魔物と少年
前回投稿した「魔物と少女」の第二部となっております。ですが時系列として前作から続く物でない事をご了承ください。
「魔物と少女」を未読な方でも問題ありませんが、どちらも読んで戴ければ幸いです。
少年は木漏れ日に目を細めながら空を見上げた。
鳥の声も羽音も聞こえないが、ひゅうひゅうと鳴る自分の吐息が、頭の中に響くごうごうと言う川の流れにも似た音と混ざって、どこか遠くに聞こえる。
体が痺れたように動かない。少しだけ動く瞳で、さっきまで自分がいた崖の上を見上げる。大人達に危険だから近づくなと言われていた崖の上は、少年が知っている限りで一番景色の良い場所だった。
遠くに見える山々の緑。その中で一番高い山の頂に、緑の濃い季節になっても今だ残る白い雪。少年はそれらを見ながら、母親が焼いてくれたパンを食べるのが好きだった。
上から見たときは背筋の冷える高さだったが、落ちる時は一瞬にしか思えなかった。
鼻の奥に詰まるねっとりとした感触に、酷く鼻血が出ているのが自分でも分かるが、痺れきった両の手はぴくりとも動かない。
もう半袖でも過ごせる季節なのに痺れた体が震えているのに気がついた。
祭りの前の日に親にとがめられるまで夜更かしをした時のように、目の前も頭の中も、まるで朝靄がかかっていくように揺らいでいく。
激しかった震えが収まっていく中、少年はやっと、自分が死にかけている事に思い当たった。
あの崖は危ないと何度も言われていたのは、こうなるからだったのかと、少年は手遅れになってやっと納得した。
父親も母親も、こうなる事を避ける為に繰り返していた。
「し、に……たく、ないよお……」
会いたい、また怒られてもいいから、父親と母親に会いたい――もう二度と崖に近寄ったりしないから、怒られる事はもうしないから、今度こそ心の底から誓うから――もう一度、会いたい。
誕生日祝いに貰ったナイフの重さ。新しい年を迎える時に家族みんなで食べた、丸ごと一羽を暖炉で焼いた鳥の味。初めて母親と一人で焼いて、真っ黒になったパンの固さ。屋根の上で父親に肩車してもらって見渡した村の景色。戦が始まる少し前に、初めて連れて行ってもらった市場で買って貰った、掌より大きな飴の味。怖い夢を見た時に眠るまでずっと手を包んでいてくれた温もり。
色々な思い出が甦っては止まる事なく消えていく。
濃い靄がかかったように、もう殆ど見えなくなっている視界が涙で更に歪む。自分の手足の感触も、さっきまで聞こえていた音ももう聞こえない。自分の頬を伝う涙の感触さえ分からない。ただ自分が泣いている事だけが分かった。
だから少年は、倒れた自分を覗き込んでいるものがいるのに気がつかなかった。
“魔物”は木漏れ日の中を足音を忍ばせて歩いた。
深い崖の下で人が通える場所がないのは空から見て分かってはいても、変に動物を刺激して住処が変わってしまっては、人間達の狩りが滞ってしまうのは“魔物”としても困る。
人間の生活を荒らすつもりもないが、ひいては自分の為でもあった。
“魔物”の姿は四つの翼と尻尾はあるが他の魔物よりは人に似ていた。
だが人に似ているが故に人に恐れを与えやすかった。もし人間達に見つかって《魔物狩人》を呼ばれてしまっては、棲みやすい場所をまた離れなければいけなくなる。
特に今この地は戦が終わったばかりで、戦える人間が多くいる。《魔物狩人》のような生業をしている者達は、魔物がいない時は傭兵として暮らしている者も多い。
“魔物”は人を傷つける事を出来うる限り避けてきた。他の魔物のように、人を襲って食うなど以ての外だ。ほんの少し果実を食べれば生きていける“魔物”は、人里離れた場所に棲む事も出来たが、気に入った住処は人里に近い所が多く、この場所も少し飛べば羊飼い達の村があった。。
人の声は聞こえる程近くでなくとも、人が生きている営みを眺めるのを“魔物”は好んでいた。人前に姿を見せるのは避けているが、どうしても許せない事――野盗等の略奪者や、あるいは他の魔物の襲来――を見かけた時は、その後にそこを離れなければいけなくなるとしても、人を守る為に翼を広げ爪を振るった。
後に待っているのが、守った人々が自分へと向ける恐れの視線や怒りの怒号、《魔物狩人》達が自分を狙う一射だったとしても、“魔物”にそれらを見過ごす事はどうしても出来なかった。
これまでは季節三巡りも同じ場所に棲む事は出来なかったが、人里からあまり遠くもなく、それでいて人が来るには難しいこの場所は、長く棲めるねぐらになるかも知れないと思った。
あまり実りの多い森ではないが、それを狙う動物も少なく、何より人を襲うような魔物の気配も匂いも殆どしないのが気に入った。
“魔物”は遠くに聞こえる鳥の鳴き声に耳を傾けながら森の中を散策する。
ふと目に付いた、初めて見る赤茶けた茸を爪の先で摘まみ採ると一口囓った。途端に、舌の上に広がる味からこれが強い毒なのはすぐに分かった。そうでなくてはここまで染みいる味にはならない事を“魔物”はよく知っていた。
見渡せばそこかしこの木の根元に同じ茸が生えている。頻繁に採ったりしなければ、この茸だけでしばらく過ごす事は出来そうだと“魔物”は思った。
大概の物は食べる事は出来るし、逆に何も食べなくても季節が一巡りする位は生きていく事の出来る“魔物”だが、味の好みは持っている。一番好きなのは焼きたてのパンだったが、人とは違う身の上では手に入れる事が難しい。
最後に食べたのはいつの事だったかと“魔物”が記憶を辿っていると、視界の端に何かが目に付いた。そこはそびえ立った崖下にあたり、岩のせいか木々が少し開けてはいたものの、下草もあまり茂っていなかった。
その中に人の頭ほどもある枯れ草のような塊が点在していたが、この森は回転草の生えるような場所ではない。かがみ込んで見てみると、それは明らかに人の手で束ねられた花束であった。ただそれはとても不器用で、蔦を使って花咲く枝や草花を纏めてある。
“魔物”が枯れた花束の一つを持って立ち上がったその時、頭上で木の枝が震える音がした。見上げると、枝の間を転がるようにして真新しい花束が“魔物”の横に落ちてくる。
目を凝らし枝の隙間から崖上を見上げると、立ち去る人影がかすかに見えると同時に、紛れもない人以外の――自分以外の魔物の匂いが漂ってきた。
腰を落としつつ四肢と四つの翼を広げ、息を殺して周囲の気配を伺うがそれらしい気配は近くにはない。匂いを辿ろうと歩を進めると、確かに匂いは崖の上から、そして落ちてきたばかりの花束からも漂ってきている。
新しい花束も古い花束も魔法の匂いはしない。人間並みかそれ以上の知恵を持つ魔物の中には、物体を触媒として魔法を使うものもいる。触媒にはその魔物の匂いと魔法の匂いがするのが常であるが、この花束にそれらしい形跡はなかった。
新しい花束を拾い上げ、改めて見てみるとまるで子供の細工にしか見えない。
心を穏やかにする花々の香りの中でも消しきれない魔物の匂い。念を入れて嗅いでみてかすかに分かるのは、焼きたてのパンと胡椒の効いた干し肉、羊の乳の匂い。
魔物の匂いさえ混じっていなければ、人が作った物として納得出来るが、この匂いの強さからすると魔物は纏められた花のどれかに触ったのではなく、花束そのものを触ったとしか思えない。
首を傾げる“魔物”が木々の開けた所で辺りを見回すと、下草の間に埋もれるようにして横たわる、少し苔の生えた人の骨。
“魔物”は人骨の横に膝をつき、死者を冒涜しないように気をつけて、ためつすがめつ眺めた。
背丈からすれば恐らくは子供。歯が生え替わりきってさほど経っていないようだ。腰骨からすると男児の骨に見える。獣には襲われていないようだが、手足を始め幾つかの骨が折れ砕けていて、これでは立ち上がる事も出来なかっただろう。
そっと幼子を抱き起こすように頭骨の後ろに手をやると、ここにも大きなヒビがあった。
“魔物”には祈るべき神はいないが、このような人目に触れぬ場所で野晒しになっている遺骨を見ると、この子の冥福を祈りたくなってくる。
せめても墓を作って――と、“魔物”は気がついた。
この子供は何も持っておらず、服すら着ていない。しかし骨の状態や苔の生え方からして、服が跡形も無く朽ちる程には経っていないようだった。誰かが、もしくは何かが、この服も着ていない子供の遺体をここに晒したか。それとも服や荷物を――もしかすれば命も――奪って横たえたか。
誰かが奪ったにしては、この遺骨は雑に投げ出されてはいなかった。両手を組んでいれば、まるで棺に収めるような姿勢だった。
そう見れば、拙い花束はまるで子供への墓参りだ。
“魔物”はしばらく腕を組んで考え込んでいたが、やがて石の混じる地面に穴を掘り始めた。考えるのは後にし、まずこの子供を簡単にでも埋葬する事にした。
もう少し良い場所を探す事も考えたが、魔物の匂いの正体を掴むまではここで我慢してもらおう。事情が分からない今動かして、何かの銃爪になってしまうのは避けたかった。
“魔物”は心の中で子供に謝った。
少年は先の曲がった杖を羊の首にかけると、まずは軽く腕の力だけで引っ張った。
「もう、そっちはダメだよ、離れないでー」
頼み込むように言っても、まだ若い羊は気の向くままに体重の軽い少年などまるでいないかのように引き摺っていこうとする。
羊飼いの見習いとして、村の男手の1人として手伝いを出来るようになっても、経験はまだまだ少ない。群れから離れようとする羊を連れ戻そうにも、力の入れ具合を掴み損ねてつい手加減をしてしまい、今のように羊に引き摺られてしまう。
「おーい、セッド! ちゃんと教えてやらんとそいつがまた迷子になっちまうぞー!」
遠くから聞こえる父親の声に、今度は脇を締めて足を踏ん張り、前に教えてもらったように腰に力を入れて杖と自分が動かないようにした。
若い羊は杖を首にかけられたまま動こうとするが、セッドと呼ばれた少年が動かないので諦めたのか、近くに見える仲間の所へと歩き出した。
セッドは羊の首にかけていた杖を外すと、腰にぶら下げていた水筒から一口水を含んで、口の中で転がしてから飲み込んだ。
この若い羊は、初めて出産に最初から最後まで立ち会い手伝った羊で、村で飼っている羊たちの群れに馴染むよう、全ての世話を任された最初の羊でもあった。以前はすぐに珍しい物があると走って行ってしまっていたが、最近はやっと言う事を聞いてくれるようになった。
セッドの村は共同で羊を飼い、森に入ってはその恵みを戴き、羊からとれる物と一緒に街に売りに出て暮らしていた。村の男は羊飼いや狩人として働けて一人前。これはセッドの祖父の祖父、そのまた祖父の前から続く暮らしだった。
髪も髭も真っ白になり、揺り椅子から立ち上がる事も少なくなった祖父が、生きていた頃に何度も聞かせてくれた話だ。
歯が生えそろう歳になり、母親の手伝いから父親の手伝いに回され、次に羊の毛を刈る季節になったら、また街に連れて行ってもらえる約束だった。実の兄のように育った隣家の少年は、もう1人で街に行く事も許されているし、大人達の狩りの旅にも同行している。それに比べればまだまだ自分が手伝いでしかないのを、セッドはよく分かっていた。
はやく自分も、大人になりたい。
1人で街にも出たいし、狩りにも同行したい。パンを焼くのは村の中でもかなり上手くなったと思うが、村の男達に求められているものではない。
自分の体が恨めしく思う。
歳からすれば体も小さく手足も細い。一つ年下の少女と力比べをしても負けそうになるくらいの力しかない。父親は村でも一番の腕っ節で、先の戦で兵士として戦場へ行った時も無事に戻って来られたのに、セッドはこれまで誰と喧嘩をして一度も勝った事がない。
争い事は嫌いだが周りと比べてしまうと気が滅入る。
「強くなりたいなあ……」
小さな呟きに、傍らの羊がセッドの顔を見上げた。
「ああ、独り言独り言。ほら、みんなと一緒にご飯食べといで」
軽く羊の頭を撫でると、促されるままにその羊は群れに戻って牧草を食べ始めた。
日が暮れ、村の羊が小屋の中に戻り、雲間から覗く月明かりが草原を照らす頃、“魔物”は地面に這いつくばるようにして村に近づいていった。
村の近くには身を隠せるような木々も少なく、昼間は羊たちが放し飼いにされていて、とてもではないが近寄る事が出来ない。闇に紛れ気配を消して、ようやっと村に近づける。それでも羊小屋に近づき過ぎれば、“魔物”の匂いや気配に羊たちが騒ぎ始めるだろう。
崖からずっと魔物の匂いを追ってきたが、匂いの強さからするとこの匂いの元は昼間、草原や村の中をうろついている。あまつさえ羊たちの匂いに紛れるくらいに近寄ってすらいる。
動物は魔物の気配や匂いに敏感だ。特に犬ともなれば、《魔物狩人》が魔物を追い立てる時に使う程だが、家畜であってもここまで近寄っていれば大騒ぎになるだろう。
耳を澄ませば“魔物”の気配を感じたのか家の中から犬の唸り声が小さく聞こえるが、まだ家人は騒いではいないようだ。
牧羊犬の匂いを出来るだけ避けて匂いの元を辿ると、一件の家で匂いは途切れている。
運良くこの家は犬を飼ってはいないようだ。足音を忍ばせて窓に近寄って耳を澄ませると、蝙蝠のように尖った“魔物”の耳には、家族の団らんが聞こえてきた。
今日何があったのかを話す子供。相づちをうつ母親。手放しにではないが、子供を褒める父親。
“魔物”からすれば、ずっと眺めていたくなるくらいに、普通の人間の暮らしが壁の向こうにはあった。
ふと目を落とせば、指の先には灰色熊を思わせる爪を持ち、小さな鱗に覆われた両の手があった。生き物を傷つける為の手だ。半端に人に似ているが人とは全く違う。人の中に混ざりたくても、自分の体がそれを許さないのは分かっている。
だからこそ、漂ってくる夕食の匂いに混ざる、かすかな魔物の匂いが気に掛かる。
この家の中に魔物がいる――それは疑うまでもなかった。
“魔物”は濃い朝靄越しに木立の上から遠目に村を見つめた。
羊飼いの朝は早く、もう村の男達が小屋から羊を出しては、牧草豊かな草原へと群れを誘導している。しかし昨夜“魔物”が残した匂いのせいか、群れの誘導に少し手間取っているようだった。一雨降ればもう動物に嗅げるほど匂いは残らないだろうが、空の具合や匂いからすると、しばらく雨の降りそうな気配はない。
当分は村に近づく事はやめた方が良さそうだ。
そう考えながら日が中天に登る頃合いになるまで、魔物は身動ぎ一つせずに気配を消したまま村や草原を見続けた。
羊飼いの男達もそれぞれに昼食を食べ始めているのが見える。
そんな中、一人の子供が先の曲がった杖を片手に小走りで羊の群れから離れていく。フードのついたなめし革のベストには見覚えがあった。昨夜、魔物の匂いのあった家から出てきた子供だ。
目だけで少年を追う“魔物”は、これからの事を考えあぐねていた。
“魔物”の姿は子供が見るには恐怖を煽りすぎる。これまでの経験で良く知っていた。しかし魔物が同じ家にいるという事実は、あの家族のこれからを思えば、見過ごす訳にもいかない。
“魔物”の喉は人の言葉を発せないが、その代わりに身に蓄えた魔力を用いて心を飛ばす事は出来る。
姿を見せず、人を騙って少年と話が出来れば――
“魔物“は音も無く木々を飛び渡り、少年を見失わないように後を追った。
少年は“魔物”が追ってきている事には気付いていない。背丈よりも長い杖を肩に担ぐようにして、慣れた調子で駆けていく。
ふと足を止めた少年は、足下の花を摘まみ上げて、腰に下げた袋に入れるとまた駆けだした。
それを見た“魔物”は軋む程に牙を強く食いしばる。
少年は何度も足を止め、その度に花を集めては崖の方へと向かっていく。
身を隠す木立が途切れたが、ここで追うのを諦める訳にはいかない。“魔物”は四つの翼を広げると、高く高く空へと舞い上がった。
少年は空から見下ろす“魔物”に気付く事なく、崖へと近寄っていった。
その手には作りたての拙い花束。
少年は杖を地面に置き、少し頭を下げると花束を崖下へと投げ落とす。しばらくそれを見ていた少年は、杖を拾い上げて踵を返すと近くの岩に座り、鞄から包みを出して食事を摂り始めた。
“魔物”は翼をはためかせ、少年に見つからぬよう大きく遠回りをして花束が投げ落とされた崖に身を隠す。そのまま“魔物”は手足の爪を岩に食い込ませて、蜥蜴のように絶壁を這って少年へと近寄った。
“魔物”は崖に身を潜めたまま爪を立てて手を握り込むと、流れ出る血を触媒に掌に目と耳を顕現させ、その手だけを崖から突きだして少年の様子を伺う。
食事を摂り終わったのか、布包みを丸めて鞄にしまいこみ、水筒から水を飲んでいるようだった。
“魔物”は意を決して少年へと心を飛ばす。
いきなりの事に少年は驚いたのか、水筒を取り落とし辺りをしきりに見回した。
“魔物”は続けて心を飛ばし、少年を宥めようとする。
しかし、やはり飛ばした心を受ける体験は、魔法とは縁遠そうな少年にとっては混乱を招くようだ。まだ幼さの残る顔に怯えの色を浮かべながら慌てて水筒を拾い上げ、今にも走って逃げ出しそうであった。
そこに草原を渡る風が、少年の匂いを“魔物”に届けた。外れて欲しいと願っていた事は、残念ながら的中してしまった。
少年からは、人の匂いがしない。
“魔物”が探していた匂いが、少年の形をしたものから漂っている。
辺りを見回す少年が、震える声で叫んだ。
「だ、誰? どっ、どこから何してるの!?」
誰何の声に“魔物”は同類だと心で答えて続けざまに問いかけた。
君は何か――と。
「……セッド。セダト・ユールで、セッド」
自分以外の魔物に心を飛ばされるのは初めての事なのか、それとも怯えている演技なのか“魔物”には分からなかった。
“魔物”は大きく翼を広げると、弓から放たれる矢のように飛び上がり、勢いのままに少年の形をしたものの背後へと降り立つ。
相手は振り向いたと同時に“魔物”を見て腰を抜かしてへたり込んだ。持っていた杖を取り落とし、這うように距離を取ろうとする。
“魔物”は爪を立てて掌を強く握り込み、いつでも血を触媒に雷を顕現出来るようにして、また少年の形をしたものに心を飛ばす。
お前は何だ、と。
しかし少年は震えるばかりで答えない。
その瞳にはうっすらと涙すら溜まっている。
まるで本当にただの少年のようだが、牧羊犬や羊たちが騒がないのが不思議な程に匂いは違っている。。
血を流す手を大きく振り上げ、“魔物”は再び何かと問う。
「こ、ころさないで……」
セッドと名乗った魔物は詰まりながら言った。
しばらくして、“魔物”はゆっくりと手を下ろし、広げたままの翼を畳んだ。そして両手を肩の高さに上げて掌を開いて見せ、心で敵意が無い事を伝えた。
人の中に潜り込み操る魔物は数居るが、目の前の魔物がそうした類でないのは匂いで明らかだ。となれば人に姿を変える魔物が思いつくが、人目もなく、自分が今にも殺されそうな時ですら実体を表して抵抗するそぶりも見えない。
その理由が“魔物”には思いつかなかった。
“魔物”は心を飛ばしてセッドを宥めながら問いかける。セッドは鼻を啜り、詰まりながらも答えた。
自分が人間ではない事。何かの姿を真似、その同族に近づく魔物である事。崖の下に棲んでいた時に少年が落ちてきた事。
死にゆく少年の心を読み、姿を真似ていくうちに、自分が本当にセッドと呼ばれた少年になったかのように思えてきた事。
それならば、少年がしたかった事をしたいと思うようになった事。
セッドの前に座った“魔物”は静かにそれを聞いていた。
姿を真似る魔物の中には、記憶や匂い、気配すら真似て生半な手段では看破出来ない能力を持つ物がいる事は昔“銀なる竜”に聞いて知っていた。
だがそれが人の心すら真似てしまうのは年経た“魔物”も初めて聞く事であった。
瞳に浮かぶ怯えの色や汗の匂いから、セッドと名乗った魔物が嘘をついているようには到底思えない。
崖下に投げ落としていた花束は、本当のセッドへの手向けだった。
かつては半ば水のような姿であった為に、本当のセッドから服を脱がせた後に崖を這い上がる事は出来た。だが今の姿になってしばらくしてからは、本来のセッドが死に際に持っていた気持ちが強くなり、崖を下りるどころか下を覗き込む事も怖くなっていた。
「ほんとはお墓、作りたいんだけど……」
俯きながら言うセッドに、“魔物”は自分が本当のセッドを埋めた事を伝える。すると、まだ涙を浮かべる顔を“魔物”に向けて言った。
「ありがとう」
誰かに礼を言われるなど、久しく無かった。しかも人の姿を取っていても、魔物に言われたのは初めての事ではないか。
くすぐったくなるような気持ちに“魔物”は笑みを返したかったが、牙が生え耳まで裂けた口ではそれも出来ない。
と、“魔物”の耳に遠くからセッドを呼ぶ声が聞こえてくる。少し長く話過ぎたようだ。心を飛ばすのは一瞬で意図が伝わるが、セッドからの返答は言葉に頼るしか無い。
“魔物”は立ち上がると、そっとセッドの頭に手を置いた。心を飛ばすのは、触れていた方が正確な意図が伝わりやすい。
“魔物”が伝えたのは二つ。今日の事を黙っていてくれたら、セッドには何もしない事と、今度二人で本当のセッドの墓を作ろう、と。
セッドは破顔し、大きく頷く。
匂いさえ無ければ魔物だと言う事を忘れてしまいそうだ。“魔物”は、笑い返すと言う事が出来ない顔をしているが、その代わりにセッドの頭を撫でて、彼を探す父親達の方へと促した。
セッドが座っていた岩にもたれかかるようにして“魔物”は空を仰ぐ。セッドと成った魔物が羨ましく思った。
その夜、“魔物”が見た夢は自分も人間と触れあう夢であった。
セッドは鎧戸の隙間から差し込む薄明かりの中、じっと天井を見つめていた。人の姿を取っていても魔物であるセッドの目には、昼間と変わらず部屋の中を見渡せる。
寝返りを打つと、椅子の背にかけられたベルトにつり下がったナイフが見えた。あれは本当のセッドが大切にしていた物だ。
昼間、一つだけ言わなかった真実が頭の中をかき回し、目を瞑る事が出来ないでいた。
本当のセッドに止めを刺してしまったのは自分だ。
今セッドと名乗っている魔物は、生き物の肉を奪い記憶も外見も取り込む。生きていなければ真似る事は出来ない。だから事切れる寸前のセッドに覆い被さり、骨を残して全てを奪った。
鳥が木の実を啄むように、羊が牧草を食べるように、魔物として生きていく為に当然の事をしただけだ。
それは自分でも分かっている。
だが取り込んだ記憶や想いに引き摺られて、後悔が頭をもたげる。
――あの時自分が取り込まなければ、本当のセッドは村の共同墓地の中で眠れていたのではないか。セッドの父親と母親は嘆き悲しむだろうが、自分のような魔物がなりすましているよりは良かったのではないか――
本当のセッドの癖まで取り込んでいた魔物は、その事を考えるとすぐ顔に出て両親に心配をかけてしまう事もあって、勉めて人前では思い返さないようにしていた。
思い返すのは、手向けの花束を投げる時だけ。あの場所でなら、誰にも見られる事はなかった。
この姿になるまでは、一人ずつ一人ずつ身近な人間を取り込んでは姿を変えて暮らしてきた。親兄弟が、隣家の住人が、一人ずつ消えていき、最後は骨を残して誰もいなくなる。それがセッドと名乗っている魔物の生き方だ。
何の罪悪感も無かった。人になりすまして食事をする時と同じだった。
それがセッドになってからは、思い返す度に胸が痛くなる。とてもではないが、この姿で同じ事を繰り返すつもりは起きなかった。
昼間は言えば殺されると思ったのもあるが、何より自分が卑しくて恥ずかしくて口にする事が出来なかった。
今日出会ったあの“魔物”は姿こそ恐ろしいものだったが、魔法で伝わってくる気持ちはまるで人のようだった。セッドの亡骸を埋めてくれたと教えてもらった時、嬉しかったし驚きもした。
確かにあの時伝わってきた気持ちの中には、本当のセッドを悼む気持ちが入っていた。
セッドはあの“魔物”が羨ましかった。
しばらく、セッドは崖に向かう事が出来なかった。
忙しかったのもあれば、お昼にどこかへ行ってしまう事を怒られたのもあって、羊の群れから離れる事が出来なかった。
体を動かし、羊の群れを誘導して危ない場所に近づかないようにする仕事は、大変だが楽しかった。これがセッドの想いを取り込んだからなのか、それとも初めての事だからかは分からないが性に合っていると感じた。
「おーい、セッド!。もう戻るぞー!。俺が先導するから後ろから追い込んでくれー」
遠くから響く父親の声に大きく頷き、手を振って答える。
「よーし、みんな戻るよー。ご飯おしまい、家に帰るよー」
と言った所で、実際に羊たちが動くのは牧羊犬が居てこそだ。大人達なら牧羊犬に頼り切らなくても羊たちを追い立てられるが、セッドはそこまで慣れてはいない。
遅れた羊がいないかと首を巡らせると、山間の街道に幾つもの人影らしきものが見えた。羊の毛を刈る季節ともなれば、街に行った村人が帰ってくる姿を見られるが、今はその時期では無く、街道の先にはこの村しか集落が無い。
行商人の来る季節でもないはずと思い返していたセッドは、自分を呼ぶ父親の声に羊の群れを小屋に追い込む作業に戻った。
静まった夜陰を割くように“魔物”の耳に届いたのは、かすかな破裂音。
一度聞けば忘れられない火筒の音であった。囓りかけの茸を放り出し、一息に翼をはためかせて飛び上がる。
木々の枝葉を弾いて空へ舞い上がった“魔物”は両掌に爪を立てて、流れる血を触媒に目を顕現させ、四つの目で周囲を見回す。
もう殆ど日は沈んでいるが“魔物”の目は光の有無に左右されず遙か遠くまで見渡せる。
火筒は戦争くらいでしか使われていない、まだ新しい武器だ。時が経てば広まっていくだろうが、それにはしばらくかかるだろう。少なくとも魔物を獲物としない狩人が持っている物ではなく、戦争も終わったこの地域で聞こえてくる音では無かった。
“魔物”の目は村の中で揺らめく幾多の明かりを捉える。もうこの暗さでは羊は小屋に入れてあるはずだ。それなのに明かりは揺らめき動き回っている。
“魔物”は高度を上げながら、村の上空へと急ぐ。
近づくにつれ、明かりを持っているのは村人とは思えない者達で、しかもそれぞれに何かしらの武器を持っているのが分かった。野盗の類にしては装備が整っているし、馬に乗っている者も多い。
まさか空飛ぶ“魔物”がいるとは思っていないのか、村の真上に来ても気付いた者はいなかった。
広場に集められた村人達を囲む男達は、槍や弓だけでなく長火筒までも携えて、ほぼ全員が革を鉄で補強した鎧か、鎖を編んだ鎧を着込んでいる。
まるで戦拵えをした兵士だ。
村人の中にセッドの姿を探すと、横たわった、父親と思われる男に覆い被さっていた。その横では母親らしき女が男達の一人に引きはがされていた。
そこに槍を持った男が近づき、手に持つ物を振り上げる。
“魔物”は胸に沸き立つ怒りを山々に響く叫びに変えながら急降下。
突然の、人でないものの叫びに羊や犬は騒ぎ立て、馬は暴れて乗り手を振り落とし、槍を構えていた男の手も止まる。
“魔物”は槍を構えていた男の背後に地響きを立てて降り立つと、その男を睨みつけた。声すら上げられずに“魔物”を見つめる男の顔は、目の前に何がいるのかも分かっていないようだった。
槍を取り落とす男の手を掴んで無造作に後ろへと投げ捨てる。
村人も男達も、松明に浮かび上がる“魔物”の姿を見て悲鳴をあげるが、今は気にする余裕はなかった。
“魔物”は跪くと涙目でを見上げるセッドの頭を撫でながら、逆の手を握り込み、溢れ出る血を父親と思われる男の腹に空いた傷へと垂らす。
体を撃ち射貫いた傷が“魔物”の血を触媒に塞がっていき、荒く上下していた胸が穏やかになっていく。この傷なら明日の朝には動けるようになるだろう。
「危ない!」
セッドの叫びと同時に“魔物”の頭を何かが打ち据えた。恐らくは戦鎚を叩きつけられたのだと感じたが、“魔物”は振り返る事なく尻尾を振ると、背後でまた悲鳴が上がった。
“魔物”の、鱗混じりの肌は人の振るう武器程度ではかすり傷もつかない。立ち上がった“魔物”はまだ母親らしき女の手を掴んだままの男を指さしてゆっくりと口を開く。息と共に吐き出される炎を見た男は、手を離すと慌てて仲間達の所へ駆け戻った。
周囲を見回した“魔物”は男達がどこかの軍隊崩れである事を見抜いた。徽章は外されているが装備が整っているし、何より“魔物”に相対しても士気が大きく崩れていない。
戦中戦後においては一部の軍隊がそのまま野盗となる事はあるが、総勢20人を超えているとなればそれなりの規模だ。しかも長火筒まで持っている。
ゆっくりと“魔物”が翼を広げると、男の一人が口を開いた。
「四翼鬼……!」
懐かしい呼び名に“魔物”は少し目を見開いた。どれほど前か忘れてしまったが、一時そんな名で《魔物狩人》達に呼ばれ追われた事がある。男達の殆どはその名を知っていたのかざわめきが走る。
だが“魔物”にとって呼び名はどうでも良かった。どんな名で呼ばれようが、ここで全員を捕まえる事に変わりは無い。
「四翼鬼の鱗は煎じて飲めば万病に効き、翼は一片が金貨の山を作り出すと言う……者共、それを確かめるは今ぞ!」
昔は羽一片が銀貨一枚という話だったのだが、話という物は山を登る雲のように膨らむ物だ。
だが相手が逃げずにいてくれるなら都合が良かった。
“魔物”は村人を巻き込まぬよう、翼を広げたまま真っ直ぐに男達の直中へと突き進む。打ちかけられる矢を全て受けても“魔物”の歩みは止まらない。振り下ろされる剣を爪で切り折り、戦鎚の頭を握り砕いて、怒号の中“魔物”は殺さぬように男達を一人一人打ち据える。
長火筒の弾が腹に当たるが、鱗を破る事もない。血を触媒に何かを顕現させるまでもなく、尾を一振り、腕を一振りするだけで戦拵えの男達は動けなくなっていく。遠くから弓を射かける者や逃げようとする者には倒れた男を投げつけた。
20を超える野盗達は“魔物”の歩みを止める事も出来ず倒れていき、見る見るうちに立っているのはあと一人となった。
最初に“魔物”の名を呼んだ男が倒れた男達に罵声を浴びせるが、殺しはしないまでもすぐに起き上がれる程には加減していない。
戦慄き後退りしながら男は腰の袋に手を入れると、卵のような物を取り出し握り潰すと中に入っていた粉を振りまいた。
途端、“魔物”は猛烈な臭気を感じて思わず顔を押さえる。
この臭いを“魔物”は忘れた事はない。
唸りを上げる喉から漏れる吐息に炎が混じる。
悪魔を呼び出す香の臭いだ。
鈎爪の生えた足が地を蹴り、“魔物”は香を使った男へと飛びかかるが、伸ばした手が男を捉える寸前、“魔物”は腹に大きな衝撃を受けて空に打ち上げられた。
炎混じりの息をつき、翼を広げて止まると男の前には先ほどまでいなかったものがいた。
それはまるで城仕えの侍女のような飾りの少ない黒い服を纏い、細い手を真っ直ぐに“魔物”へと伸ばしている。顔には表情どころか口も鼻も無く、瞼の無い灰色の瞳がその殆どを占めていた。突き上げられた手には何も持っていないが、“魔物”の突進を止めたのは確かにこれの仕業であった。
鼻につく、火口に近づいたときのような臭いは、悪魔が顕れる時に特有のものだ。
悪魔は、羽ばたく“魔物”から視線を逸らし、自分の手を見つめて首を傾げた。指を一本一本握っては広げてまた首を傾げ、その度に黒く艶やかな髪が揺れている。
魔物と悪魔は似ていても大きく違う点がある。
魔物は殺せば死ぬが、悪魔は決して死なず滅びない。
破れる事はあれどそれは死に繋がらず、元いたところに還るだけだ。儀式を用いて喚べばこの世に在り続ける為に命を求め、香で喚べば一昼夜だけ在り続け、喚んだ者に従い災いを為す。
“魔物”は知っていた。
悪魔を喚ぶには、どの様な手段であれ必ず人の命が失われる。儀式の供物として失われるか、香を作る時に失われるかだ。
どちらで喚んだにしても悪魔は恐怖を撒き、命を奪う事を尊ぶ。
村人達はちりぢりに逃げ出している。だが一度悪魔が暴れ出せば、どれだけ離れれば安全か“魔物”にも分からない。今まで四度、悪魔を打ち破った“魔物”は相手が見かけでは量れない事が身に染みている。
“魔物”は両手を握りこむと、流れ出る血を混ぜるように掌を強く打ち合わせる。
ゆっくりと手を離すと、掌の間に血を触媒とした雷が顕現し、悪魔を呼び出した男は慌てて悪魔から離れるが、当の悪魔は手首を捻り、肩を回しては首を傾げて“魔物”の事など忘れているかのようだ。
“魔物”は大きく吼えながら両手を振り下ろし、雷を悪魔へと叩き込む。しかし凄まじい雷鳴が収まった時、悪魔は焦げ跡一つなく変わらずに右に左にと首を傾げていた。
悪魔は盛んに自分の体を確かめるように動かしていたが、ふと“魔物”を見上げると両手を上げて、どこからか分からないが声をあげた。
「私、貴方と戦う理由ないのですけれど?」
甲高い女の声だった。
悪魔を喚んだ男はそれを聞いて慌てて言う。
「おい、そいつを殺せ! その為に喚んだのだぞ!?」
背後からかけられた声に、悪魔は首だけを後ろに回して言う。
「私は戦場で人を殺す契約です? ここは戦場ではありませんし、あれは人ではありませんから殺す理由もないのですが? 喚ばれた以上、身を守る手伝いはしますが人を殺せないのでしたら還りますが?」
物騒な話をしているが、“魔物”に話が終わるのを待つ理由も無い。四つの翼を一つ大きく羽ばたかせ、落ちる勢いを加えて大振りに爪を振り下ろす。
だが悪魔は振り返る事すらなく爪を受け止めると、手首を掴んで流れるように“魔物”を地面へと叩きつけ、跳ね返った所を踵で“魔物”の腹を強く踏みつけた。まるで大岩でも叩きつけられたような重みに“魔物”は溜まらず血を吐くが、その血を混ぜた炎を悪魔へと吐きかけた。
血を触媒にした炎は当たった物に絡みついて燃え続ける。だが悪魔は炎に巻かれながら平然と言った。
「話しの邪魔はしないでくれます?」
血を混ぜた炎は鉄鎧でも飴のように溶かすが、悪魔は服すら燃えていない。男から炎の上げる音に負けじと怒声が飛んだ。
「いいからそいつを殺せ! この村の奴等は全員殺して構わんから、そいつも殺せ!」
それを聞いた悪魔は、埃を落とすように炎を手で払いながら小さな笑い声を漏らした。
「最初からそう言ってくれればいいんですよ?」
言いつつ踏みつけた足を更に踏み込み、小さな足が“魔物”の体にめり込んでいく。体躯こそ小柄な人間の女と変わらないが、そこらの魔物とは比べものにならない力だ。
――このままでは腹を踏み破られかねない。
“魔物”は悪魔の足を切り落とす勢いで爪を振るうが、鋼に爪を立てたように火花が散り、脛に傷をつけるのがやっとだった。それでも一瞬力が緩んだ所で尻尾を振るい、足を払うと悪魔の下から転がり出た。
炎混じりの荒い息をついて立ち上がる“魔物”を、首を一回転させて見据える悪魔は、足を払われ座り込んだまま楽しげに言う。
「と言う事ですから殺しますね?」
嬉しそうに手を叩き、発条仕掛けのように立ち上がる悪魔を、息を整えながら睨みつける。
雷も炎も効かないが傷をつけられない相手ではない。年経た竜亀の甲羅を打ち破るよりは楽だろう。
見かけを大きく上回る膂力も悪魔ならあり得る範囲だ。
“魔物”は四肢に力を込め低く唸り声をあげる。しかし悪魔はさして警戒もせず、散歩でもするようにのんびりと“魔物”の周りを回り始める。
「久々です? 楽しみです?」
緊張感のない楽しげな声を上げながら、幼子がはしゃぐように両手を大きく振る。
“魔物”は一息に悪魔へ駆け寄ると喉笛めがけて爪を突き出すが、悪魔は腕を大きく振ってそれを弾く。初撃をいなされた“魔物”は勢いを殺さずに体を捻り、巨木をへし折る威力を持った尾を叩きつける。
悪魔は片手を勢い良く突きだして尾を打ち返し、肉のぶつかり合う音が夜闇に響く。勢いと重さで“魔物”は構わず尾を振り抜き悪魔を跳ねとばすが、当の悪魔は何事もなかったようにふわりと着地した。
「強いですね? とても良いです?」
“魔物”の尾と打ち合った手を軽く振り、調子を確かめるように手を握っては開く。尾の鱗で肌が削れたくらいでは何の痛痒も感じていないようだ。
対して、打ち合った“魔物”の尾は痺れるように痛む。だがちぎれていなければ問題はない。
“魔物”は炎の混じる息をつきながら、次なる一撃のために身を屈ませる。
「四翼鬼! 動くなっ!」
割って入る怒声を横目に見ると、“魔物”は歯を軋らせた。
悪魔を呼んだ男がセッドの髪を掴み、喉元に歪な形をしたナイフを当てている。セッドの父親も母親も、男に組み付き子供を助けようとするが、男は傷が塞がったばかりで満足に動けない父親を蹴り飛ばし、母親を乱暴に振り払った。
「やめろっ、離せよ!」
セッドは男の手を振り払おうと藻掻くが力では大人に敵わない。ひっかき傷を作った所で余計に男を怒らせるだけだ。
「人質? 殺せるならいいですけど? それはやめた方がいいです?」
呆れた調子で悪魔は言うが、即座に怒鳴り返される。
「うるさい、さっさと殺せ!」
“魔物”はゆっくりと手を下ろし、翼を畳む。悪魔を前にしたまま、血を触媒にして何かを顕現させ、男だけを倒すのは無理があった。
子供の姿をしていても、セッドの正体は魔物だ。諸共に雷の網に巻き込んでも無傷でいられるかも知れないし、もしセッドが魔物として力を使えば、男の手から逃れられるかも知れないが“魔物”はそれを試すつもりは無かった。
悪魔は両手を下ろした“魔物”に近づきながら肩をすくめる。
「何で言う事を聞くのです? 人質? じゃないです?」
“魔物”を見つめる大きなの一つ目は、セッドの正体を見抜いているようだった。それでも召喚者に明確に言わないのが悪魔が悪魔たる由縁だ。召喚者がどうなろうと――人が死ぬならそれが誰であれ――喜ばしい事だった。
前髪をかき上げながら悪魔は“魔物”の顔を覗き込む。
「変わりませんね? 昔から?」
不意の言葉の意図を考える間も無く、胸に強い衝撃。悪魔の手は“魔物”の体を貫き、胸の脈動にあわせて大量の血が溢れ、喉からこみ上げる血に大きく咽せた。
血を浴びながら悪魔は瞬き一つせず“魔物”を見上げる。
「でもおしまい? 少し残念です?」
セッドは“魔物”に手を伸ばし悲鳴のような声をあげるが、髪を掴む手が緩む事はない。このままではあの悪魔に父親も母親も、大事な人達が殺されてしまう。
一つ、セッドには男の手から抜け出る策はあった。だがそれは、自分がセッドでない事が皆に知られてしまう上に、もう二度とこの姿になれなくなる。
一つの姿はたった一度だけ。誰かを取り込めば、本来の水飴のような姿にはなれても、以前取り込んだ姿には戻れない。
それでも大事な人達が死ぬくらいなら――意を決し、今の姿を崩して男を取り込む為にセッドは男の手を両手でしっかりと掴んだ。
その途端、怒るような強い心が伝わり、セッドは動きを止めた。
“魔物”が牙を食いしばりながらセッドを見つめ、首を横に振った。
「でも…でもっ!」
セッドの叫びに、“魔物”は再び首を横に振る。
「まだ生きてますね? 嬉しいです?」
悪魔は逆の手を掲げ、四指を揃えると“魔物”の腹に突き入れた。矢弾を弾く鱗も悪魔の一撃を止めるには到らない。
「そろそろさようなら? もう逢えません?」
悪魔は“魔物”の体を貫く腕をじわじわと左右に広げ、“魔物”の体を引き裂こうとする。“魔物”は尻尾を悪魔の腰に巻き付け、血まみれの両腕を抑え込むように掴んだ。
それでも細腕の悪魔の力は、大量の血を失った“魔物”の力で抑え込むには厳しい。力を入れれば入れるほど傷口からは鮮血が吹きだし、単眼の悪魔を濡らしていく。
覚えている限りにおいて最も強い悪魔を相手に、“魔物”は牙の生えた口で笑おうとした。
「何をしよ……!?」
悪魔は訝しむように左右に首を傾げるが、言い終える前に気が付いた。
“魔物”は血を触媒とし、流れ出る血の全てを使って夜空より流れ星を喚んだ。“魔物”の意図に気付いた悪魔は腕を引き抜き逃れようとするが、“魔物”は渾身の力で抑えつける。
“魔物”の血が溢れる端から蒸発し、濃い魔力となって夜空の果てより流れ星を引き寄せる。後は流れ星が落ちるまで、悪魔を押さえ込めるかどうかだ。
悪魔は体を振って“魔物”を投げ飛ばそうとするが、腰に尾が巻き付いている上に“魔物”は鷹のような足の爪で悪魔の足首を掴んで必死に食らいつく。
「おい何をしてる!」
逃れようとする悪魔にただならぬ事態を悟った男が叫び、そのほんの一瞬だけ力が緩んだ。
その一瞬でセッドは父親から譲られたナイフを抜き、男の手首を切りつける。良く研がれたナイフは手の筋を切り裂き、思わぬ事に男はセッドから手を離してしまう。
「このガキっ!」
鉄で補強された靴先がセッドの背に叩き込まれるが、セッドは痛みに耐えよろめきながら必死に男から距離を取った。
「離――」
悪魔の言葉は遮られた。
“魔物”に喚ばれた星の欠片は炎を纏ったまま悪魔の頭を打ち砕き、そのまま“魔物”の体を貫くと地響きを立てて地面にめり込んだ。
空より落ちる星はあらゆる魔を滅ぼす。如何なる魔物も悪魔も流れ星を受けては無事ではない。
首から上が四散した悪魔の手から力が抜け、砂山が崩れるように砕けていく。体も服も何もかもが“魔物”に破れた事で形を為さなくなっていった。
「……また、逢いましょう……?」
小さく、それでも確かに耳に届いた声に、“魔物”は尻尾を振るって悪魔の残骸を砕き散らした。
「きっ、貴様……!」
“魔物”を睨みつける男は踵を返して逃げようとするが、“魔物”の手から放たれた雷に打たれて倒れ伏す。死なない程に加減はしたが当分は動けないだろう。
悪魔に開けられた穴はゆっくりとだか血を触媒として塞がろうとしている。しかし星の欠片が穿った所は逆に肉を溶かすように広がっていく。
これが流れ星に打たれた傷だ。
如何なる魔物も悪魔も流れ星に打たれた場所は治らず、放っておけば死に到る。《魔物狩人》達が流れ星を鋳溶かして剣や矢尻に使うのはその為だ。
“魔物”は傷を周りの肉ごと爪で抉り取って投げ捨てた。傷は大きいが、こうでもしないと治りはしない。
ぐるりと辺りを見回すと、野盗達はうめき声を上げたまま誰も立ち上がる事が出来ず、村人は物陰から“魔物”の様子を伺っている。
闇を見通す“魔物”の目には村人達の怯えが見て取れた。
仕方の無い事だと“魔物”は大きく息をつく。耳に届く声を聞く限り、大きな怪我をした村人はもういないようだ。
“魔物”はセッドに心を飛ばし、自分を追わないように念を押すと、翼を広げると村から飛び去った。
「あの人達、全員兵隊さんに連れてかれたよ。怪我はしてたけど、誰も死んじゃった人はいないから……」
セッドは隣で穴を掘る“魔物”に言った。
あの夜から六日が経った。“魔物”の傷はまだ塞がりきっていないが、胴に三つも穴が開いたにしては治りが早い方であった。
セッドは沈んだ声で言葉を継いだ。。
「それで……村の近くに魔物がいるからって、討伐隊……出すんだって……《魔物狩人》を呼んで、ってお父さんが……」
“魔物”は心を飛ばし、セッドと名乗る魔物を宥めた。
人に追われるのはいつもの事だ。野盗が四翼鬼と言う名を知っていたのであれば《魔物狩人》達も知っているだろう。そうなればこぞってここへ来るはずだ。彼等にとって、“魔物”は金貨の山に等しい。
「でも、みんなを守ってくれたし、お父さんだって助けてくれたのに……」
セッドの手が掬い鍬を強く握りしめる。
“魔物”は自分がしたい事をしただけだと心で伝えると、手の土を拭ってセッドの頭を撫でた。
小さく頷くセッドは黙って穴を掘り続ける。やがて、人一人が入れるくらいの穴が出来ると、“魔物”は崖下の墓から本当のセッドの骨を移し替えた。
今度の墓は本当のセッドが落ちた崖からも離れた、見晴らしの良い岩陰に作った。一抱えもある岩が墓石の代わりだ。
土を埋め戻し花を添えると、“魔物”とセッドは瞑目した。
「言わなきゃいけないこと、あるんだ……」
ぽつりと、セッドと名乗る魔物は沈黙を破った。そして、前に言えなかった事を“魔物”に伝える。
殺されるかも知れなかったが、隠し続ける事はしたくなかった。
潤む声で全てを話し終えたセッドの肩に“魔物”は手を置く。小さく震えながら見上げるセッドを見つめ返し、ゆっくりと首を横に振る。
本当のセッドを殺した事を悔やみ、償いの気持ちをもった魔物に、“魔物”は何をするつもりもなかった。
「そうだ、これ……お礼、全然出来ないけど……」
セッドは肩にかけた鞄から包みを出すと“魔物”に渡した。
「結構上手く焼けてると思うから、良かったら……持って来れたの一個しかないけど……」
香ばしい匂いに包みを開けると大きなパンが一つ入っていた。
おそらく自分の昼食として持ってきたのだろう。“魔物”はパンを三つにちぎると、その一つをセッドに返した。
そしてもう一つは本当のセッドの墓に捧げ、残った一つを口にする。
あっさりとした塩の味がするパンは柔らかく、よく焼けていた。
セッドも“魔物”に倣ってパンを食べ始める。
「んぐ……うんっ、よかった。上手く焼けてる」
心を飛ばして礼を言うと、セッドはパンを口にしながら満面の笑顔を浮かべる。
“魔物”とセッドはパンを食べ終わると、言葉もなく見つめ合う。
季節一巡りは棲んでいたい場所ではあったし、セッドのこれからも気に掛かるが、村人達に存在を知られてしまってはここを去るしか無い。
村人達が“魔物”に怯えながら暮らすことは避けたかった。
“魔物”は四つの翼を広げながら心を飛ばして別れを告げ、最後に自分の願いを伝える。“魔物”を真っ直ぐに見つめたままセッドは強く頷く。
「うん。僕は最後までセダト・ユールとして生きたい。もう会えるか分からないけど……元気でね」
答えを聞いた“魔物”は頷き返し、翼を羽ばたかせて空へと舞い上がる。
また“魔物”の旅が始まった。
一作のみのつもりでしたが、ファイル整理でプロットが見つかったので書いてみました。
まだ幾つかのプロットがあるので、短編形式で書いていけたらと思っています。