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笑わない女


 ブレデル国には奇妙極まりない、不可思議な伝統がある。


 それは一代置きに『笑わぬ王妃』が現れるというものだ。



***



 アレック殿下のやり口は非常に冷徹だった。婚約者を嵌めるその手口は、獣を狩る罠のように、周到で容赦がなかった。


「パトリシア、困っていることがあれば、なんでもいいから言ってみてくれ。力になりたい」


 アレック殿下からそんなふうに言われたパトリシアは、胸の奥がふわりと温まるような喜びを覚えていた。このところ二人のあいだには、すきま風が吹いているようでもあったので、余計にありがたみを感じたのだ。


 困っていること……パトリシアは考えを巡らせてから、口を開く。


「もしも可能でしたら、妃教育の開始時間を、三十分ほど後ろ倒しにしていただけないでしょうか」


「それはどうして?」


 アレック殿下が小首を傾げると、金色の艶めいた髪がさらりと揺れた。彼はとても綺麗な面差しをしている。殿下の水色の瞳が気遣うようにこちらに向けられると、パトリシアは彼に受け入れられているという感じがした。それで勇気を出して、続きを口にしてみた。


「聖泉礼拝の儀式を終えてから、十分後にレッスンが始まってしまうので、時間的に余裕がないのです。ケイレブ聖泉から急ぎ移動しても、走らないと間に合わないので、先日、移動中に転んでしまいました」


 パトリシアはとある事情により、嘘をつくことができない。それで正直に話した。


 それにパトリシアからすると、大それた頼みごとをしているつもりもなかったのだ。きっと聞き入れてもらえるだろう……そんなふうに安易に考えてしまったのが、いけなかったのだろうか。


「……君は相変わらず不平不満ばかりなのだな」


 アレック殿下が沈痛な面持ちで、小さく息を吐いた。パトリシアは今になって失敗を悟った。まるで鋭い針で心臓を刺し貫かれたかのように、体が硬直してしまった。


 重々しい口調で殿下が続ける。


「なんでも自分一人が苦労していると君は思い込んでいるんだね? 他者の苦労を思い遣ることができない」


「そんなことは……」


「だってそうだろう? 君はレッスンをしてもらって当たり前だと考えているわけだ。それって、自分のために動いてくれている人たちを思い遣れないということではないかな? なんだか残念だな」


 そう言われ、返す言葉もない。パトリシアはすっかり落ち込み、瞳から光を消して俯いてしまった。彼はそれを軽蔑しきったかのように眺め、口を開いた。


「そんなふうに不貞腐れて、思い遣りもなく自分勝手に生きていて、人生に意義を見いだせるのかい? 君という人は、自分が、自分が、という視野の狭いところがあって、他人に気を遣うこともできないのだな。協調性の欠片もない。……ある意味、とてもかわいそうな人だと思う。その思い上がりにより、自分で自分を不幸にしているのだから。気づいていないかもしれないが、心根の卑しさが、顔にも出ているよ。明るさも愛嬌もなく、醜い。――造形ではないんだ、心根が醜いのだ」


 パトリシアはほとんど笑うことがない。そのことをアレック殿下はいつも不満に思っていた。


 彼女にはどこか不思議な雰囲気があった。明るい色の豪奢なブロンドはお日様を思わせる。眉は優美に上がり、眉尻のほうは完璧な角度で落ちている。造形的には美しい女性で、カールしたまつげや、アーモンド型の瞳は本来ならばキュートに映るはずである。


 しかし灰色の瞳がシャープでクールなために、笑顔を見せないことにより、とても冷たく見えてしまう。


 アレック殿下は彼女に対し、教育の必要性を感じていた。


「ねぇ、パトリシア。自分自身に分不相応な自信を持つのも結構だが、第三者の視線を意識して、もっと精進して欲しい。皆から『陰気で性悪』『傲慢極まりない悪役令嬢』と言われていることと、ちゃんと向き合って欲しいんだ。――苦言を呈する、私の胸も痛んでいる。この言葉が君に届くことを願うよ」


 パトリシアは息を吸う度、肺から朽ちていくような錯覚に囚われた。


 確かに以前から、彼がこちらを見遣る際の冷ややかな空気を感じてはいた。しかしここまであからさまに侮蔑されたことはなかったように思う。


 自分があずかり知らぬところで、何かが起こっているのだろうか? ふとそんな疑問が湧き上がった。不安でたまらなかった。他者から軽蔑され、軽く扱われることは、こんなにも傷つくものなのだと思い知った。


 自分自身をしっかり持ってさえいれば、他者の評価などには惑わされないという、強い人間も世の中には存在するのかもしれない。


 しかし貴族社会に籍を置き、そこで一生を過ごす義務を負わされた身では、王太子殿下からこうした扱いをされることは致命的に思えた。


 一体どうしたらよいのだろう……パトリシアは途方に暮れてしまった。愛想笑いをすることが自分に許されているなら、いくらでもそうする。けれどあいにく、そうしたくても、パトリシアにはそうする権利がない。愛想笑いでさえも、『嘘』とみなされるからだ。


 打開策を探そうにも、パトリシアはどうしてよいのか、見当もつかないのだった。



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