幸せですか?いいえ。幸せです。
人々は、特に子供を相手にする時の大人は、無責任にこう口にする。
「今努力しないでサボると、将来不幸になるよ」
そもそも、努力しない=不幸になるという無根拠な台詞をよく言うなと思うけども、とりあえず置いておこう。
努力すれば幸せになれると言わないのも、狡いとは思うが置いておこう。
「幸せ」とは何か……一般的には幸せは努力の先にあるべきとされているが、では、そもそも幸せとは何なのか。
私個人としての回答は、人より優れていると実感することである。それはお金であったり、地位であったり、女であったり、家族であったり、知り合いであったり……たまにいる、「俺、俳優の何々と中学のころから友達なんだぜ」みたいなことを生き生きと語る人間とか……なんにせよ、優越感こそ幸せであると考えている。
これに対して否と言った知り合いがいる。
「いやいや、野球好きな少年はバット振ってるだけで幸せだろ」
それはある意味間違いではないが、振る根本の理由は、試合で球を打ち返す輝かしい未来を想定してのことで、三振するために素振りをする少年はいないだろう。
それで、結果を残して嬉しい、幸せなのは、結果を残せなかった者がいてこそなのは間違いない。
なぜなら、皆が皆、敵も味方も結果を残していたら、それはもはやなにも結果を残していない。
ほとんどいない、「昨日の自分という人間より、今の自分が優れている」ということだけで優越感=幸せを感じれる人間は、もはや人間ではない。
なんだかんだ、ノーベル賞や芥川賞や国民栄誉賞に価値を感じているので、貰えれば喜ぶものだし、それらを辞退した人間も、辞退する行為自体に他者への優越感を持っているように見える。
少なくても、賞自体に価値がないと思っている人間はそうそういない。
さらには、「数学をするのに理由は要らない」みたいな人間は、言葉を選ばず言うと、狂人である。
たぶん、三大欲求に数学が混じって四大欲求みたくなっている。理解できないし、皆無なので私は無視することにするが。
ようは何が言いたいかと言うと、普通の人間は誰かに対しての優越感で幸せを感じるだろう。……と、とりあえず私は個人的に回答を出した。
ならば、努力とは人より高いところに登ることではないか。
一つの山があって、より良い気色を見るために皆が皆登山を始める。体力の有無、そもそもスタート地点が違ったりとか、ロープウェイと徒歩とか条件は異なるけども、とりあえず山を登ることこそ正義だ。
で、登りきった後で後ろを見て、下の気色……自分より低い者たちを見て、俺は頑張った結果今があるとか言って、まぁ、幸せなんだろう。
たちが悪いのは、この山が様々あって、人数の多さで高さが決まる山や、暴力の強さで決まる山があれば、当然のように虐めは娯楽になり得る。
で、現在私は全く幸せではないのだけれども、なんでかと言うと。
普通は、山を登っているときに他の山は見ないのだろうけども、私は知ってるからというか。
そもそも、努力をする理由は、幸せになるためである。
だが、努力しなくても登れる山はある。
むしろ、努力をして登る山は幸せになれない。その手の山は高すぎる。
たとえば、人と喧嘩をして、相手と自分だけしか登っていない小さな山で勝てば、それはもう間違いなく幸せであろう。
だけど、日本中の学生と競って、もし全国模試で二位をとったとしても、一位の存在を知っていれば別に幸せにはなれない。しかも、遂に一位をとったとしても、今度は舞台が世界に移るだけである。アインシュタインやダヴィンチになれれば良いけども、それは私にはまず無理でしょう。あぁ、努力の先に幸せはなかった。
……では流石に、ちょっと希望が無さすぎる。
私的には優越感=幸せなのだけれども、他の人はどうなのかと。
それを参考にすれば、違う見方が出来るのではないか、と。
実に現代の若者らしく、ググってみた。検索:幸せかどうか
1.数字で見る方法……質問に答えていって、幸福度を数値化。結果的に、私はやはり不幸だった。違う、そうではない。幸福かどうか知るために幸福度の数値化ってのがもう幸福でない。
2.幸せになるための20の方法……ようは私の山理論で、登山をして上を見るなということらしい。上を見なくても感じていたら解決にならない。
3.ブログ……今の自分が幸せであるとするらしい。花見をしようと思っていたら雨が降ってきた。花見に行けなくて運が悪い、ではなく、行ってからでなかったからでなくて運が良かった。このように幸せかどうかも考え方次第らしい。それ、2と変わらない。
結局、本当は幸せではないけども、幸せだと納得して生きている感じがある。
人と比べるなって書いてあるすぐ下に、アフリカの子より~とか、今より痩せれば~とか書いてあるのはそういうことだろう。自分より上とは比べるなっていう……見えない不利をするのはそれ自体が不幸ではないか?
これはこれで、みんな本音は不幸という絶望で終わってしまうので、次だ。
昔読んだ4コマ漫画に、豚が主人公の宗教系のものがあった。豚と仏陀をかけてたのかな。たしか。
で、不幸でなくなると幸せでもなくなるっていう話があって。
谷がなければ山もない、ということなのだけれども、これ、別に谷は他人に押し付けてしまっても何ら問題ない。
であれば、押し付けられた谷底がどこかにあるだろうし、そこは間違いなく不幸でしかない。
日本において谷底と言えばどこかと聞かれれば、おそらくホームレスかな。
では、ホームレスは不幸なのかと。
もちろん、不幸な人が多いだろうけども、全員がそうかと言われるとちょっと自信がない。
もしこれでホームレスが幸せであれば、谷底でも幸せになれると言うことだ。
過去ホームレスであった人のブログやら小説やらは、基本的に「昔と違って布団があることが幸せ」とか、「ホームレス時代は辛かった」といったもので、私が知りたいのは、ホームレスがホームレスであるときに、(当然、たまに酒が手に入ったとか、雨が降らなかった今日は幸せとか、そういうレベルではなく)ホームレスは幸せであるのか?ということ。
これでもしホームレスとして幸せを感じれれば、何かが変わる。
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