第三話 忍者、詠唱なしで空を飛ぶ
たっぷり味わってから俺は離れた。
女――フリージアとの勝負に勝ち、その”見返り”に満足して立ち上がる。
「……ハァ、ハァ……くっ、こんなのって……!」
フリージアはまだ立ち上がれない。
ちょっとばかり刺激が強すぎたか。身体のあちこちがびくんびくん痙攣している。
怒りと恥じらいが入り混じって、顔が真っ赤だ。
「とりあえずこんなもんか」
口をぬぐって俺は言う。
「前払いは十分にいただいた。契約成立だな」
「くっ、この……!」
「そんな目で見られても困る。『最後の一線』は超えずに済ませてやったんだ、感謝されてもいいぐらいだと思うんだが」
「よくもそんなセリフを、のうのうと……っ!」
「いや事実だろう? 一流の戦士が束になっても敵わないあんたに、俺は楽勝した。その俺が力を貸すんだぞ?」
「うぐっ……」
「しかもこの世界は死ぬか生きるかの大ピンチなんだろ? それを救う見返りがこの程度なら、むしろ格安なはずだ」
「うぐぐっ……それはそうかもですが……」
悔しげな様子のフリージア。
そんな顔もなかなか可愛い。
それでこそ『後のお楽しみ』が増えるというものだ。
「さて、それじゃ行こうか。連れていってくれ」
「行くってどこへ?」
「世界を救うんだろう? この洞窟に居たままじゃ救うものも救えない」
「ま、待って……すぐには立てない……」
その場から歩き出す俺。
フリージアはあわてて立ち上がろうとするが、足腰が自由にならないようだ。
ま、そりゃそうか。
彼女には忍者仕込みのテクニックを存分に味わわせてやった。意識があるだけ大したものだろう。
房中術――異性を手込めにするスキルは、何もくのいちだけの特権じゃない。
「く、屈辱だわ……精霊教会で百年に一人の逸材と言われたわたしが、こんな……」
「ほれ。手を貸してやるから早く立て」
「無用です! 自分の脚で立てます! ……くっ、力が入らない……!」
「仕方のないやつだ。じゃあここをこうして……こう」
フリージアの上半身を起こす。
背中に回ってツボを探る。
ごきっ。
「ひゃうっ!?」
「どうだ? 立てるか?」
「あなた何をしたの!? いま『ごきっ』って嫌な音が――」
「いいから立ってみろ」
「そう言われても簡単に立てるわけ――あれ?」
すっくと立ち上がるフリージア。
「ど、どういうことなの? さっきまでぜんぜん力が入らなかったのに……」
「活を入れた」
「か、かつ?」
「回復魔法みたいなもんだ」
フリージアが目を見開く。
「そんな……詠唱もなしでこんな高度な回復魔法を?」
「初歩的な技術だよ。自慢できるもんじゃない」
「しょ、初歩的……? これが? 信じられない……あなた何者なの……?」
「忍者だ」
俺は歩く。
フリージアはあわててついてくる。
うっすら届く光をたどって進んでいく。
やがて洞窟の入り口に出る。
「おう……!」
眼下に広がる世界。
森と山。青い空に白い雲。
植生が違う。地質が違う。
元の世界と似ているが、明らかに『別の』世界が広がっている。
「いいな。これは気分が上がる」
魂が震える。
これが。この世界が。
俺が身につけてきた『技術』を、思う存分に発揮できる舞台か。
力を隠す必要がない。
弱いフリをする必要もない。
どこの誰に遠慮する必要もない。
あるがままに生きられる理想郷……!
「うーん……神様って、本当にいるもんなんだなあ」
「ちょっ、待ちなさいよあなた……!」
フリージアが追いついてきた。
ずいぶんと息が切れている。
「ああすまん。思わず『本気で』歩いてしまった」
「あ、あれが『歩き』ですって……? 早駆けの間違いではなく?」
「ついてこれなかったか?」
「ついていけます! ちょっと本気さえ出せば!」
「ならいい」
俺は目を細めて周囲を見渡す。
「それで? どこへ行けばいいんだ?」
「ええと……ここは精霊術者の霊力が最も高まる、スバルトラントの辺境の地で……いちばん近くの人里までどれだけ急いでも丸二日……そこからパリーズの都までの距離は……」
「説明が長い。方角だけ教えてくれ」
「ええと……だいたい西の方?」
「時間はどのくらいかかる?」
「一流のガイドと護衛をつけた状態で、普通であれば二十日ほど」
「途中に障害となりうるものは?」
「最悪に危険な魔物がうようよと。土地柄もとても険しいから、ひとつの失敗がすぐ命取りになります」
「ふむふむ、なるほど」
目新しい異世界の景色を堪能しつつ、俺は検討する。
「ねえあなた、言っておくけれど」
「なんだ?」
「この洞窟がある『オルプス山脈』は、世界で最も危険な場所のひとつです」
「そうなのか」
「山すそに広がる魔の森を抜けて、まずはパリーズの都に戻りたいのですが。そう簡単にはいきません」
「ふむふむ」
遠見の術を使って1キロ四方を索敵する。
なるほど……見たこともない凶悪げなクリーチャーたちに、毒々しい沼地や深い渓谷。
普通に進んだら、確かに困難な道のりだろう。
普通に進めば、の話だが。
「フリージア。ちょっとこっちに来い」
「な、なんです? まさか、またさっきのように乱暴する気じゃ……」
「それはまた今度にする。いいから来い」
「あっ」
フリージアを抱き寄せた。
彼女の顔が真っ赤になる。
「ちょっ、何をするのです!?」
「こうする」
「ひゃっ!?」
跳んだ。
洞窟のある岩山の中腹から。
眼下に広がる、生い茂る緑の森へと。
標高差、ざっと千メートル。
「ひぎゃぁああああああぁぁぁぁぁぁぁああ!?」
悲鳴。
俺が抱えているフリージアの口から。
「死ぬ死ぬ! 何の詠唱もなしで飛び降りたら落ちる死ぬ死ぬぜったい死ぬ!」
いや死なない。
岩肌を蹴って跳躍。
衝撃を五体でしっかり吸収して、さらに跳躍。
次は枯れ木の枝を蹴って跳躍。
次は露出している赤土を蹴って。
さらに次は、ふたたび岩肌を蹴って。
「う、嘘でしょおおおおおおお!?」
半泣きでフリージアが叫ぶ。
「降りてる降りてる、なんか普通に滑走!? してる!? 何なのこれ!?」
「まあ技を極めればこのくらいは、な?」
「『な?』じゃないわよ!? 何なのこれ頭おかしい、あなたホントに一体なんなの!?」
「忍者だ」
「だーかーらー! ニンジャって何なのよおおおおおお!」
悲鳴を無視して俺は跳ぶ。
これぞ異世界、これぞ自由。
水を得た魚のごとく、笑みを浮かべて俺は跳び続ける――