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読み切り作品

春来りなば

作者: さわいつき

 雨音が静かに響く春の朝。両親を目の前にして、さてなにを言ったものかと考える。世間一般的な挨拶ならばいくらでも頭に浮かぶのだけれど、普通とは言い難い立場にいる私は、あいにくこういった知識がまだそれほどないのだから、しかたがないというものだ。

「えー、っと」

 私の次の言葉を期待して目を輝かせている、両親の視線が痛かった。

 この世に生を受けてまだ十八年と七か月の私には、生まれて間もなく決まってしまったというか決められてしまった結婚相手がいる。まあ、世間一般に言う許婚というものだ。

 下手をすると十六歳になると同時に結婚させられかねないほど、両家両親ともにノリノリだったこの縁談、ひと言嫌だとでも言おうものなら即親子の縁を切られかねないほど強固な約束だったりした。相手は、男ばかり三人兄弟の三男坊。一人娘の私を猫可愛がり状態の両親にとっては、これ以上にない入婿候補。十八年と七か月前つまり私が生まれて間もない頃にうちの父が言いだした縁談を、何を思ったのか快諾してしまったというある意味ツワモノというかキワモノといえる人なのだ。

 そんなツワモノでキワモノが選んだ職業は、私立高校の国語教師。両家の両親に祖母にその他もろもろ周囲からの圧力で、私はその学校に進学した。さらには大学部への内部進学も決まり、この春めでたくも高等部を卒業したばかりだったりする。でもまあ、実際にはめでたいんだかめでたくないんだか判断つけかねている。

「こういう場合、どう言えばいいのか分からないんだけど」

 足りない知識を補う術もなく、私は両親に対して素直に白旗を挙げた。

「えー。お父さん、お前の『長い間お世話になりました』って言葉を聞いて、『元気でいるんだよ』って抱き合いながら泣くのが夢だったのに」

 ああ、やっぱりそうだったのか。予想通りの父の言葉に、がっくりと肩を落とす。

「だってさあ。私がお嫁に行くんじゃなくて、お婿が来るんだよ? これからもこの家で一緒に住むのに、それって変じゃない?」

「そう言われてみればそうか」

 などと今さらながらに気がついたらしい。なんともおめでたい人だ。

「当面は別々に暮らして、数年後に同居っていうのはどうかしら」

 いやいやお母さん、そういうことを今さら言ってどうなるというんですか。

 なにも今までそういう案がまったく出なかったわけではない。けれどこの春から大学生になる私の学費を両親が出すと言い出したときに、はっきりきっぱりその選択肢は消え去ってしまったのだ。

 本来なら被扶養者である妻の学費は、夫となる許婚が出すべきなのだと、当初彼が主張した。しかし婿に来てもらう側の父としては、それは到底受け入れられないことだったらしく、しばらく話し合いは平行線だった。それならばいっそ一緒に住んで家計も一緒にしてしまえば気兼ねがないのではないかと母が言い、男たちも納得した、と、まあ、そういう経緯があったのだけれど。

 実際、大学に通いながら家事もこなすなんてことができるかと問われれば、間違いなく無理だと答える自信がある私にとって、実母との同居はとてもとてもありがたいことだった。そのあたりを見越した上での母の提案だったのだから、私が一も二もなく賛成したのは当然だったのだ。

 そんなこんなで、結婚後は私の実家で一緒に住むということは、すでに決定事項だったりする。

「この際、堅苦しい挨拶はなしでいいんじゃないの」

「うーん、仕方がないか。ああ、お父さんの夢が一つ消えてしまったよ」

 一つ、ということはまだ他にも何か夢を見ているらしい。わが父ながらなんというかかんというか。

「てことで、出発しましょうか」

 鶴の一声ならぬ母の一声で、私たち親子はよっこらしょと腰を上げたのだった。




「てことがあったんだけどね、今朝」

 ずっと立ちっぱなしでじんじんしている足をようやく靴から解放して、ソファに腰を下ろした私は、隣に立つ人を見上げて今朝の様子を報告した。一日中笑顔の決算大セールだったため、顔の筋肉がかなりだるい。

「そっちは、お世話になりましたって挨拶を交わしたの?」

「まあ、な」

 やっぱり婿に行く場合は男の人もそうなのかと、妙に納得してしまった。

 先ほどまで包まれていた喧騒の後遺症か、まだ頭の中でざわざわと物音が響いている気がする。興奮で気が立っていて、今夜は眠れないかもしれない。そう言ったら、あちらも同じだと返された。

「で? 覚悟は決まったのか」

「ここまで来て、じたばたしてもしょうがないもん。もともと結婚すること自体は嫌じゃなかったんだし」

 私の言葉に意外そうに片眉を上げて見せるのは、今日のもう一人の主役である許婚様こと新郎様だ。

「ただ、十八やそこいらでってのが引っ掛かっていただけだから」

 新郎様が先生になってくれたおかげで十六歳の花嫁からは免れたことだし、と続けると、頭の上で笑った気配がした。

 卒業式の日に発送した今日の招待状を受け取った友人たちが、えらく慌てていたことを思い出す。自分が通っている学校の教師と友達が結婚するとなれば、驚くのも無理はない。私が逆の立場だったなら、間違いなく飛び上がってびっくりするだろう。

 どこからか聞きつけたらしいごくごく一部の人たちが、恨めしげな視線を投げかけてきたのも、まあ、仕方がないことだろうと思う。無愛想で無表情でそれなりに男前で、とくれば、恐れられるかはたまたその手の趣味の人には好かれるか、なのだろうから。その中に鋭い目つきで睨みつけてくる数名の男子が混ざっていたのが不気味だったけれど、彼らに対しては、新郎様が同じように鋭い視線を返していたっけ。

「でもさー。先生も、もの好きというか奇特だよね。いくらお父さんの口車に乗せられたからって、生まれたばかりの赤ん坊と結婚しようだなんて、なんで思ったの」

 今まで聞こうと思いつつも聞けなかったことを、思い切って尋ねてみる。

「さてな」

「あー、またそうやってはぐらかす」

 ただでさえ十三歳の差があるのだから、まともに相手にしてもらえることは珍しい。大概がこんな風に適当にあしらわれてしまうのだ。

「はぐらかしているわけではない。自分でもよく分からんだけだ。結果オーライだと思っておけ」

「へ?」

 わけが分からずにただじーっと顔を見ていると、口元に笑みを刷いた端正な顔が近付いてきた。ここで逃げようと思わないのは、日頃からの過剰なスキンシップの賜物かもしれない。ちなみに私は一方的にスキンシップを受け入れる側だったのだから、これはかなりひじょーに不本意なのだけれど。

 てっきり隣に座るかと思われた新郎様はそうはせず、なぜだか私の体が浮き上がり、世界がぐらぐらと揺れた。

「ほええっ?」

 どうやら抱き上げられたらしいということに気付いたのは、別の場所に下ろされてからだった。

 ただただびっくりしている私は、頬に触れてきた新郎様の指の感触に、思わず目を細める。こうして指の背で撫でられるのは、けっこう好きだったりするのだ。その感触にうっとりとしていると、十八年と七か月間一度も触れあったことがなかった唇が重ねられた。

 至近距離に慣れてしまっていたせいで警戒心が薄くなっていたところに、不意を衝かれてあっさりとファーストキスを奪われてしまったらしい。さすがにこれには驚かずにはいられず、逃げの態勢に入る。けれどそれを許してくれるはずもなく、しっかりと体ごと捕まえられてしまった。




 ピンチだ。万事休すだ。蛇に睨まれた蛙だ。だらだらと額と背中を伝う汗が、とても気持ち悪い。

「覚悟は決まっているんだったな、奥さん」

 奥さん。その耳慣れない響きに、一気に顔に熱が集中する。

「ななななな、なんの、覚悟でしょうか、夫さん」

 さっき私が言ったのは、とりあえず結婚してもいいかなという程度の覚悟のことだったはず。その先のことになんて、考えが及んでいるわけがない。

「なんだ、その夫さんというのは」

 新郎様改め夫さんは、私を見下ろしたまま、変な顔をした。

 ん? あれ? 見下ろされている?

「いや、私が奥さんだから、先生は夫さんかなーと」

 あははと乾いた笑いを浮かべながら、自分が置かれた状況を観察した。背中に感じる柔らかなものが布団なのだとしたら、ここは間違いなくベッドの上だ。夫さんを見上げているということは、どうやら私は押し倒されてさらにはのしかかられているらしい。

「結婚にはこういう行為が付随してくることは、常識だろう」

 あわあわと慌てだす私に、呆れたような夫さんの声がかけられる。いやまあ、私だって一般的な十八歳の女の子ですから、夫婦の営みに関する知識がないとは言いません。言いませんが、それを実際に体験するとなると話は別というもので。

「そ、それはそう、かもしれないけどー、って、どこを触ってるのーっ!」

「胸だが」

 いや、だから、そういうことを言っているんじゃないって。

「お前が俺の生徒じゃなくなる今日まで、お預けだったんだぞ」

「それは、教師としてはあたり前! うっひゃあっ!」

 首筋を辿るように触れていく生暖かい感触に、全身の肌が総毛だつ。鳥肌よ! サブイボよ!

「ちょちょちょちょちょ、ちょっと待ってよ、夫さんーー!」

 ぐいーっと、力の限り夫さんの顔を押し返したら、超がつくくらいに不機嫌な目つきで睨まれた。こ、怖い。

「ナンデスカ、奥サン」

 どうしてそんな片言?

「あのね、あの。肝心なこと、聞いていない気がするってーか、間違いなく聞いていないんだけど!」

 これを聞かずにコトに及ぶなんて、ちょっとあまりにひどいと思う。

「夫さんは、私のこと、好きなの?」

 夫さんの目が点になった。

 うわあ。すごいよ。強面の男前の目が点になっている顔なんて、十八年間生きてきて初めて見たよ。

「あれだけ態度で示していたのに、気が付いていなかったのか?」

「態度じゃなくて、言葉で言ってほしいんだけど。じゃないと」

 許婚という関係が当たり前になっていて感覚が麻痺してしまいがちだけれど、本来はキスも結婚もさらにはこういった行為も、お互いのことを好きだからこそ成り立つわけで。生まれてすぐにこの人と結婚するんだってことになっていて、そういうものなんだと思っていた。一緒に過ごした時間は親に匹敵するくらいには長く、思春期にはほんのり恋心なんてものが芽生えたりもした。まあ、だからこそ結婚してもいいかな、なんて思えたのだけれど。

 じゃあ夫さんはどうなのかと考えると、私にはこの人の考えていることがよく分からない。赤ん坊との縁談を受けてしまったことだけでも十分不可思議だが、三十一年もの間、私以外の女性に興味や関心がなかったわけでもなかっただろうに。どうしてよりによってこんなお子様と結婚してしまったのだろうか。

 そこに愛情があるのだと、日常のスキンシップから感じ取ってはいたけれど、もしかすると私の勝手な思い込みなんじゃないかとかそういう不安がまったくなかったわけではないから。

「なるほど」

 私の上にのしかかったままの体勢でしばらく何事か考え込んでいた夫さんは、勝手に何かを納得したようだ。

「好きだ。愛している。俺と結婚して下さい。これでいいのか」

 なんなんですか、その感情がこもらない、あからさまに義理だろうこの野郎って言い方は。それでも、それなのに。こんな愛想のない言葉なのに、嬉しくてにやけてしまう私はなんて馬鹿でおめでたいのだろう。

「何か順番が違う気もするけど、まあ、いっか」

 なんて呟いたら。

「いいんだな」

 どうやら別の了承と取ったらしい夫さんは、意気揚々と私の着衣を脱がしにかかった。

「ままままま、待ってってばー!」

「待たない」

 止めようと伸ばした手を簡単に捕まえられ、ひとまとめにして押さえつけられて。

「お前は?」

「へ?」

「お前はどうなんだ。嫌なのか」

 いや、だから、結婚するのは嫌じゃないってさっき言ったでしょう。ということは、つまり、この行為が嫌かと聞いているのだろうか、夫さんは。

 ぼぼぼぼぼっと、ただでさえ真っ赤だったはずの顔が、さらに熱くなる。

「それが、返事か」

 くつりと笑う夫さんの目がいつもよりも細められていて。これはもしかすると喜んでいるのかしら、なんて見とれてしまっている間に準備万端すっかり整えていた夫さんに、美味しくいただかれてしまったのだった。

 いや、美味しかったのかどうかは私には分からないのだけれど、翌朝の夫さんの機嫌のよさから察するに、たぶん恐らく美味しかったのではないかと思うわけで。うん。

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