01
本文の中でBLを匂わせる表現が出てきますが、名前付の登場人物は全員「ノンケ」です。
悪ノリで誤解されるようなことをして楽しんでいるだけなので、期待しないでください。
「大久保課長、おはようございます」
「あぁ、おはようございます」
早朝のオフィス、次々出勤してくる社員たち。
都内某所にある土方コーポレーションの人事部課長を務める大久保大和(30)の朝は早い。
毎朝7時にデスクで本日のスケジュールを確認する大和の楽しみは、お気に入りのドリップコーヒー片手に新聞を読むこと。生き馬の目を抜く世界に身を置く商社マンにはビジネス系新聞が欠かせない。現在は人事部に在籍しているが、将来的に上層部の思惑通り役員秘書になったとしても、古巣の営業部で第一線に復帰したとしても、日頃からアンテナを張っておくことは情勢に乗り遅れないために必要なことである。時には先手を打つため、時には起死回生の策講じるため等、何かを判断し決断を下す場合、いかに他者より多く情報を持っているかで勝負が決まる。しかし、殺伐とした世界に身を置いていると人間らしい心が失われていくような気がして、大和の癒しは、専ら人間くさい事件やほのぼのとした地域情報が掲載されている地元紙の地域版を読むことであった。
今朝の地域版には、「怪我の療養で滞在した孫息子(17)の許嫁(10)があまりにも可愛くて、実の孫娘のように溺愛したら孫息子に怒られた」というエピソードが寄せられていた。他にも、「幼い子が『月にうさぎがいるのか?』で揉めて女の子が泣いてしまい、男の子が必死に宥めているうちに二人とも眠ってしまった」とか。
「やはり、ほのぼのとした記事は癒されますなぁ~」
なんとも微笑ましい日常のひとコマに、大和はニヤニヤ顔全開でコーヒーをすすった。
至福のひとときが終わる7時半頃、これからやってくるであろう人物のためにホットココアを用意していると、誰かが近づいてきているのか、段々ざわめきと歓声が大きくなっていく。ひときわ大きな歓声が聞こえると、そこから逃げるように男が入ってきた。
「まったく、なんだってこんな早朝から人がたくさんいるんだ!」
男は悪態をつくと、大和の隣にドカッと座った。
「おやおや。今朝も相変わらずご機嫌斜めのようですね、副長」
大和が用意していたマシュマロ入ココアを出すと、副長と呼ばれた男はマグカップを両手で持ちフーフーしながら飲み始めた。その仕草はBLのウケを彷彿とさせる可愛らしさがあるが、容姿端麗、長身で程よく鍛えられた男らしい体躯の「副長」は完全なノンケである。
「『相変わらず』で申し訳ありませんね、局長。人が少ない時間を狙って早朝出勤したのに、これでは落ち着いて仕事できないですよ」
「仕方ないですよ。告白してくる女性に『許嫁以外の女性に興味ないから』なんて断るから、副長のことを『純愛王子』とか『溺愛王子』なんて言って、色々盛り上がっちゃってるんです」
「それだけじゃないでしょ。5年前のあの日、局長が私とデキてると誤解されるようなことするから……。ご存知ですか? 一部コアな趣味の方々の間で、我々をネタにしたBL本が流行ってるとかなんとか……」
「副長」は、不名誉な噂を作った「局長」に恨みごとをぶつけた。
副長と呼ばれた男は、内藤隼人(27)。
「鬼の副長」こと新撰組副長土方歳三の別名と名前が同じことから、ごく親しい者だけ「副長」と呼ばせている。
土方コーポレーションに入社した当時、無駄に垂れ流している色気(本人無自覚)にあてられた女性社員らが業務時間内外にかかわらず行く先々で群がり、営業マンとしての業務に支障をきたす事態に陥ってしまった。これではビジネスマンとして鍛えるべきときに鍛えられないと危惧した当時の営業本部長が「上長が業務上必要と判断した場合、もしくは本人が必要に迫られて声をかけない限り、業務時間内における女性社員の接近を禁ずる」という異例の業務命令を出したことでようやく落ち着いた。おかげで隼人の周囲には男ばかりが集まるようになるのだが、恋愛対象が同性の社員からは隼人に近づきやすくなったと喜ぶ者もいて、隼人のお尻を露骨に狙う者が現れるようになった。
野郎相手なら最悪拳で解決してみせると息巻く隼人だったが、会社での暴力沙汰は自身の将来に影を差すことになると周囲に説得された。どうしたものかと頭を抱え、父方の3歳上の義従兄であり、大学の先輩でもあり、職場の先輩でもある大和に相談すると「大丈夫」のひと言で済まされてしまった。
「大丈夫って、その根拠はなんだよ。大兄ぃ」
「それはナイショ。誰がやすやすと手の内を明かすものか」
隼人は納得できないのか、疑わしげな眼差しを向ける。
「もし1週間で終息したら、俺の言うことを聞け」
「大兄ぃ、な、何を……?」
「俺の言うことを聞け、隼人。いいな?」
「う、うん……」
大和の自信たっぷりの言葉を完全に信用したわけではなかったが、どのみち隼人の手に余る状態だったので任せることにした。
そして、1週間後―――。
「マジか……」
隼人のお尻を追いかけていた社員A、男女構わず狙った獲物は逃さないと有名なダンディイケメンの社員B、隼人に「僕を抱いて……!」と頬を染めながら抱きついてきた社員C。これら要注意人物をはじめ悩みの種だった同性からのアプローチが、ある日を境にピタッと止んだのだ。
最初のうちは気のせいだろうと思っていた隼人であるが、人気のない廊下ですれ違っても尻を触られることがなくなった。
「だから言っただろう? 大丈夫だと」
「大兄ぃ、一体何をしたんだ?」
隼人は、有言実行で事態をおさめた大和の手腕に興奮してやまず、カラクリを教えてくれと大和に強請った。大和はのらりくらりと交わしながら人気のない階段に向かって歩いていく。隼人も後を追いかけるのだが、薄暗い階段の踊場に差しかかったとき、突然強い力に引っ張られ、気がつくと大和に壁ドンをされていた。
「痛ぇ〜。大兄ぃ、何するんだよ」
「……」
大和は無言のまま顎クイした。
一難去ってまた一難。せっかく同性からのアプローチから逃れられたと思ったら、まさかの乙女キュンのシチュエーション。隼人は、身を捩って大和の腕から逃れようと抵抗した。
「隼人、終息させたら俺の言うことを聞けと言ったよな?」
「はい……」
結局、自分よりもさらに体格の良い大和から逃げること叶わず、隼人は観念した。
「いいか、隼人。今から俺が言うことをよく理解し、実現しろ」
そう言って隼人を顎クイから開放したが、壁ドンは何故か両手壁ドンに進化していた。
「お前の父、俊輔さんが5年前の事件で亡くなられた今、内藤の後継はお前だ。社長であるお祖父様も高齢だから、一日も早く後継者たる器になる必要がある。お前は、今日からその覚悟を決めろ」
隼人は驚き目を見張った。
「だって、次代は大久保専務だろ? なら大兄ぃが……」
「親父は中継にすぎない。知ってるだろ、うちは親父の連子再婚だと。俺には内藤の血は流れていない。それと、『大兄ぃ』は卒業しろ。俺のことは、以後『大和』か役職名で呼べばいい。もしくは『局長』でいいぞ」
大和はニヤリと笑い、耳元に顔を寄せ更に声をひそめた。
「俺達の関係は周囲には絶対伏せろ。そして、身内の七光と言われぬよう自力で実績を作れ。俺は腹心の部下になってお前を守る。将来においては立派に参謀役を務めてやる。いいな?」
「わ、わかった……」
乙女キュンの耳ツブのせいか、思いがけず将来についての覚悟を諭されたせいなのか、隼人の心の動揺は大きかった。
その時である。
「あっ……」
女性の声が聞こえ二人が振り向くと、女性社員が驚いて立ちすくんでいた。彼女の脳内はリアルBLで激しく妄想中なのだろう、鼻血が出そうとブツブツ言って鼻を押さえている。
大和は、スッと表情を変え、色気を纏いながら彼女のもとに向かった。
「あなたは……、総務の女性社員ですね?」
「は、はい……」
ジリジリと壁側に追い詰めながら、相手の所属を確認する。
「貴女は私が誰だかご存知ですか?」
「営業1課の大久保主任……ですよね?」
距離を詰めた大和は、やさしく壁ドンすると妖艶な笑みを浮かべた。
「嬉しいですね。一介の営業マンのことを、総務の方が覚えていてくださるなんて……」
大和も隼人ほどではないが「縁無し眼鏡が似合う、エリート気質のイケメン」として女性社員から人気がある。実際目の前にいる彼女も、吐息がかかるほど近くにいる大和の色気に、頬を染めてポーッとしている。
このままうまく口封じできると判断した大和は、後ろ手にヒラヒラと手を振って隼人をこの場から去らせた。
「あの一件で『難攻不落だった内藤隼人が、ついに大久保大和の手に落ちた』とか、『許嫁一途と目されていた内藤の断り文句は、実はカモフラージュだった』とか、色々な話が流れて大変だったんですからね」
「それはそれは、光栄ですね。では、朝のご挨拶に最年少スピード出世した営業1課長殿の甘い唇をいただいてもよろしいですか?」
大和が顎クイから唇を寄せるフリをすると、何故か廊下でキャーッと黄色い歓声が沸き起こる。いつの間にか休憩室の入口には人だかりができていて、大和はわざと見せつけ観衆を煽ったのだった。
「はいはい、皆さん。朝から大騒ぎしてどうしましたか? 間もなく始業時間になります。こんなところで油を売ってないで、各自の部署に戻りなさいね」
パンパンと手を叩くと、観衆は蜘蛛の子を散らすように去っていった。
「おや? 営業1課長殿は行かなくてもよろしいのですか?」
「何を言ってるんですか。誠に不本意ながら、本日朝一番の予定は局長と同行だと知ってて言う台詞ですか?」
「知っていますよ。でも、キスを寸止めされて残念そうな顔に見えたものですから」
心身ともに、朝からグッタリする隼人であった。