老猫と少女
その老猫が少女の前に現れたのは、偶然だった。
たまたま通りかかった一軒の家。
その庭で、車いすに座りながら空を眺める少女を見かけたのである。
老猫は少女に近づくと、そのか細い足に顔をすり寄せた。
それに気づいた少女は、視線を落として老猫に目をやった。
老猫もすりすりしている動きを止め、少女を見やる。
お互いに見つめ合う一人と一匹。
しかし、少女は表情ひとつ変えずに再び空を仰いだ。
老猫はそんな少女の無反応を不思議に思いながら、ぴょんとその膝に飛び乗った。
秋の木枯らしが吹く寒い季節。
少女の膝にかけられた毛布が老猫の身体には心地よかった。
少女は、何も言わなかった。
身じろぎひとつ、しなかった。
老猫は、微動だにしない彼女がとくと気に入り、その膝の上で丸くなって、眠った。
※
老猫は、それから毎日のように少女のもとへと通うようになった。
少女は空を眺めるのが大好きなようで、毎日昼間には庭に出て空を眺めていた。
不思議なことに、少女には一切の感情を持ち合わせてはいないようだった。
なにかの病気なのだろうか。
しかし老猫には人間の病などわかるわけもなく、ただ自分のお気に入りの場所が確保できたことが嬉しかった。
少女は、陽が暮れると唐突に動き始め、家の中へと戻る。
老猫は毎回それで起こされて膝の上から落とされる。
すとん、と地面に降り立つと、老猫は
(また明日)
という目を向けながら、その場を立ち去った。
※
少女に感情がないとはっきりわかったのは、幾日目かのことだった。
いつものように膝の上で丸くなっていると、大きな虫が飛んできた。
老猫は思わずむくりと起き上がり、虫をつかまえようとして前脚を伸ばした。
ところが、そのままバランスを崩して落下した。
体勢を立て直す暇もなく、地面に激突してしまった。
「ぎゃふん!」
えも言われぬ声で叫ぶ。
それはそれで滑稽だったが、少女は何の反応も示さなかった。
近くを飛び回る虫にすら気づいていなかった。
老猫はそんな少女を不思議に思った。
なんの感情も示さない人間の子ども。
今までいろんな人間に出会ってきたが、こんな人間は初めてだった。
笑いもせず、驚きもせず、怒りもせず。
まるで、人形のようだった。
老猫は、地面から少女を見上げながら思った。
どうにかして笑わせてやろうと。
老猫は再び少女の膝の上に飛び乗った。
少女はピクリと反応はするものの、やはり表情に変化はなくあいかわらず空を仰いでいるだけだった。
「にゃあ」
と老猫は一声鳴いた。
ペロペロとざらついた舌で少女の手の甲を舐める。
しかし、少女は微動だにしなかった。
すりすりと額をお腹に押し付ける。
けれども、少女は身動き一つしなかった。
「にゃあ……」
老猫はがっかりしながらさらに一声鳴いた。
やはり少女は何も言わなかった。
ただ、顔だけは下を向いていた。
老猫はそれに気づかず、いつものように少女の膝の上で丸くなって眠った。
※
老猫は、毎日少女のところにやってきては額をすり寄せ、手の甲を舐め続けた。
はじめは少女を笑わせるための行為だったものの、いつまでたってもその表情に変化はなく、いつしかそれは老猫にとって習慣化された挨拶だけの意味合いとなっていた。
けれども、老猫はそんな挨拶が大好きだった。
老猫にとって少女は飼い主ではなかったが、その膝の上はたまらなく気持ちよかった。
安らぎと、温かさに満ちていた。
それは、今まで野良として孤独に生きてきた彼にとって、嬉しい発見だった。
いつまでも、こうしていたい。
いつまでも、一緒にいたい。
そう思うようになっていた。
※
秋が終わり、冬が訪れようとしていた。
少女の膝にかかる毛布の枚数は増えていったものの、その表情はいつも冷え冷えとしていた。
老猫はいつものように少女の膝の上で丸くなって眠っていた。
すると、ふと背中に何かが触れる感触があった。
顔を上げると、少女が老猫を見下ろしていた。
表情はまったく変わっていなかったが、目はしっかりと老猫を見つめている。
そして、少女の手が老猫の背中に触れていた。
「にゃあ」
老猫は思わず声を上げた。
その声に少女が一瞬笑った。
それはほんとうに一瞬だったが、老猫は確かに見た。
少女は、ニコリと笑ったのだ。
老猫は満足げにもう一声鳴くと、再び少女の膝の上で眠った。
少女の手の感触がとても気持よかった。
※
冬の寒さは次第に増していた。
老猫はカチカチに凍った足を引きずりながら、いつものように少女のもとへと向かった。
思うように身体が動かない。
老猫は、自分の死期が近いことを悟った。
いつもの場所に、少女はいた。
いつものように空を見上げている。
老猫は、元気のない足で少女の膝の上によじ登ると、いつものように額をすり寄せた。
と、老猫の身体に、ふわりと何かがかけられた。
それは暖かな毛布だった。
少女が猫用の毛布を用意してくれていた。
とても。
とても暖かかった。
まるで、春のような暖かさだった。
「にゃあ……」
老猫は力なく鳴いた。
もう、声を出す体力もあまり残っていなかった。
そんな老猫の頭に、少女の手が触れる。
慈しむような、優しい感触だった。
うつろな目で見上げる老猫の目に、少女の笑顔が映った。
少女が笑っている。
微笑んでいる。
一瞬などではなかった。
老猫の頭をなでながら、ニッコリと笑っていた。
老猫はその笑顔を見ながら、気持ちよさそうにゆっくりと目をつむった。
「猫ちゃん、いつもありがとう」
少女が初めて声を発した。
とても可愛くて、なめらかで、きれいな声だった。
老猫はその声を満足げに聞きながら
「にゃあ」
と鳴いた。
それが老猫の最期の言葉だった。
少女は老猫の亡骸を愛しく抱きしめると、笑いながらも泣いていた。
いつまでも。
いつまでも──……。
※
春が訪れた。
満開に咲く桜の木の下で、少女はいつものように空を見上げている。
しかし、その表情は以前と違っていた。
少女は今、空を見上げながら満面の笑みを浮かべていた。
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