ゴブリンと魔女の心臓
ルルーは「都市」の中央に空いている巨大な穴の前に立たされている。その穴は古来より「魔女」として裁かれた女を永遠に消滅させるための、いわば生きたゴミ箱として使われてきた。脈動する肉の地面に空いた穴は、象を百匹でも丸呑みできるほどの大きさがある。
後ろ手に固く縛られたルルーは、穴の底を見透かそうとやや身を乗り出すが、内側からなまぐさい気流がふきあげてくるその先は、闇に呑まれて見えない。
「魔女を落とせ!」
穴の周りに遠巻きに集まったゴブリンたちは、口々にルルーを罵った。剣をもった大ゴブリンがその切先をルルーの背中に突きつけ、踏み板の上へとルルーを追いやった。
同じゴブリンとしてこの「都市」に生まれ落ちたルルーは、一緒に下校した生徒や神話学の教師、近所の果物商のおばさんや、育ててもらった実の親までが、この生贄の儀式に目をギラギラさせて参加していることに、目の前が真っ暗になる気持ちがした。
「魔女を落とせ!」
ゴブリンたちの声が何度目かの高まりを迎えたとき、ルルーは自分から踏み板を踏んで巨大な穴の上に身を投げた。身を投げてしまうと、時間の進みがコマ送りのように遅くなり、自分を幽体離脱して眺めているような気持ちになった。さっきまで耳を聾するほどだった怒号は、透明な膜を一枚隔てたように遠くに聞こえた。
ルルーの体は重力に従って闇に吸い込まれていった。ルルーからみると、それは青い光の円が急速に小さくすぼまっていき、やがて穴の柔らかな内壁がルルーを抱き止めるように受け止め、穴の道ゆきが曲がると、視界は完全な暗黒に転じた。視界がゼロのままもんどりうつ穴の内壁に揉まれることは、恐ろしいことだった。しかし、やがてぼんやりと赤く光るドーム状の肉室に飛び出た。
肉室の壁は心臓の心室のように大きく脈打っていた。その中央には地面と同化した本物の魔女がいた。
「タランチュラ」
砂漠の民である砂人たちの巨大な石造りの図書館には、そのとてつもない<有機体>に関する膨大な著述がおさめられている。「タランチュラ」──それがある種の都市であることがわかったのは意外なほどあとのことだ──の発見は少なくとも400年前にまでさかのぼると言われている。当時、砂漠の地を治めていた砂人たちは、いまだその初発形態に近いと思われる「タランチュラ」をはじめて水平線の彼方に認めたとき、それをまれに人里へ降りてくる神として崇めた。
しかし、やがて砂人たちの間に科学的なこころがめばえると、徐々にその巨大さを増しつつある「タランチュラ」を、冷静にひとつの、ないしひとまとまりの<有機体>として観察する視座が生まれた。200年前、望遠鏡の発明はその発展を急速に促した。それまで難攻不落、上陸不可能とされた「タランチュラ」を遠隔から詳細に観察できるようになったのである。
砂人の中でももっとも優秀とされる才能がその研究に吸い込まれていき、今では「タランチュラ」が甲殻類の殻や哺乳類の骨、そして大量の筋肉質や脂肪分で構成された、「都市」であることがわかっている。「タランチュラ」は400年前には中規模のオアシスほどの大きさだったが、今では端から端までラクダで一日かかるほどの大きさに「成長」している。そのような大きさであるにもかかわらず、「タランチュラ」は近くで見ると巨大なイソギンチャクのように見える足盤でズルズルと、人間が歩くくらいの速さで砂漠をさまよっている。
150年前の研究により、「タランチュラ」は石油を探索するために移動していることが明らかになった。ドリル状の突起が先端にある管を何本も地中深くさし込んでは、砂の中のご馳走をあさっていたのだ。
「タランチュラ」の上には、有機物だけで構築された都市が乗っている。そこに住む生物は砂人たちの半分くらいの身長のゴブリンと呼ばれる亜人たちで、すでにある水準の文明に達している。ゴブリンたちは着物を着ておらず、常に背むしのように背中を丸めている、褐色でブヨブヨの皮膚をもった生き物である。
砂人たちの「タランチュラ」研究は当初、正体不明で予測不能の巨大生物「タランチュラ」から、砂人たちを防衛する安全保障上の目的で始められたものだ。しかし、ゴブリンたちの文明は遠隔から観察した限りでは、いまだ中世の水準にあるようである。「タランチュラ」が自動的に行なっている高度な都市運営の精巧さに比較して、ゴブリンたちが自覚的に行なっているのは、低級な錬金術のごときものであった。
✳︎
魔女はルルーに語りかけてきた。それはルルーの頭の中に、まるで忘れていたセリフが「思い出される」ように直接浮かびあがった。
「よく来たね、かわいいわたしの分身よ」
そういうと有機質の地面と一体化した魔女は、巨大なウミウシのようにルルーへ近づいてきた。
「待って。分身ってどういうことなの?あなたはわたしの運命を知っていたの?」
「知っていたさ。というより、覚えていたのさ。わたし自身の過去を」
ルルーは魔女の奇想天外な回答に当惑した。
「わからないかい?まあ当たり前だろうね。だから新しいのが来るたびにこの話をするようにしている」
「この話?」
「そう、まあ冥土の土産に聴くがいいよ」
そういうと魔女は話し始めた。
✳︎
魔女はもともと砂漠の向こうに住む平野の民プレーリーズたちの作った小さな町に住んでいた。魔女の元の名前はユーリといった。その地域は進んでいて、大学というものが早くもでき始めていた。ユーリの父は最初の大学教授のひとりだったが、錬金術にもご執心だった。
ユーリは父の研究室にしばしば迷いこんだ。グロテスクな芋虫を何匹も飼っている籠や、得体の知れない怪鳥の頭骨、目玉がいくつも浮かんだガラス瓶、何に使うのかさっぱりわからない分度器や定規や歯車のお化けのような器具たち、そんなものに囲まれたその暗室は、なまぐさい臭気がいつもこもっていた。
ユーリは優秀な娘だったが、錬金術にはひとまず理解が及ばなかった。そんなある日、町の図書館でユーリはボロボロの古書を見つけた。表紙には魔法陣のようなものの中心に巨大な目が描かれており、中には宗教的な儀式に関係がありそうな図がいくつも収められていた。
図書館の本は持ち出し禁止だったが、ユーリはその古書を盗み出した。心臓がバクバクした。盗んだ理由は、そこに書かれている明らかに見たことのない文字がなぜか「読めた」からである。その文字はこう言っていた。
「汝千年の眠りを解き放て」
父親にはもちろん秘密だった。その本には決して本のことを他言してはならない旨も記してあったのだ。本の内容は主に錬金術の秘密に関するものだった。そこには「賢者の石」の作り方が記されていた。しかし、最後のページだけが何者かにより破かれていた。
「賢者の石」は意外に素朴な材料をかけ合わせて作るものだった。ただ王水のように、その混合比率だけが恐ろしく厳格だったのである。ゆきあたりばったりにそれらの素材をかけ合わせたとしても終生偶然その比率に行き着くことはありえないだろう。その恐ろしく厳格な混合比率を守るためには、機械のお化けが役に立った。
「賢者の石」は出来上がった途端に光の爆発のようなものが起き、その光に飲み込まれたユーリは、自分の中で何かが変わってしまったような気がした。なにか非常に感動的な物語を読んだ読後感のような、聖なる雰囲気が自分のこころにあった。
ユーリは魔法使いになったのだった。ユーリは無邪気に空無から生き物を誕生させた。ユーリはその生き物を「ゴブリン」と呼んだ。ゴブリンたちはユーリの考えていることがわかるほど優れた頭脳は持っていなかったが、創造主であるユーリを強くしたった。
しかし、気味の悪い生き物が町中に続々と増えて行くのを見たひとびとは、ユーリを忌み嫌うようになった。ユーリは生き物を作り出す魔法の力で、自立した生活を送るため、町から出ていった。そして、「タランチュラ」の初期形態を作り出した。それはちょっとした絨毯ほどのものだった。その上に乗ってユーリと何匹かのゴブリンが、食べ物のなる木や飲み水の湧く泉を探索したのである。
徐々にゴブリンは増えていった。ユーリの孤独を癒す相手が欲しかったのである。ゴブリンの頭数が増えるほどに、「タランチュラ」も拡大していった。絨毯ほどのものが、一件の家ほどに「成長」し、やがて楼閣のようになり、無秩序に増設した巨大な城のようになり、やがて途方もない「街」になっていった。
そこにはゴブリンたちの学校もでき、初歩的な教会も設立された。ゴブリンたちは独自の文字文明を発達させ、書籍も発行されるほどになった。その「タランチュラ」の中で、ユーリはまさに「世界の中心」として、ゴブリンの文明を見守っていた。
ところがあるとき、ゴブリンたちの間で奇妙な疫病が流行った。伝染性があり、潜伏期間が極めて長く、また症状も皮膚が溶けていくという致死性のものだった。ゴブリンたちはユーリの魔法にすがった。しかし、ユーリがいかなる魔法を使おうとしても、その疫病を止めることはできなかった。
かわいい小人のようだったゴブリンたちの形相が日に日に鬼のように変化していった。そして、ゴブリンたちは評議会でユーリを「魔女」として「タランチュラ」内部の地下牢に落とすことに決めた。
「そうしてここに来たワケさ」、魔女はルルーに言った。
ルルーはまるで自分自身がここに来た経緯を聴いたように思った。しかし、そういうと魔女ユーリはこれはわたしの記憶だ、といった。
「わたしは「タランチュラ」に吸収されていった。今こうしているようにね。吸収されても不思議と意識はしっかりしていた。この「タランチュラ」には肉と繊維組織でできた天然の電話網や電線がたくさん走っているだろう。それは実は、「タランチュラ」自身の神経組織であり、吸収されたわたしの神経組織でもある。わたしはそれを通じて、「タランチュラ」全体の話を聞いてたわけさ。わたしはこの薄暗い胎の中でたくさんのことを思い出した。少女時代のこと、魔法を覚えて町の人たちから忌み嫌われたこと、ゴブリンたちと楽しい旅をしたこと、疫病のこと。そして、ひとびとの「話」に聞き耳を立てていたときあることに気づいた。どうも、わたしそっくりのゴブリンがどこかにいるらしいってね。そのゴブリンのお父さんも「タランチュラ」の学校の偉い先生らしい。その子はやっぱり錬金術を覚えて「賢者の石」を作った。そして案の定「魔女」として槍玉に挙げられた。そして、かつての「魔女」がそうされたようにこの地下牢に叩き落とされたのさ。わたしはその子を殺して心臓を食べた。心臓にはわたし自身の若い頃の感情がたっぷり濃縮されていたよ」
「わかってきた」ルルーは言った。「つまり、「タランチュラ」はあなたの生前の思い出を際限なく繰り返すむなしい夢の劇場都市なのね。その主人公、つまりあなたの分身であり、わたしでもあるそれの心臓を食べて、「タランチュラ」と一体化したあなたの心はしばし若返る。それが「タランチュラ」が何百年も生き続けている理由なのね。自分自身の背中に生える食べ物を食べ続ける動物のようなものね」
「そういうわけだよ。さあ大人しく心臓を食べさせな」
ユーリがかつて通っていた図書館のあの古書がはさまっていたところには、一枚のページが置き去りにされていた。そこには選ばれたものにしか読めない文字で、「ただし、この賢者の石を使うものはそれぞれの魂の形に応じて永遠の闇をさまようだろう」と書いてあった。