアレック殿下って、昔からそそっかしいところがなかった? 殿下から告げられた内容が、間違った情報だったら?
実際は第四王子のもとに舞い込んだ、何百もあるうちの縁談の一つにすぎなくて、彼は観光がてら立ち寄っただけなのでは? パトリシアと会ったあとで、『ご縁がなかったようで』の定型文を告げて、それで終わりということはない?
……どう? ありえそうじゃない?
パトリシアが小道を見おろしていると、不意に横手から、杖をついた老女が出て来た。右側にある建物の陰に身を潜めていたらしく、パトリシアの位置からは、急に飛び出して来たように見えた。
――グレース王太后殿下だわ! パトリシアは驚きすぎて、口がポカンと開いてしまった。この位置にいると後ろ姿しか確認できないけれど、歩いているのを見ることができたのは、本当に久しぶりのことである。丸まった背中を見るに、元気いっぱいという感じはしないが、それでも寝室から出てここまで歩いて来られたことに間違いはない。そのことに安堵を覚える。
もう二度と姿を見ることは叶わないと思っていた。だから嬉しかった。
グレース王太后殿下がよろけたので、クロード殿下がさっと近寄り、転ばないよう支えてあげている。王太后殿下はとても地味な服装をしているので、王族だとはパッと見分からないだろう。けれどクロード殿下の介助はとても自然で、親切だった。
そのまま二人が話を始めたので、パトリシアはぼんやりとそれを眺めおろしていた。パトリシアの位置からは、グレース王太后殿下の後ろ姿しか見えないので、自然、クロード殿下の顔を見つめることになる。
するとこちらの視線に気づいたのか、クロード殿下がふと瞳を上げて、真っ直ぐにこちらを見てきた。――視線が絡む。
パトリシアは仰天し、ビクッと背筋を伸ばしていた。覗き見していた気まずさ、クロード殿下と目が合った恥ずかしさ、それらがパトリシアの正常な思考回路を乱し、頭が真っ白になる。顔がかぁっと熱くなるのが自分でも分かった。
きゃあ、どうしよう! 考えるよりも体が先に動いていた。パトリシアは目を丸くし、さっと横っ飛びして、壁に張りついて身を隠してしまった。一拍置き、壁紙を眺めながら、じわりと涙目になる。
――やってしまった! ちゃんと礼儀正しく挨拶すべきだったわ! 恥ずかしい! 覗き見していた上に、それを見咎められた途端、こそこそ隠れたりして!
うう……と小さな呻き声が口から漏れ出た。パトリシアはそっと両手を持ち上げ、静かに顔を覆った。泣きたい気分だった。時間を巻き戻せたらいいのに……と切に願ったが、もうどうにもならない。
しかしのんびり落ち込んでいる暇もなかった。室内が慌ただしくなり、使用人が扉を開けた気配を背後で感じ、パトリシアは慌ててそちらに顔を向けた。
――クロード殿下が入って来る。
パトリシアの顔はますます赤みを増している。いつも冷静で優雅な彼女が、ぎこちない礼をとるのがやっとだった。
自己紹介を終えてから、パトリシアは耐えきれずに懺悔を始めた。
「あの、先程は、大変な失礼を……」
途切れ途切れにやっと詫びを入れると、クロード殿下がなんだか楽しげにこちらを見返してくる。
「あなたの素早い身のこなしを見て、とても感心しましたよ」
「ごめんなさい!」
パトリシアはもう、頭から湯気が出そうだ。
「どうして謝るのですか? 褒めているのに」
「褒めているのですか? からかっているのではなくて?」
「さぁ、どうだろう」
のらりくらりとした彼の態度は、紳士としてはよくないのかもしれなかったが、眼差しに清潔感があるので、不思議と下品にはならないのだった。一周回って、とても親切に見えてしまうほど。
けれどたぶんクロード殿下は、パトリシアの慌てぶりを楽しんでいる。
――彼はすごく良い男か、すごく悪い男かのどちらかだわ――パトリシアはそんなことを思った。そして彼がものすごく悪い男だった場合、自分はもう絶対に逃れられないであろうという予感もあった。
「とにかく私、良くない態度でした。こっそり覗き見したりして――」
動揺が治まらずにそう告げると、クロード殿下がはっきりと笑った。
「覗き見していたって、自分で認めちゃうのか」
「え」
「もっと取り繕えばいいのに」
「でもそれは、確かにしていたことなので」
「そうだね」
「あの、呆れていますか?」
「呆れてはいない。見てのとおり、楽しんでいる」
クロード殿下は相変わらず柔らかな笑みを浮かべている。
パトリシアは眉尻を下げ、弱り切った顔でクロード殿下を見上げた。
――クロードは『少しいじめすぎたかな』と思い、態度を改めることにした。
「私のほうこそ反省しなければならないですね」
「どうしてですか?」
パトリシアが不思議そうに尋ねてくるので、クロードは、ここまで素直に感情を出す女性には初めて会ったかもしれないと考えていた。実はかなり戸惑いを覚えていたのだけれど、彼はそうとは相手に悟らせず、柔らかな物腰を崩さなかった。
「あなたを慌てさせ、困らせている。こんな男は親切ではないでしょう?」
「そうかしら?」
パトリシアが小首を傾げる。この時のクロードはまだ、遊び半分のような楽しい気持ちでいた。
「では、あなたは違う見解なのですか?」
「ええ」
「具体的には?」
「私はあなたのことを、とても親切な方だと思いました」
「なぜ?」
「それは、その……」
パトリシアは気まずそうにドレスのドレープを指でいじりながら、小さく呟きを漏らす。
「だって私……窓から覗き見をしていたからです。あなたが部下に話しかける態度や、グレース王太后殿下に自然に歩み寄った様子を見て、そう思ったんです。親切だし、素敵な方だと」
耳まで赤くして俯きがちにそう告げてきたパトリシアを眺め、クロードは微かに瞳を細めていた。
彼は明らかにペースを乱されていた。――クロードのこの途方に暮れたような顔つきを、自国にいる父や兄たちが見たならば、ありえないことだと仰天したのではないだろうか。
現に側近のミラーは少し顎を引き、心を落ち着かせなければならなかった。仕えて長いが、こんなクロード殿下は初めて見る。
ミラーは混乱しながらも、『もしかするとクロード殿下は当たりを引いたのかもしれない』と考えていた。