雪乃
十二月二十四日、二年間付き合っていた彼氏に振られた。
理由は簡単、『他に好きな子ができた』そんな一言。
私は怒る気にも悲しむ気にもなれなかった。きっと私の方がもう終わりだと分かっていたから……。
今、彼との思い出の港公園に来ている。
彼と別れて私は初めて回りの景色に気がついた。
彼に夢中で見ることのなかった海、肩を寄り添って歩いた道、全てが違ってもの哀しく見える。
すぐ隣を歩いていったカップルに見とれた。決して羨ましく思ったわけではない。
ただ……バカに見えた。
私たちもあんなのだったのか、そう思うと思い出は色あせて幻滅した。
◆ ◆ ◆
初めてじっくりと見た公園の片隅に絵を書く男性がいた。
今までいなかったのかなと思ったけど違う。気づかなかっただけ。まるでその風景に溶け込むように座っているから……。
寝ているのかと思った。
だけど、うつむいていた顔は時々睨みつけるように港を見ていた。
「あの……」私はためらいもなく話しかけていた。
「はい」すると彼は待っていた、と言うような笑顔を向けてくれた。
「似顔絵ですね?」確かめるように聞かれたので、
「はい」私は彼に素直に従う。
イスに腰掛けるとそれはとても冷たかった。
青年は先ほどの瞳で私の顔を書き出す。
気づかなかった……。彼氏に夢中で気づかなかった。
こんなすぐ側に『きれい』と言う言葉が似合う男の人がいたなんて。
茶色がかかった髪は長い。女性とも見える顔立ちが妙に怖く見えた。
伏せたまつげが長い……。
無言の中、吐息だけが聞こえる……。
どんな私が現れるかなんて気にはならなかった。
ただ自分の顔が見たかった。
「お名前は?」
「え? ああ、ゆきの……雪乃です」私は抵抗も感じず答える。
「雪乃さん? 良いお名前ですね」柔らかい声でそう話を続けるが、手は休まない。
「雪の日に産まれたから雪乃。そのままでしょう?」私は苦笑する。
「でも素敵なお名前じゃないですか?」青年はまた睨み付ける様な真剣な瞳で私と手元を交互に見ながら言う。その間手は一度も休まない。
「……そう、ね。私は気に入っているわ」自分自身、信じられない言葉が出る。
「いい事だと思いますよ。自分の名前が好きだと言うのは」嫌味がなく心地好い声が初めて手を休めて響いた。
私を見つめるその瞳は、いつの間にか柔らかい笑みに変わっていた。
「ふふ、あなたは?」
「わたしですか? そう、ですね。気に入っています」再び視線を手元へ動かし、手も滑らかに滑る様に動き出す。
「なんてお名前?」人見知りの私が好奇心に襲われ、会話を続けたがっている。
「風月、と言います」
「かざ、つき? どう言う字?」
「フウゲツとも言いますね」青年は照れたように言う。
「風月! 変わったお名前ね」私はそう言いながら顔が和んだ。
「でも、絵を描いているあなたにはなんだか合っているわね」
「そう言われると、すごく嬉しいです」彼は言いながら鉛筆を置いた。
「出来ましたよ……。あ、でも、わたし絵の才能なくって……怒らないで下さいね」
そう前置きしてから青年は描いた絵を恐る恐る渡してきた。
私はそれを受け取る。そして出来たそれを見る。
鏡で見るようになんて事のない自分がいる。ただ、違うところが一つ……。
「な、何よこれ! 私、別に……」私は怒る、と言うより動揺をした。
「雪乃さん、わたしは心を描いているつもりです。本当の心の想いを……」
「嘘よ! そんな事ないわ」そう叫んで私は勢いよく立ち上がった。とても冷静でいられなかった。
「……心は嘘をつきません……」そんな私を見ながら青年は悲しそうに言う。
「お代は結構です。その代わり、その絵は持ち帰ってください」
荷物をしまいながら彼はそれ以降私と目を合わさなかった。
そしてその場から姿を消した。
「嘘よ。私、こんなんじゃないわ……泣いたりなんかしない、強い女なのよ」
私は自分の絵を固く握り締めた。
頬に何かが伝わる。暖かいがヒヤリと冷たい、何かが……。
「私は泣いてない、泣いてないわ……」
振ったのは私の方なのよ、そう思うことで耐えて来た心が潰された気がした。
彼と駄目になりそうな気がしていた。こうなることはわかっていた。そう思い込んでいた心がとても強い手で壊れてしまうほど潰された気がした。
後から後から頬に伝ってくるものなどない。私は強い女だから……。
それでもあの人は私の本心を見抜いていたのか、私の孤独を見抜いていたのか。
私の手によって固く潰された紙の中で、いるはずのない私がいた。
◆ ◆ ◆
二十五日、午前一時。私は家に帰ったが歓迎はされなかった。
「あら、おかえり」
「ただいま、邪魔して悪いわね」私は嫌味を込めて言ったが母親は憎たらしい。
「全くだわ。今日は泊まって来るんじゃなかったの?」
「中止になったのよ」私は二人の間を堂々と通って台所へ行く。
「はは、振られたんでしょ」母は男の首に手を回しながら言った。
「さ、さちこさんっ」男が慌てた声を出して母の手を解こうとする。
「気にしないで続けてよ。私は気にしないから」冷蔵庫から飲み物を物色して抱える。
「ちょっとはうろたえて見たらどう? 本当可愛くない子ね」
私はその言葉をシカトし、そのまま二階へとあがる。
片手にはジュース、に見えるカクテルを持って。
クリスマス・イヴだってのにシケた夜だった。一人で酒を飲んで過ごすなんて。
と言ってもこれが当たり前。十六年間生きてきて物心ついた時からそう。
私は帰り際買った一切れのケーキを皿に盛った。
電気を消してローソクを一本立てる。
「ハッピーバースデイ、雪乃。十七歳だね」
クリスマスが何だってんだ。キリストの誕生日がどうした。
私は自分で自分を励ましケーキを口に運ぶ。
ここのケーキは最高に美味しかったはずなのに、どんなケーキよりまずく感じた。
「はは、誰かヘタクソな奴がつくったのかな」もう一口運ぶ。それでもどうしてもまずかった。
「やってらんないな、テレビでもつけるか」私はひとり言をつぶやきながらリモコンを持つ。
テレビの音を大きく、大きくする。
そうしてからポケットの中からくちゃくちゃになった一枚の紙を出す。
中では私によく似た少女が本当に、本当に悲しそうに泣いている。
しばらくするとドタドタと上品とは言えない足音が近づいてくる。
ドアの開く音と共に、雑音が響く。
「ちょっとあんた! テレビ見るのも良いけど、もっと静かに……」
「うるさいな!」怒鳴りながら私は母の方を見た。
すると母は無言で化け物でも見るような目で私を見つめ返した。
「なによ!」私はいらつきながら母を睨んだ。
「雪乃……」雪乃!? 久しぶりに自分の名前を呼ばれたような気がする。
「雪乃……」驚いた。自分の名前がこんなに響きのいいものだったなんて気がつきもしなかった。
「分かってるわよ」私はわざとらしく母に背を向けた。
母に名前を呼ばれて感動してる自分など気づかせるものか。
手探りでリモコンを探す。目がなんかぼやけてる。
コンタクトが曇ったかなって思った。
でも、母の後ろからの暖かい手によって分かった。
自分は泣いている! 母の前で!
恥ずかしい。よりによってこの相手に弱みを見せるなど。
「おっどろいたぁ、あんたの泣き顔なんて何年振りかしら」母はからかい口調ではなく、しみじみと呟いた。
「昔は泣き虫だったのにねぇ。今なんて全然泣かなくなって可愛くなかったのに」
「・・・・・・・・・」
「不覚にもびびったし、可愛くも思ってしまった……」そう言って私を正面に向かせ、母は笑った。
その笑顔が心からの本心で、しかも私まで愛しく思ってしまったものだから、なんか変。
「やっぱり私が腹痛めて産んだ子だものね……」そう言って頭を撫でられたものだから、私はたまらなくなって泣いた。
わんわん泣いた。
まるで奇声を上げてるいるように、悲鳴を上げているように泣きまくった。
そして母はそんな私に何も言わず、そっと抱いて、撫でていてくれた。
ちょっと驚いたけど、やっぱり親子なんだなって再確認した。
母の腕の中が幸せに思えたのは、やっぱり私は母が好きだからかな……なんてね……。
◆ ◆ ◆
その後私はたくさん寝て、夕方にまた港公園へと足を向かわせた。
風月さんにまた逢いたいと凄く思った。
何か言ってやろうとかそんな事は思っていなくて、ただ、純粋に逢いたかった。
もしここで風月さんに逢っていたらどうなっていたんだろう。
風月さんはなんて言っただろう。
だけど結局、風月さんには逢えなかった。
その代わり彼のいた場所に一つの小包が置いてあった。
宛て先に雪乃さんへと描かれた一つの小包。
私は戸惑うことなくそれを開ける。
その中は一枚のキャンパス。
似顔絵とは違い、しっかりと色も塗られた立派な絵。
私によく似た少女が私にとびっきりの笑顔を向けてる。
そして下の方には著名と、メッセージ。
『雪乃さんの心が、こうでありますように・・・風月』
自然と笑顔が浮かんだ。
そしてその絵を抱きしめ思った。
あの人は私に笑顔を取り戻してくれた、天使だったのかな? って……。