1-5.日常への帰還
あれから一晩が経った翌日、朝6時、伯怜は目覚めた。今日は土曜日。横を見ると美怜が静かに眠っている。伯怜は美怜をおこさないように静かにベッドから出て、胴着を見に纏い、部屋を後にした。
「こっちでも自主練はしておかないとな。何のために修行に行ったんだか分かんなくなる」
庭に出た伯怜はそうつぶやくと、これまたおもむろに何もない所から木刀を取り出し、素振りを始めた。伯怜はこれまで、朝の鍛錬を欠かさずこなしてきた。その癖が抜けていないのか、それともまだまだ強くなりたいという意志なのか、伯怜は黙々と木刀を振る。時にはまるで相手がいるような実戦的な動きも交えつつ、動きを確認していた。
鍛錬は約1時間続いた。伯怜の息はまだ上がっていないが、軽く一息つくと、木刀を何もない所へしまい、家の中に入り、洗面所で顔を洗い、部屋へと戻った。
部屋に入ると、まだ美怜は眠っていた。昨日は余程疲れたのだろうか? 伯怜は静かに着替えた。着替えが終わったところで、美怜が目を覚ました。
「……お兄ちゃん、もう朝?」
美怜はまだ少し寝ぼけた様子だったが、伯怜は
「おはよう、美怜。よく眠れたか?」
と、ベッドへ向かい、美怜の頬を軽く撫でた。
「うん、今日は大丈夫そう……」
伯怜の問いに対して、何やら意味深な答えを返した美怜だが、伯怜も軽く微笑むだけで特に言及はしなかった。ただし、
「とりあえず一度自分の部屋に戻って身支度をしてくるんだ」
と言った。美怜も素直に従った。
午前7時過ぎ、朝食の時間だ。家族全員そろっての朝食。これも数年ぶりの光景だが、昨日の夕食が豪華だったので、これと言って特に何かを感じることは無かった。
「三人とも、今日はどうする予定だ?」
父が軽く質問をする。
「んー、特にやりたいことはないような……、でも……」
伯怜は何かを言いかけたが、途中で止めた。
「今日はまだいいが、来月からは学校に通い始めるんだ。その準備はしておくんだぞ」
「それは確かに……」
伯怜の代わりに怜嗣が反応する。
「1年しか着ない制服を作るのも、なんだか無駄な気もするがなぁ」
伯怜は妙なところをつく。
「制服かぁ、私にも似合うかな?」
「美怜だったら何を着ても似合うさ」
美怜と伯怜の会話は、相変わらずどこかズレている。
「まあ、今日は土曜日だし、急ぎのことはまだ大丈夫よ。友達に会ってきたら? 伯怜も会いたい人がいるんでしょ?」
母の突然の質問に対し伯怜は、
「それは否定しないけど……」
と、何故か及び腰だった。
朝食終了後、各自動き出す。父は土曜日であるのに仕事に向かう。前日も語られたが、忙しい身分なのである。
「美怜、まだ荷物の整理してないんじゃないの? 私も手伝うから、早く片付けないと」
「わ、分かった……」
美怜の行動は母に予測されていたようで、さっそく足止めを食らった。今日は美怜は家から出られないだろう。
「僕も今日は家にいるよ」
怜嗣も随分控えめである。
「伯怜はどうするの?」
「……ちょっと出かけてくる」
母の質問に対して、少々そっけなく答えたが、伯怜の心の内には今日絶対すべきことがすでに決まっていた。母も伯怜の内心に気付いているのか、
「別にお昼までに帰ってこなくてもいいわよ」
と、何故か笑顔で送り出そうとしていた。
「……さすがに昼までには帰ってくるよ……」
伯怜は戸惑いながらもそう答えた。出かける場所は決まっている。そしてそこで誰と会い、何をするかも……。
しかし、出かけるにしてはまだ早すぎる。そこで伯怜は話題をガラッと変え、母にいくつか問い尋ねた。
「母さん、色々準備が必要なのは分かってるけど、具体的に何をそろえればいいの?」
「そうね、学校に通うんだし、高校生になるんだから、制服だけじゃなくて教科書の用意や復学の手続きをしないと」
母のもっともな発言に対して、伯怜も否定はせず、納得といった感じだ。
「あと、そうね……、せっかく高校生になるんだから、携帯電話も必要でしょ。その手続きも三人の日程を合わせてしにいきましょ」
「お、携帯か。ようやく持てる日が来るとは」
思わず伯怜も喜びを隠せなかった。
「お母さん、私も携帯持っていいの?」
美怜が母に突っかかる。
「ええ、いざというときに連絡が取れないと困るでしょ。その代わり、無駄遣いはしないこと。いいわね?」
「はーい!」
こういう時の美怜は、とても素直、というか子どもっぽい。
「ほかに欲しいものは?」
母はさらに三人に尋ねる。
「あっちでも買ってたけど、さすがにこっち用の私服も欲しい。そんなに高いのじゃなくていいから」
「それに関しては僕も同意だよ」
伯怜と怜嗣はそう答え、母も納得の表情をしていた。
「でも、いろいろ買い込んで、お金は大丈夫なの? 携帯だって馬鹿にならない出費だし……」
心配そうに怜嗣が母に対して尋ねるが、
「まだ子どもなんだから、そういうことの心配はしなくていいのよ。それに2年間、ちゃんと貯金してきたんだし、お父さんだってたくさん仕事してお給料たくさんもらってるのよ」
「そ、そうだね……」
怜嗣の心配は簡単に一蹴された。
「そういえば、ピアノはまだあるの?」
伯怜が唐突に母に尋ねる。
「もちろんあるわよ。伯怜、今でもちゃんと弾けるの?」
「……あっちじゃキーボードで練習してたから、グランドピアノはどうだろう……」
「そう、じゃあとりあえず一曲聴かせてくれる?」
伯怜は余計な質問だったかと若干後悔したが、そこまで悲観的ではなかった。
「まあ、久々に演奏してみるか」
伯怜は気持ちを入れ替えてピアノのある部屋へ向かった。
こう見えて伯怜は、武芸一辺倒ではなく、ピアノといった音楽の才能もある。幼い頃に母がピアノ教室に通わせたところ、相当な技巧派な演奏をして、周囲を驚かせたことがあった。それを聞いた父と母は、伯怜に対しては西洋のクラシック音楽をよく聴かせていた。伯怜自身、クラシックも好きだが、意外とゲームの音楽が好きであり、自分流にアレンジしてキーボードで演奏することにはまっていた。しかし、今は母の前、変な音楽を聴かせるわけにはいかないため、ちゃんとしたクラシック音楽を選曲して母と弟妹の前で演奏した。
「さすがね、伯怜。腕は全然鈍ってないじゃない!」
「やっぱり兄さんのピアノは上手いよ」
母と怜嗣はそれぞれ感想を述べたが、美怜は何も言わない。伯怜の演奏にうっとりしすぎて、もはや自分だけの世界に入りこんでいる。伯怜もそれには触れなかった。
昨日はうっかりしていて投稿し忘れてしまいました。申し訳ありません。
伯怜が演奏した曲はショパンの『幻想即興曲』です。音楽の話題はまたいずれ取り上げると思います。