第7話 依頼
サンタモニカの空は、暴力的なまでの白さで街を焼き、すべてをクリーンに照らし出していた。
海からの乾いた風がパラソルを揺らすカフェのテラス席で、アリア・シズク・ウォーカーは四本目のビールをゆっくりと喉に流し込んでいた。
「……それで、次はどんな厄介事なの? アリア」
正面に座るUSCIB(統一国家刑事局)のチーフ、クロエ・フォン・ヴァレンティーヌが、眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら尋ねる。
クロエの整った顔立ちには、職務の重圧が影を落としていたが、幼馴染であるアリアの前でだけは、その警戒心が僅かに緩んでいる。
「次のお客様は画商さんよ、クロエ。ベバリーヒルズに立派な画廊を構えている、ワン・ウェイファン。……表向きの依頼は、盗まれた名画の捜索。でもね、提示された報酬が破格すぎるのよ」
アリアは、冷えたグラスの結露を指先でなぞりながら、声を潜めた。
「契約前の打ち合わせで、画廊の事務室をスキャンしたけれど、物理的な不審点は見当たらなかったわ。でも、私の(デバイス(電脳)が導き出した結論は、彼が『嘘をついている確率89%』。……あの男、ただの画商じゃない。まぁ、何が怪しいかはさっぱりだけどね」
「……気をつけなさいよ……貴女が簡単にやられるわけ無いのは知っているけど」
クロエが、生身の指でカップを握りしめる。
アリアが軍を辞めた理由。
それは、仲間を最強のサイボーグ作成の土台としてしか扱わない、特務という組織の非道に絶望したからだ。
アリアは、そんな親友を安心させるように、可愛らしく微笑んで見せた。
「世間様は、私が『難しい依頼』しか受けない変わり者だと思っているみたいだけど、ちょうどいいわ。難解な事件を追っていれば、誰も私たちが本当は何を追っているか気づかない。……今回の件、あなたの協力も必要になるかもね」
「もちろんよ。私がUSCIBにいるのは、そのために他ならないんだから」
午後三時。
アリアはベバリーヒルズの一角にある、豪奢な画廊『ランタン・パレス』を訪れていた。
出迎えたのは、仕立ての良いシルクのスーツを脂肪で膨らませた、中国系の男、ワン・ウェイファンだった。
「おやおや、ようこそお越しくださいました。アリア・シズク・ウォーカー様。……私の切実な願いを聞き入れてくださり、感謝の言葉もございませんな」
ワンは脂ぎった顔に、揉み手をして卑屈な笑みを浮かべた。
その手には、象牙で装飾された扇子が握られ、絶え間なくパタパタと空気を掻き回している。
「とんでもございません、ワン様。名画の捜索は探偵としての誇りにかかわる仕事ですわ。微力ながら、精一杯務めさせていただきます」
アリアは、お嬢様のような淑やかな物腰で一礼した。
だが、網膜の裏側では、軍用センサーが画廊の隅々までを舐めるようにスキャンし続けている。
「……まずは、現場の状況を把握させていただきたいのですが、よろしいかしら? 事務室、オーナー室、それから作品が保管されていた倉庫も拝見させてくださいませ」
「ええ、ええ。もちろんですとも。どうぞ、ご自由に。……ああ、何という災難。あの『赤い聖母』は私の魂も同然だったのです」
ワンは扇子で顔を仰ぎながら、大袈裟に嘆いて見せた。
アリアは「おいたわしいことですわ」と相槌を打ちながら、まずは事務室へと足を踏み入れた。
事務室の空気は、不自然なほどに清浄だった。
続いて訪れたオーナー室。
壁には一級品の美術品が並んでいるが、アリアの網膜ディスプレイには、電力ラインの異常な集中が赤く表示されていた。
「ワン様、素晴らしいコレクションですわね。……でも、これほど厳重なセキュリティを掻い潜って、絵だけを盗み出すなんて、よほどの手練れですわ」
「左様です。ですから、あなた様のような専門家のお力が必要なのです」
ワンの言葉に、電脳のアラートが「92%」に跳ね上がった。
最後に、アリアは地下の巨大な倉庫へと案内された。
重厚な防潮扉が開き、冷え切った空気が肺を満たす。
アリアは、絵が掛けられていたという空の額縁の前に立ち、しなやかな動作で膝をついた。
いくつかの怪しい痕跡はあるが、何かに繋がると言えるものでは無かった。
「ああ、そうでした。自慢の庭園もご覧になりますか? 泥棒が逃げた足跡でも残っていればよろしいのですが」
ワンの誘いに、アリアは淑やかに頷いた。
「ええ、ぜひ拝見させていただけますかしら。ワン様」
案内された庭園は、ベバリーヒルズの喧騒を忘れさせるほどの静寂に包まれていた。手入れの行き届いた芝生、計算し尽くされた配置の石、そして季節外れの鮮やかな花々。
だが、アリアの網膜スキャンは、その美しさの裏側に潜む「過剰なまでの拒絶」を即座に感知した。
植え込みの陰、灯籠の隙間、果ては樹木の枝先に至るまで。
設置されているのは、最新鋭の動体検知センサー、赤外線レーザー、そして空気中の密度変化を読み取る超音波ソナーの群れだ。
(……異常だわ。個人の画廊が持つべきレベルを超えている。まるで、重要機密を保管する軍のバンカー(地下壕)じゃない)
アリアは、お嬢様のような足取りで芝生の上を歩き、時折、花を愛でるように腰を落とした。
網膜ディスプレイには、庭園の全方位から放たれる目に見えない網が、幾重にも重なり合って表示されている。
だが、それでも――。
『――不審点、検出不能。システム、完全なクリーンを維持』
電脳の無機質な声が、アリアの脳内に響く。
これほどのセンサーを配しながら、外部からの侵入痕も、内部からの不自然な移動ログも、一切記録されていない。
物理的な証拠は、文字通り「存在しない」ことになっていた。
「……あ、申し訳ございません。事件の後、あまりに汚れていたもので、使用人に命じて徹底的に『お掃除』をさせてしまったのです。お役に立てず、心苦しい限りですな」
ワンは脂ぎった顔を扇子で仰ぎながら、わざとらしく肩を落として見せた。
掃除。
その言葉が、アリアの脳内で鋭い警報を鳴らした。
(……掃除をしたのは、庭の泥汚れじゃない。データの『足跡』を、物理的な証拠ごと、プロの手口で消し飛ばしたってわけね)
アリアは立ち上がり、ふわりとスカートの裾を整えた。
これほど過剰な防衛網を敷きながら、何一つ不審点が見つからない。
その「完璧な空白」こそが、何よりも饒舌に真実を語っていた。
「いいえ、ワン様。素晴らしいお庭ですわ。……これほど完璧に管理されているのでしたら、犯人はきっと、影も形も残さずに消えてしまったのでしょうね」
アリアは、ワンの目を真っ直ぐに見つめた。
スキャン結果に不審点は無い。
だが、彼女の電脳が弾き出す確率は、冷酷に更新される。
【判定:虚偽の可能性 95%】
(……いいわ、ワン。あなたが何を隠しているのか……探してみるまでよ)
「さあ、ワン様。名画の行方について、もう少し詳しく事務室でお話を伺ってもよろしいかしら? ……二人きりで、じっくりと」
アリアは可憐な微笑みを浮かべたまま、左利き用の相棒―― S&W M649-Cリボルバーのグリップに、意識の焦点を合わせた。
サンタモニカの陽光が、彼女の白い人工皮膚の上で、一瞬だけ鋭利な刃のように閃いた。
ベバリーヒルズの午後の陽光が、豪華なオーナー室の調度品に反射してキラキラと輝いている。
アリア・シズク・ウォーカーは、目の前のデスクに置かれた小型アタッシュケースの中身――電子キャッシュの額面を、瞳を丸くして見つめていた。
「まあ……! ワン様、これほどまでの金額、本当に私が受け取ってよろしいのかしら? まだ何も、成果を上げておりませんのに」
アリアは、幼い子供が宝物を手に入れた時のように、両手を頬に当てて歓喜の表情を浮かべてみせた。
その動作は過剰なほどに「無知で強欲な小娘」を演じているが、網膜の裏側では、ワン・ウェイファンの生体ログを冷徹に解析し続けている。
【判定:対象の言動における真実率 100%(項目:絵画の捜索願望)】
(……あら。意外ね。この太った画商、絵を必死に探しているのだけは「本当」だわ)
先ほどまで、すべてが嘘だと告げていたアラートが、この一点においてのみ、真っ白な真実を指し示している。
何かを隠しているのは間違いないが、彼にとって「盗まれた絵」を失うことは、彼なりに切実な問題なのだ。
「ハハハ、もちろんですとも。アリア様のようなお美しい探偵さんには、それなりの誠意を見せねばなりませぬ。……ただ、万が一、万が一ですぞ? 捜索が失敗に終わった際、あるいはこの件で外部に余計な口を滑らせるようなことがあれば……その時は、このお金は『口止め料』として、死ぬまで懐にしまっておいていただきたい」
ワンは脂ぎった顔を扇子で隠し、三日月のような細い目でアリアを覗き込んだ。その声には、先ほどまでの卑屈な笑みとは違う、明確な「圧力」が混じっている。
「口止め料……? まあ、ワン様、そんな物騒な言い方をなさるなんて。……私、秘密を守るのだけは得意なんですの。こんなに素敵なお金をいただければ、誰にもお話しなんていたしませんわ!」
アリアは、天真爛漫な笑い声を上げた。
無知な女、金に目が眩んだ小娘。
ワンの脳内に、そのような「安心感」を植え付けるための完璧なパフォーマンスだ。
(……いいわ、ワン。たっぷり安心してちょうだい。あなたがそこまで必死に探しているその絵に、何が隠されているのか。私が「無知な探偵」として、全部暴いてあげるから)
アリアは、ワンに恭しく見送られながら画廊を後にした。
車に乗り込み、扉が閉まった瞬間。
彼女の顔から、可憐な少女の擬態が消え失せた。
(ワン・ウェイファンは真っ黒だけど、絵を探しているのは本気ね。……不自然なほど完璧に清掃された庭に、過剰なセンサー群。何かを隠しているのは間違い無さそうね……)
アリアは、左手の指で内腿のS&W M649-Cリボルバーの冷たい感触を確かめた。
右手のオルトロスは、まだその牙を隠している。
「これから、あの名画が最後に経由したとされるロサンゼルスの地下オークション会場を洗うわ」
クロエにメッセージを送ると、アクセルを踏み込む。
天使の街の陽光は、彼女の行く先に、長く、そして暗い復讐の影を落としていた。




