番外編:女王陛下のノロケ話
わたしは反省していた。
あれは、ラシェドが、わたしにオリオールとの結婚を勧めてきた翌日のことだ。
オリオールから、『わたしがオーリを愛している』という謎の誤解話を聞かされた後、わたしは怒り狂ってラシェドの部屋に飛び込んだ。
それから、怒りのままに、泣きながら二度目の告白をした。
限界が来てしまって何もかもぶちまけた、といってもいい。
わたしはラシェドが暗殺されかけたことで ─── さらにそれが自作自演だと発覚したことで ─── 精神的にかなり参っていたし、その上オリオールとの結婚を勧められて、さすがにヤケになっていた。
だから、ラシェドが、思い知ればいいと思った。
ラシェドだって少しくらい嫌な気持ちになればいい。
わたしがまだあなたのことが好きなんだと知って、こんなに執念深く想われているんだと知って、ラシェドだって少しくらい怖がればいい。
今さら、この人にうんざりされようと、避けられようと、知ったことじゃない。どうだっていい。
あなただって、あなたが死ぬかもしれないと思ったときの、わたしの怖さの、ほんの少しでも味わえばいいんだ。
心の隅で、そう思っていた。
でも、実際には、ラシェドは、顔を引きつらせることも、薄笑いでごまかそうとすることもなかった。
彼は、ただ、呆気に取られていた。
自分の耳で聞いたことが、うまく理解できないという顔をしていた。
わたしは、ラシェドがそんな顔をするのを初めて見た。
いつだって、何かもがわかっているという顔をしていたのに。
真実、彼が知らないことはないように思えた。戦場であっても、王宮であっても、彼が先を見通せないことはなかった。彼はいつも、わたしの五歩も十歩も先を行っていて、わたしの安全まで確保して置いてくれるような人だった。
そのラシェドが、今は、作り笑いを浮かべることもできないように見えた。
裏切りの宰相と呼ばれても、余裕たっぷりな薄笑いを崩さないでいた男が、徐々に表情を消していく。
ついにラシェドは、困り果てた瞳をして、たしなめるようにいった。
「私のような男に、そのようなことを、軽い気持ちでおっしゃってはいけませんよ。……お忘れですか、陛下。私は、かつて三度主君を裏切った男です。いつか……、貴女の信頼に背く真似をするかもしれない。貴女に安寧を差し上げると嗤って、貴女を玉座から引きずり下ろし、狂った箱庭に閉じ込めるかもしれない。……今ならまだ、すべてを忘れて差し上げます。ええ、聞かなかったことにいたしましょう ─── ッ」
最後にラシェドが息を詰まらせたのは、わたしが、文字通り、彼の胸に飛び込んだからだ。
それは愛の抱擁というより、さながら、槍を構えて突撃する重騎士のようだったと思う。
わたしは、ラシェドを力いっぱい抱きしめていった。
「オーリがいったことは本当だね。あなたがこんなに馬鹿な人だなんて知らなかった」
わたしが泣きながらそういうと、ラシェドは、諦めのような息を一つ吐き出した。
それから、彼の腕が背中に回り、痛いほどの力で抱きしめられた。
軽い気持ちどころか、好きの重さと執念深さなら、誰にも負けない自信があるのに。
この人はちっともわかっていなかったのだ。
※
それから、わたしとラシェドの間にあった長年の誤解が解けた後、わたしはもちろん彼を問い詰めた。
わたしがオリオールが好きだなんて、どうしてそんな誤解をしたの、と。
するとラシェドは、死ぬほど気まずそうな顔をして答えた。
─── 我が君は、オリオールに、髪を撫でてもらうのがお好きでしょう。
要するに、彼は、わたしとオリオールが、恋人のようにいちゃいちゃしていると思っていたらしい。
わたしは反省した。
ラシェドのことが好きっていったじゃない……という釈然としない気持ちも根深くあったけれど、それはそれとして反省した。
わたしにとってオリオールは、たとえていうなら父兄である。お母様と同じほどに、わたしにとって保護者的存在である。
だから、いくら甘えようとも、撫でてもらおうとも、何とも思わなかった。
子供の頃に戦場へ送られて、敵と死、飢えと死、病と死、血しぶきと死……という少々殺伐とした生活環境にいたために、オリオールに甘やかしてほしかった、といった正直な気持ちもある。
だけど、今やわたしは、一国の女王、そして恋する乙女なのだ。
ラシェドを誤解させるような行動は慎むべきである。
そしてその分ラシェドに撫でてもらうのだ。恋人だから! 恋人だからね!
そう、今のわたしはラシェドの恋人なんだ……。なんていい響きだろう。世界中から羨まれてしまうかもしれない。あんなに格好良い人はほかにはいないので。
わたしがそう呟いたところ、マリーがなぜか「ハッ」と失笑したけれど、ラシェドは間違いなく世界で一番格好良い。ここは譲れないところだ。
だけど、わたしがそう力説すると、マリーは今度は「世界中から憐れまれるの間違いでしょ」と鼻で笑った。
マリーはどうしてなのか、一向にラシェドの格好良さを理解してくれない。
「本当にいい男なら、あんたを無駄に泣かせたりしないわよ。あたしは、断然、オリオール卿のほうがお勧めだったわ。あんな人でなしの悪人顔じゃなくてね」
「もう、マリー、親友の恋を応援してよ。長年の片想いがようやく実ったんだよ?」
「そうよね。長年する必要のない片想いで悩んでいたんだものね。哀れすぎて涙が出そうだわ」
マリー説得への道は遠かった。
※
わたしが政務の合間を縫ってお見舞いに行くと、ちょうどアメリアが診療を終えたところだった。
わたしの腕の恩人でもあるアメリアは、実に淡々といった。
「見舞いでしたら短時間で済ませてください。陛下がいらっしゃると、宰相が安静にしませんので」
「何をいうのですか、アメリア。私は寝台から一歩も出ることなく、石像のようにおとなしくしているではありませんか。 ─── 我が君、ようこそいらっしゃいました。医官殿のいうことなどお気になさらないでください。いくらでもいてくださって構わないのですよ。ええ、ええ、我が君のお姿を目にできることこそが、私の至上の喜びなのですから」
「ご覧ください、陛下。この頭に湯でも沸いたようなうろんな言動に加えて、いささか体温の上昇もみられます。安静とは程遠いのがお判りいただけますね」
「あ……、はい……」
わかる。
なぜならわたしの心臓もばくばくいっているので。わたしの体温もたぶん上昇している。
最近、ラシェドが、平気で甘い言葉を口にするので、とても心臓に悪い。
とろけるような甘い微笑みを向けられると、あまりのきらきらとした輝きに、わたしが砂になりそうである。指先からさらさらと砂に変わっていく気がする。何というかもう、人の形を保っているのが難しい。熱された飴のようにどろどろと溶けていきそうだ。
せめて人間でいたい。頑張ってほしい、わたしに。
わたしはぎくしゃくと椅子に腰を下ろし、ちらりとラシェドを見つめた。
今日こそは、ラシェドに、撫でてほしいとアピールするつもりだった。
オリオールに頼まなくなったので、わたしは甘やかされることに飢えていた。
ラシェドにしてもらうのだって、たいしたことじゃないはずだ。
だってオリオールはしてくれた。オリオールには頼めた。
オリオールに甘えるのは、ただ温かくて心地よいだけだった。
こんな風に、全身が熱を帯びているようで、いたたまれない心地にはならなかったから。
「我が君? ……どうかなさいましたか? 何か問題でも?」
ラシェドが、心配そうに私の顔を覗き込む。
ちかい。
とても近い。
凍えた薄青色の瞳が、今は案じる色を浮かべて、わたしをじっと見つめている。
案じるようでいて、わたしを探るようでもあった。冷徹に、隠し事を暴こうとしているようでもあった。それでいて、奇妙な熱がこもっているようであった。
ラシェドの底知れない瞳が ─── ちかい。
わたしは、勢いよく立ち上がった。
「ああ、忘れてた! 急ぎの仕事があったんだった。ごめんね、また来るから!」
「我が君? ……御前会議で何かございましたか? どうかおっしゃってください。私は陛下の軍師です。我が君の御心を苛む者は、私が一人残らず退けてみせましょう」
わたしを苛んでいるのは……、わたしの心臓を困らせているのは、あなただよっていったら、この人はどんな顔をするだろう。
わたしは胸の内でくすりと笑って、それから女王としてにっこりと微笑んだ。
「大丈夫だよ。心配いらない。何かあったら話すから。ラシェドはゆっくり休んでね」
「おや ─── 、悲しいですね。宰相に隠し事をされるとは、つれないお方だ。……やはり、私が復帰すべきですね」
「許可できません。どうしても仕事をなさりたければ、寝台の上ででもどうぞ」
アメリアが冷たくいう。
ラシェドは嘲笑うように返した。
「申し訳ありませんが、医官殿。私に命令できるのは医者ではない。我が君ただお一人です」
「ラシェドは絶対安静ね。アメリアのいうことをよく聞いてね」
ラシェドが、冷ややかにわたしを見上げる。
わたしは、笑顔で押し切った。
「あなたが死にかけたことを、わたしはちっとも忘れてないからね」
ラシェドが、不承不承頷く。
「……かしこまりました。すべては、我が麗しの女王陛下の望みのままに」
麗しの女王陛下。
その一言だけで、心臓が暴れそうになるのを、わたしは必死で抑えつけて、部屋を出た。
ずるい。前は、そんな風にいったこと、なかったくせに。
顔が赤くなっているのが、自分でもわかっていた。
わたしが育った騎士団は男所帯だった。異性に慣れていないなんてことはない。破談になったけれど、婚約者がいたことだってある。破談になったけれど、お付き合い経験だってある。
だけど、でも。
わたしが好きな人が、わたしを見て、あれほど甘く微笑んでくれたことは、今までになかった。
─── ……つまり、わたしには、耐性がないのだ。
オリオール相手にするように甘えてみせるなんて、とてもできない。わかってしまった。
だって彼は兄でも父も出ない。わたしの特別な人だ。
あぁ……、好きな人と恋人になるというのが、これほど大変なことだとは思わなかった。
砂になりそうだし、溶けそうだし、心臓がおかしくなるし……。
普通でいることさえ、難しい。
ラシェドが格好良すぎて、死にそうだ。
ちなみに王宮でダントツ人気なのはいうまでもなくオリオールです。
女王と宰相が婚約した暁には悪辣宰相の手による政略結婚と思われること間違いなしです。