番外編:宰相の部下視点の話
宰相が暗殺未遂事件から復帰した後の話。甘さはゼロです。女王は名前しか出てきません。
俺の上司は、悪名高い。
悪辣宰相、冷酷閣下、悪魔の化身……などなど、さまざまな二つ名を持つが、最も有名なのはコレだろう。
『裏切りの宰相』
かつて宰相閣下が、三度主君を裏切ったという血生臭い逸話に由来するものだが、部下としていわせてもらうなら、閣下はそれほど悪い人ではない。
悪いどころか、上司としては最高の部類に入るだろう。
宰相閣下は、家柄や血筋ではなく、実力で部下を見てくれる。
部下の能力を見極め、適所適材の配置をしてくれる。
さらに、部下たちの間でもめ事が起きても、特定の“お気に入り”をえこひいきするような真似はせず、合理的な裁断を下す。
部下が失敗しても、むやみと責めるような真似はしない。それどころか、最終的な責任はすべて自分が負うといってくれる。
一方で、他部署のお偉いさんから難癖をつけられたら、閣下が矢面に立って処理してくれる。
部下たちが実力を発揮できる場所を、きちんと確保してくれるのだ。
それでいて給料もよく、実力次第で出世もできる。まさに理想の職場だろう。
俺は宰相閣下のもとで働き始めてから、転職を考えたことは一度もない。
─── たとえ、宰相閣下の冷静さや合理的判断が『人間は等しく駒である』という御心から来ていると知っていても、だ。
そう……、宰相閣下にとって、部下は等しく駒である。
だからえこひいきなんて存在しようがない。
部下以外も平等に駒である。
それゆえ、相手の身分や権威にひるむこともない。
どれほど高貴な身分の方であっても、宰相閣下の眼には駒としてしか写らないからだ。
閣下の側近たちの間では、『あの方の眼には、世界は数字として映っているのだろう』と囁かれているほどだ。
宰相閣下が満足そうな笑みをこぼすのは、自らのシナリオが、計算通りの結末を迎えたその一瞬だけである。例えていうなら、盤上の遊戯で勝利を収めたその一瞬、それだけが閣下に喜びを感じさせるのだ。
敵国の勇将を、あるいは宮中の政敵を、張り巡らせた繰り糸の中でじわじわと追い詰めて、望み通りの破滅を得た瞬間、閣下はおぞましいほどに美しく嗤われる。
まさに『人でなし』という言葉がぴったりな宰相閣下だが、それなりに長く働いている俺としては、
『いやいや確かに善人じゃないけど、そうはいってもな? えこひいきしたり、部下に責任押し付けるような“人間味のある”上司よりは、むやみには部下を虐げない閣下の方が(たとえ駒扱いだとしても)はるかにマシだろうよ』
と、いう気持ちだ。
そりゃあな、あのオリオール卿みたいに、上司としても人間としても最高の御方もいるんだろう。
でも、そんな人間は、希少な鉱物よりも少ないのが現実だ。
才覚と人格、どちらか片方を満たしているだけでも、俺としては十分尊敬できる。
それに、オリオール卿って、完璧すぎて嘘くさくないか?
いっておくけど、僻みじゃないぞ。
俺が地味顔だからいってるわけじゃないからな。
女官たちにきゃあきゃあいわれているオリオール卿が妬ましいわけじゃないから。
騎士団ばかり人気があってずるいなんて思ってないから。
どうせ騎士様は花形だよな、こっちは地味なお仕事ですよ、なんてひがんでねえから……!
くそ、俺も恋人がほしい……。
俺だって毎日お仕事頑張ってるんだよ……。
この際、見合いでも何でもいいから、結婚したい……。
宰相閣下は、最高の上司ではあるんだが、人使いは死ぬほど荒い。
俺が、年齢イコール恋人いない歴なのは、閣下に馬車馬のごとく働かされてきたからだ。
きっとそうだ。そのせいに違いない。
※
昼下がりの執務室に、書類をめくる音だけが響く。
室内にいるのは、宰相閣下と俺と後輩、それに数名の先輩方だ。
先輩方がそれぞれの業務を処理している中、俺と後輩は宰相閣下の机の前に立ち、閣下が計画書に目を通し終わるのを待っていた。
俺の隣では、後輩が、身体をこわばらせて、緊張をあらわにしている。
一方の俺はというと、睡魔に襲われてはあくびをかみ殺していた。
コーレル河の橋建設という一大事業の立案と調整のために、先日まではコーレル領にいたのだ。王都に戻ってきてからは、各部署との連携に駆けずり回った。最終的な計画書を仕上げたのが今朝方だ。早く帰って寝たい。
しかし、そう容易にはいかないだろうこともわかっていた。
お褒めのお言葉を期待している後輩と違って、俺は宰相閣下に仕えて長いのだ。
案の定、一通り目を通した宰相閣下は、羽ペンを持つと、さらさらと書き込みを始めた。
─── 出たよ……。閣下のダメだし……。
後輩は露骨に肩を落としたが、俺は遠い目になっただけだった。
どうせ修正食らうと思ってたからね。一発で閣下のお目にかなうなんて、夏に雪が降るよりもありえない話だ。
「この日程で再調整してください」
突き返された計画書を、俺は内心でしくしくと泣きながら受け取った。
あっさりした一言だが、意味するところはスケジュール全修正だ。
後輩は、俺の手の中の計画書を覗き込み、閣下の手による修正箇所を確認して、納得いかないというように顔を歪めた。
まだ年若い後輩には、この計画書を完璧に仕上げたという自負があったのだろう。
俺が止める間もなく、閣下に向き直っていった。
「恐れながら申し上げます、宰相閣下。現在予定している日程は、大規模な工事になることを踏まえ、十分な余裕を持って設定したものです。着工後にやむを得ず延期することはございましょうが、現時点で日程を伸ばす必要はないかと存じます」
後輩の熱弁に、閣下は怒るそぶりも見せなかった。
そもそも後輩を視界に入れてすらいない。宰相閣下の眼はすでに次の書類へ移っている。
俺はしきりに『やめろ』と目くばせしたが、後輩は気づく様子もなく堂々と訴えた。
「再調整となれば、着工が遅れます。それは宰相閣下のお望みにも反することかと。どうかご再考いただけないでしょうか!」
そこで、ようやく、閣下は顔を上げた。
俺はおののいたが、閣下は、怒っているという様子ではなかった。
完璧な造形の顔に、いつも通りの胡散臭い微笑を浮かべながらも、どこか面倒くさそうに口を開いた。
「天候を計算に入れましたか」
「もちろんです。雨季に工事が進まないのはわかりきったことです。その分の予備日も含めて決定した日程です」
「そうではなく ─── ……、合計で雨がどれほどの時間降り、強風がどれほどの時間吹き、雪がどれほどの高さまで降り積もり、雪解けにどれほどの時間を要するか、そしてそれらが工事に与える影響はどれほどか、ということです」
「…………はあ?」
後輩が、部下としてあるまじき返事をしたのは、理解が遠く及ばなかったからに違いない。
気持ちはわかる。宰相閣下のお言葉の意味がわからない、というのは、部下なら誰でも、一度ならず二度でも三度でも通る道だ。
これはもう、閣下の言葉が足りないわけでも、俺たちの理解力が乏しいわけでもない。
ただ純粋に、閣下の見えている世界が、俺たちとは違い過ぎるのだ。
後輩は、顔中に疑問符を張り付けて、おずおずといった。
「いえ、その、宰相閣下……、そのようなことを計算するのは、不可能ですが……」
「完璧にはできずとも、予測を立てることはできるでしょう」
できないでーす!!!
俺は心の中でそう、力強く突っ込んだ。
しかし俺は知っている。俺だけでなく、宰相閣下に仕えて長い連中は皆知っている。
閣下ができるといったらできるのだ。閣下にだけは。
だからこういうときは「(さっぱりわからんが)わかりました」と答えるのが正しい。
閣下に、一から百まで、俺たちにもわかるように説明していただくなど、それこそ時間の無駄である。
しかし、まだ閣下に不慣れな後輩は、困惑をあらわにいい募った。
「予測といわれましても……、これから雨が、どれほどの時間降るかなど、神ならぬ身に、どうやって知り得ましょうか……」
「あなたは今、24歳ですね」
「えっ、ええ……? それが、なにか?」
「少なく見積もっても、天候に関する20年分の蓄積があるということです。ならば、予測することは難しくないでしょう」
後輩が、とうとう、助けを求めるように、俺を見た。
異国の言語に遭遇したかのような顔つきである。気持ちはわかる。
ヒューデリア王国の共通言語を話しているはずなのに、まるきり理解できないのは恐怖だろう。
俺は、少なくとも後輩よりは閣下言語に慣れているので、神妙な面持ちで通訳してやった。
「宰相閣下は、20年分の天候に関する情報があれば、予測を立てることも可能だろうとおっしゃっているのだ」
「20年分……? お待ちください、そのような情報が、どこにあるというのですか? 神殿ですら、天候についての記録を始めたのは、陛下が即位された後のことと聞いておりますが」
後輩の顔には、不満の色がありありと浮かんでいた。
記録があることを、自分にだけ教えてくれなかったのかと言いたげだ。
閣下のおかげで、俺の先輩としての信頼まで損ねそうになっているが、大いなる誤解である。
そんな記録はどこにもない。
閣下の頭の中以外には。
俺はしたり顔でいった。
「記録はないが、君がいま24歳だから、少なくとも20年ほどは君の頭の中に記憶があるだろうと、閣下はおっしゃっておられるのだ」
「 ─── はあっ!? むっ、無茶をおっしゃらないでください! そのようなことを覚えているはずがございませんでしょう! 信じられません。本気でおっしゃっておられるのですか? 20年間分の天候について、逐一覚えている者など、この世に存在しない ─── ……」
抗議の声が尻すぼみになったのは、ここにおられる御方の異名を思い出したからだろう。
裏切りの宰相。三度主君を裏切った男。
本来、そんないわくつきの人間が、一国の宰相まで登りつめられるはずがないのだ。
普通ならば、一度の裏切りで信用が地に落ちる。二度も三度も『臣下に欲しい』と望む主が現れるはずがない。
普通は。
宰相閣下が、普通の人間であったならば。
後輩の顔から、みるみるうちに、血の気が引いていった。
宰相閣下を見つめる眼差しは、尊敬と呼ぶには恐れが強かった。
間違いなく後輩は怯えていた。
自分の理解を超えた、あまりにも巨大な存在に対する畏怖があった。
「 ─── 閣下は、覚えていらっしゃるのですね……」
「納得できたなら、再調整に取り掛かってください」
震える声でいう後輩に、宰相閣下は何の感慨もなくそう返した。
そして、これで話は終わりだといわんばかりに、新たな書類を手に取る。
俺が頭を下げ、後輩を引っ張って退出しようとしたとき、執務室の扉が開いた。
しずしずと入室してきた男は、閣下の配下ではなく、陛下付きの侍従だった。
陛下が宰相を呼んでおられます、と、そう告げられて、閣下はかすかに笑った。
そう、笑ったのだ。
あの宰相閣下が。
嘘かまことか知らないが、『この世で面白みを覚えるのは、シナリオ通りに獲物が破滅したときのみ』と言い放ったという逸話までお持ちの宰相閣下が。
いつもの胡散臭い微笑みとは違う、心から幸せそうな笑みを浮かべられたのだ。
宰相閣下が出て行った後、執務室に重い沈黙が落ちたのは、いうまでもない。
ややあって、俺の先輩の一人が、青ざめた顔で口を開いた。
「やはり……、閣下は、王配の地位を手に入れるおつもりなんでしょうか……?」
「よせ、めったなことをいうな」
制止したのは、最年長の先輩だ。
閣下よりずいぶん年上だが、閣下に最も長く仕えていて、部下たちの中では珍しく妻子がいる先輩だ。
その体格の良さから、熊先輩と呼ばれている彼は、渋面を作っていった。
「陛下がお決めになることだ。……もしも、陛下が、宰相閣下を夫にと望まれることがあれば、自然とそうなるだろう……」
歯切れの悪い物言いをする熊先輩に、向かいに座っていた先輩が皮肉気な口調でいった。
「ばりばりの政略結婚だよなあ。いやァ、政略っていうより、閣下の策略か? 事が露見した暁には、みーんな思うだろうよ。『悪辣宰相は、ついに、若き女王陛下を手中に収めたのだ。完璧な操り人形として!』……ってな」
「よせといっているだろう。……閣下は、むやみと権力を欲するような御方ではない」
「じゃあ何をお望みだ? あの方が何を欲されているかなど、俺たちの誰も知らないだろう。……俺は、この政略結婚が、陛下からいい出されたことだとしても、驚かないね。閣下が裏切らない保証が欲しいと思うのは、それこそ自然なことだろう」
熊先輩は、ため息を一つついていった。
「陛下は保証など求められんさ。セレンティア陛下は……、ラシェド様を信じておられる。昔から、ずっとな。俺が知る限り、閣下にあれほど絶大な信頼を寄せていらっしゃる方は、ほかにはいない。陛下だけだ。……俺は、今の閣下があるのは、陛下のあの揺らがぬ信頼があってこそではないかと思う。だから、つまり……」
熊先輩は、その大きな身体を縮こめて、自信なさげにいった。
「宰相閣下が、純粋に、セレンティア陛下を想われているという可能性も、あるかと……」
─── いや、ないだろ。
その瞬間、熊先輩を除く全員の心が、一つになった。
あの宰相閣下が、偽装でも取引でもなく、心からの愛を囁くという姿が、まったく想像できない。あれほど愛という言葉から遠い人も、そういないんじゃないだろうか。
閣下が女王陛下との婚姻をもくろんでいるとすれば、それは確実に政略結婚だ。
とはいえ、熊先輩のいうとおり、閣下は、権力欲が強いというわけではない。上昇志向が強いタイプでもないだろう。閣下の御心は俺などには読めないが、閣下が一瞬であっても幸福を感じられることといえば……。
「もしかして、あれじゃないですか。王配の地位を得て、今以上に、思うがままに、自由に采配を振るいたいという……」
俺がいうと、室内に、納得の空気が満ちた。
「ああ……」
「なるほど……」
「熊の恋愛説よりよっぽど納得がいくわな……」
「いや、そんな……、そんな計算だけではないと思うんだが……!」
でも、計算があることは否定しないんですね、熊先輩。
俺は内心でそう突っ込んだが、口にはしなかった。
妻子持ちの熊先輩らしい、温かい考えだと思ったからだ。
ついでにいうと、もしかしたら熊先輩のこういうところが結婚できた理由かもしれない……! 見習いたい! という気持ちになっていたからだった。
あの完璧すぎて嫌みなオリオール卿が、女性にきゃあきゃあいわれるのだって、顔だけではない。優しくて、温厚で、誠実で、包容力があって、寛容で、それでいて熱い正義感も秘めていて……という憎たらしいほど立派な人柄だからだ。
顔も大事だが、性格も大事だ。
と、いう事実は、顔だけならばオリオール卿にだって負けていない宰相閣下が、きゃあきゃあ騒がれるどころか、国内外から恐れられていることからも察せられる。
俺は、顔では勝負できなくても、性格を磨いて、熊先輩みたいに幸せな結婚をしたいのだ。
そこまで考えて、ふと、セレンティア陛下はどうなのだろうと心配になった。
いくら一国の王とはいえ、あの善人とは言えない閣下と、政略結婚をするのは、お辛いのではないだろうか。
(……まあ、でも、宰相閣下なら、陛下が愛人を持とうと一切気にしないだろうからな……)
むしろ『それで陛下が満足されるならご自由に』などと言い放って、積極的に愛人を推奨しそうである。
(もしかしたら、もう、そういう話がついてるのかもしれないよな。閣下も下手な恨みは買わない方だもんな)
結婚は宰相と、愛ある家庭はオリオール卿と。
……という話になっているのかもしれない。
俺はそこまで考えて、一人納得した。
宰相は愛人絶許だと思います。