第5話 ケルベロス
降りしきる酸性雨の中、カイン・ヴィラールは泥濘に膝をつき、目の前の凄惨な「結果」を見つめていた。
だが、彼の思考を占めていたのは、目の前の肉塊に対する同情ではなく、あまりにも不可解な「数」への不信感だった。
2489年のニューヨークにおいて、サイボーグによる凶悪犯罪は本来、統計学的に見て「レア(稀)」な事象である。
全身換装という行為には、莫大なコストが掛かる。
それだけでなく、政府による厳格な個体登録と、常時監視に近いID紐付けが全市民に義務付けられていた。
たとえ法を潜り抜けるイリーガルな個体であろうと、高額なパーツを調達し、複雑な骨格や神経系の換装を完遂できる闇医者を雇うには、通常の一個人が支払える額では無い。
USPAの現場において、当務一回につき一件のサイボーグ事案があれば多い方。
それが、カインがこれまでのキャリアで積み上げてきた「常識」であり、街の平穏を支える物理的な壁でもあった。
しかし、この夏は異常だ。
降り続く酸性雨が街の輪郭を溶かすように、犯罪の境界線もまた、制御不能な領域へと溶け出していた。
USPA(統一国家警察局)ニューヨーク支部。
カインは、自身の網膜データから吸い上げたログを、メイン・コンソールのホログラム・ディスプレイに展開した。
青白い光が、無機質な取調室の壁を不規則に走る。
「……これだけか」
カインの声に、苦い落胆が混じる。
網膜スキャンが捉えた情報は、あまりに断片すぎた。
照合率23.45%というノイズだらけのDNAデータ、そして狙撃手が使用していた『ボリアス 7.62mm』の調達元。
それらは点と点で結びつくことを拒絶し、暗黒の海に浮かぶ瓦礫のように散らばっている。
現場の遺体は、時限式の気化高濃縮酸によって、すでに炭素の塊と粘つく廃液へと成り果てていた。
骨格のシリアルナンバーも、内蔵されていたチップの製造履歴も、すべては化学反応の果てに消滅したのだ。
「武器の照合結果が出たぜ、カイン」
ラザロが、ホログラムの端に赤い「Error」の文字を叩きつけた。
「ボリアス狙撃ライフル、販売元不明。……結果は『未登録』だ。軍の横流しか、あるいはどこかの地下工房で組まれたプロトタイプか。どっちにしろ、このデータベースには存在しない『幽霊』だそうだ」
すべては酸で溶かされ、証拠は「未登録」という文字で切り捨てられる。
カインは、ディスプレイに映るショーン・ハリスの不完全な顔写真を見つめた。
前科二犯、虐待歴有。
そんな「小悪党」が、なぜ軍用規格の『M』や狙撃チームとリンクしていたのか。
システムが「嘘」をついているのか、あるいは「真実」そのものが書き換えられているのか。
カインの強化眼球の奥で、未登録を告げるアラートが、静かに、そして執拗に明滅を繰り返していた。
USPA支部の喧騒は、深夜になっても止むことはない。
カインは冷え切ったコーヒーを口に含み、ホログラム・ディスプレイに表示された「未登録」の文字を、執拗に見つめていた。
現場で溶け落ちた偽装家族。
0.003%という不気味な適合率。そして、自分を狙った精密な狙撃。
「……何を考えている、カイン」
背後から声をかけたのは、ラザロだった。
彼は生身の右手で、自分の首筋を乱暴に揉んでいる。
「この件、ストライカー・チーフ(警部)から『深追いするな』とのお達しだ。海軍の中佐殿は別の場所で生存が確認された。現場の遺体は、身元不明の不法居住者による『偽装自殺』で処理される」
「……茶番だな、ラザロ」
カインは視線を動かさず、低く答えた。
脳内では、あのアパートの四階で弾け飛んだ狙撃手の頭部骨格が、スローモーションで再生されている。
イリーガルパーツを纏いながら、中身はどこか軍の影を宿した怪物。
その頃、ニューヨークの閑静な高級住宅街。
月光に照らされた美しい庭を持つ一軒の邸宅では、一人の男が幼い娘を寝かしつけ、寝室のドアを静かに閉めていた。
彼は整った顔立ちに穏やかな微笑を浮かべ、愛する妻が待つリビングへと戻る。
「今日も遅かったわね、あなた」という妻の問いに、「ああ、少し軍の予算編成で手間取ってね」と、優しい声で嘘を吐く。
彼はソファに深く腰掛け、手元の端末を私的な回線へと切り替えた。
画面には、カイン・ヴィラールが現場でリヴァイアサンを構える瞬間が、狙撃手の視点ログとして記録されていた。
「……エクスキューショナーか……」
ゾドリゲスの瞳から、父親の慈愛が完全に消え失せた。
そこにあるのは、システム上のエラーを排除しようとするプログラマーのような、無機質な殺意だ。
「厄介だな……」
ゾドリゲスは端末を閉じ、再び「良き夫」の顔に戻って、妻が淹れたハーブティーに手を伸ばした。
USPA支部の地下、蛍光灯の青白い光が降り注ぐ鑑識課。
そこには、現場から回収された「唯一の物理的証拠」――あのヘドロにまみれた皮膚の断片が、真空パックの中で無機質に転がっていた。
若い女性鑑識官、ナタリーは、顕微鏡のモニターを指先で弾き、大きなため息をついた。
「ねえ、カイン。いい加減にしてよ。……こんな細胞片、何の証拠になるって言うのよ。DNAはショーン・ハリス、組織構造もただの表皮。異常なし。完・璧・に、ただのゴミよ」
ナタリーは、ポニーテールを揺らしながら、不機嫌そうにカインを睨みつける。
彼女の背後の大型演算機は、数百万通りの生体パターンを照合し終え、無慈悲な『Match Found(照合完了)』の緑色の文字を出し続けていた。
「……ショーン・ハリスは洗ったか?」
カインが低く、地を這うような声で確認する。
ナタリーは鼻で笑い、手元の端末を乱暴に操作する。
「もちろんよ。前科二犯、傷害に公務執行妨害。……あ、でもこれ見て。一年前、スラムの路地裏で薬物の過剰摂取による事故死。遺体は当局によって焼却済み。戸籍上は、とうに消えてる男よ」
ナタリーは当然のように言い放ち、再びキーボードを叩いた。
「よくある事じゃない。組織が死んだ人間のIDを買い取って、別のジャンキーに被せる。……だから言ったでしょ? これはただの『使い捨ての小悪党』の成れの果て。調べてるだけ時間の無駄よ。非番なんだから、さっさと帰ってアンバーちゃんのハンバーガーでも食べてきなさいよ」
ナタリーは強制的に解析プログラムを終了させた。
カインは何も答えず、背を向けて鑑識課を後にした。
重厚な自動ドアが閉まる音。
静まり返った廊下を歩きながら、カインの右眼の奥で、激しい警告音が鳴り止まない。
(……死んでいる。一年前にな)
ならば、現場に落ちていたあの「新しい皮膚」は、一体誰のものだったのか。
死者のDNAを纏い、死者の指紋を刻み、生きた人間としてカインたちの前に立っていた「何か」。
それは、既存の法執行機関が信奉する「生体データ」という聖典が、もはや紙屑に過ぎないことを意味していた。
カインの運転するパトロールカーが、郊外の静寂の中に消えていく。
「カイン、あまり思い詰めるな」
ラザロ・スタインは、独り一戸建ての自宅へと足を踏み入れた。
郊外にあるこの邸宅は、一人で住むには広すぎたが、売却することなど考えられなかった。
ここには、思い出が深すぎる。
玄関を開けた瞬間、いまだに新婚当時と変わらぬ、妻ジェシカの残り香が鼻腔をかすめるような錯覚に陥る。
彼女は、結婚して間もなく殺された。
犯人のイリーガルはいまだに手配中であり、ニューヨークのどこかにある闇の底で、のうのうと生き延びている。
その事件こそが、ラザロを「怪物」へと変えた。
犯人の放った弾丸は、ラザロの顔面を砕き、肺を執拗に打ち抜いた。
常人であれば即死して当然のダメージ。
だが、彼は死ななかった。
犯人への呪詛と執念だけで、血の海の中で心臓を動かし続けたのだ。
数ヶ月の昏睡から目覚めた時、ラザロの全身はUSPAの最新鋭技術によるフルサイボーグへと換装されていた。
そして、目覚めた彼に冷徹に告げられたのは、最愛の妻の死という、取り返しのつかない現実だった。
復讐のために再構築された男。
そうして完成したのが、エクスキューショナーの中でも最恐と謳われるカインとのコンビだ。
今では、ダウンタウンのどんな不法地帯を歩いても、悪党どもは二人の姿を見た瞬間に逃げ出すか、媚びを売って機嫌を取ろうとする。
街を牛耳る組織の幹部たちですら、ラザロが放つ威圧感の前では、プライドを捨てて土下座することすら厭わなかった。
だが、どれほどの戦果を上げ、どれほどの悪党をACHR弾(対サイボーグ重量弾)で粉砕したところで、胸の奥に空いた巨大な穴が埋まることはない。失った妻という真実が、すべてを虚しく感じさせるのだ。
「……ジェシカ、今夜も雨だぜ」
主のいないリビングに、鋼の喉から絞り出された掠れた独白が落ちる。
これから一日半の非番。
捜査官としての緊張を解くことは、彼にとって「人間」の感覚を繋ぎ止めるための苦行に近い。
ラザロはベッドに横になると神経インターフェースをオンライン接続した。
「生体パーツ、リブート(再起動)モード。開始」
網膜に走るシステムログ。
彼は三時間の完全な睡眠に入る。
外部のノイズを一切遮断した、死よりも深い眠り。
だが、意識が電子の深淵に沈み込む間際、ラザロはいつも、砕かれる前の自分の顔と、隣で微笑むジェシカの幻影を追っていた。
三時間の「死よりも深い眠り」から引きずり出されるように、ラザロ・スタインは意識を浮上させた。
再起動モードが終了し、網膜にグリーンのシステムログが流れる。
彼は重い身体を起こすと、浴室へと向かった。
熱いシャワーを、あえて生身の部分が多い右肩と、人工皮膚で覆われた無機質な背中に叩きつける。
皮膚のセンサーが熱を感知し、脳へ「覚醒」の信号を送り届ける。
タオルで手早く水分を拭うと、彼はリビングへと戻った。
リビングのテーブルには、すでに一本目のビールがテーブルの冷却台の上に置かれている。
冷えた缶のプルタブを引き、喉を鳴らして流し込んだ。
「……来ないな。ピザの配達も、平和な時代も」
独り言を吐き捨て、ラザロはテーブルの上に広げたオイルの染みたクロスに視線を落とした。
そこには、USPA(統一国家警察局)が誇る面制圧用の「怪物」が、分解された状態で鎮座している。
ヴォルカヌス・アームズ VA-92 "ケルベロス・ゲートキーパー"。
対サイボーグ用セミオートマチック・ショットガンだ。
ラザロは手慣れた手つきで、銃身下部のチューブマガジンを点検し始めた。
この銃の装弾数は五発。
通常の散弾ではなく、単発の巨大なタングステン塊――ACHS弾(対サイボーグスラッグ弾)をオート射撃で叩き出すために設計された、文字通りのマシーンキラー(機械人殺し)の道具である。
ガス圧利用式の作動機構は、一発の衝撃で軽量級サイボーグの装甲を紙細工のように引き裂き、内部の生体ユニットを衝撃波ごと粉砕する。
その代償として、射撃時の反動は物理法則の限界に近い。
銃身下部の大型マズルブレーキから高圧ガスを噴射して跳ね上がりを抑える設計だが、強化腕部パーツを持たない生身の人間が引き金を引けば、肩の関節は一撃で粉砕されるだろう。
ゆえに、この兵器のライセンスは【CLASS-A: FEDERAL ONLY】。
法執行機関、あるいは軍属以外の所持・販売は一切不許可となっている禁忌の品だ。
ラザロは生身の右指でボルトキャリアの滑りを確認し、左の鋼の指でバネのテンションを調整する。
かつてジェシカと暮らしていた頃、このテーブルの上にあったのは、彼女が選んだ花瓶や、手作りの朝食だった。
今、そこにあるのは、自分を「死神」として繋ぎ止めるための、黒光りする冷たい鉄の塊だけだ。
ビールの二缶目を開けた時、玄関の呼び出し音が鳴った。
ピザが届いたのだ。
合成肉と化学調味料の塊。
ラザロは組み立てたばかりのゲートキーパーのボルトを一度引き、重厚な金属音を室内に響かせた。
ガチリ、というその音は、まるで自分の中に残るわずかな「人間」の情動を、再び冷徹な「機能」へと閉じ込める合図のようだった。




