第2話 朝食
「ジャンズ・ダイナー」の店内は、安っぽい合成洗剤の匂いと、焦げすぎたパテの脂の匂いが混じり合い、湿った熱気がどんよりと停滞していた。
カイン・ヴィラールとラザロ・スタインは、店の隅にある、スプリングの死に絶えた赤いビニールシートのボックス席に深く身を沈めていた。
窓の外では、酸性雨が絶え間なくネオンを滲ませ、ニューヨークの汚れきった横顔を歪んだ色彩で塗りつぶしている。
カインは重厚なアノラックを脱がず、襟を立てたまま、運ばれてきたハンバーガーを無造作に掴んだ。
「……なぁ、カイン。いい加減、その『シニアサージェント』っていう呼び方はやめろ。バディだ、ラザロでいいと言ったはずだぜ」
ラザロが、生身の右手で汚れたコーヒーカップの縁をなぞりながら、低い声で言った。
「階級は、俺たちがまだ人間の社会に属していることを証明する数少ない記号だ。……だが、分かったよ、ラザロ」
カインにとって、この「食事」という行為は、自分がまだ機械になりきっていないことを確認する儀式に近い。
熱いパティの肉汁と、少し酸味の効いたピクルスの刺激。
それを受け止める生身の胃袋が、消化という原始的な生命活動を営む感覚。
その微細な内臓の動きが、最新鋭の神経リンクを通じて脳へとフィードバックされる。
「……美味いな。アンバー、ソースを変えたか?」
「正解! ちょっとだけスパイスを足してみたの。さすが最新型、分析能力も一流ね」
アンバーがカウンター越しに、いたずらっぽく笑う。
空になったコーヒーポットを抱えてやってきたのは、アルバイトの少女、アンバー・マクレーンだった。
まだ十代後半の若さだが、彼女の両手首から先は、高度な人工生体パーツによって構成されている。
かつて犯罪被害に遭い、失った両腕を補ったものだ。
最新の擬似皮膚と生体筋肉を多用したその腕は、一見すれば生身の少女の腕と何ら見分けがつかない。
彼女がコーヒーを注ぐためにポットを傾ける際、その細い手首が描く曲線には、機械特有の無機質さは微塵も感じられなかった。
だが、彼女のパーツはあくまで「一般市民用」の通常規格であり、法執行機関が使うような出力も武装も備えていない。
ただ、日常生活を人間らしく送るためだけに調整された、高価で繊細な代物だった。
「アンバーか。……今日も忙しそうだな」
ラザロが、バーガーの包み紙をトレイに投げ捨てながら言った。
その屈託のない笑顔は、ネオンと酸性雨に汚れたこの街において、唯一カインが安らぎを覚える「聖域」だった。
「俺は舌までマシーンになったわけじゃない」
カインは不満げに、ハンバーガーを片手にアンバーを横目で覗き込んだ。
「50年前まではあった『生肉』が手に入れば、もっと美味かったらしいがな。……まあ、お前の作るこれに文句があるわけじゃない」
50年前――2439年。
世界統一政府が誕生し、表面上は地図から国境という境界線が消え失せた年だ。
しかし、人類が手に入れたのは平和などという高潔なものではなかった。
統一国家という巨大な装置の影で、極東や中東の紛争地帯では依然として、利権とサイボーグ技術を巡る血なまぐさい内戦が、形を変えて、より効率的に続いている。
世界統一という名の戦禍が吹き荒れた際、効率の悪い畜産文化は真っ先に姿を消した。
今や世界を席巻しているのは、栄養価だけを最適化した無機質な「合成肉」という名の偽物だ。
「国境がなくなったおかげで、イリーガル・パーツの流通だけは多くなったもんだ」
ラザロが冷笑を浮かべ、自分のバーガーに手を伸ばした。
「軍や警察が職務のためにサイボーグ化するのはまだ理解できるが、近頃の違法サイボーグの増え方は異常だ。特に、あの連中……」
「富裕層、だろう?」
カインが言葉を引き継いだ。
「ああ。死への恐怖に駆られた金持ち共の『不老不死目当て』の換装。あれが一番タチが悪い。生身の限界を否定し、脳の劣化を止めるために、平気で法を無視して禁忌に触れる。奴らにとって、サイボーグ化はただのアンチエイジングなんだ。機械の体に永遠を求めて、結局は電脳薬物の快楽に溶けて消える。……皮肉な話だ」
ラザロがそう言って肩をすくめた時、軽やかな足音が近づいてきた。
「まだ物騒なランチタイム続けてるの?お二人さん」
「アンバーか、それより忙しそうじゃないかな」
「忙しくなきゃ、パーツのメンテナンス代も払えないもの。……あ、そういえば聞いた? うちの実家の方に、とんでもないのが入ったわよ」
アンバーが、生身にしか見えない指先で空のカップを指した。
彼女の実家はこのダイナーからも近く、我々のような法執行機関が「馴染みの店」として利用する老舗のガンショップだ。
「うちの親父が自慢げに整備してたわ。新型のボルトアクション拳銃。『ヘカトンケイル・アームズ LV-04 ベヒーモス』だったかしら?対サイボーグ用のEX弾頭を四発装填できる、単発火力の権化みたいな化け物よ」
アンバーの声は軽やかだが、その言葉に含まれる意味は重い。
カインの眼球システムが、瞬時にデータベースからそのスペックを検索し、仮想の設計図を網膜上に展開した。
「ベヒーモス……噂には聞いていたが。拳銃のサイズで、大口径ライフルの衝撃を吐き出すのか。それをボルトアクションで四回、手動装填で叩き込む、か」
カインが呟く。
「撃ってみたいが、嵩張るな。それに、生身の腕なら一発で肩から先が消し飛ぶ代物だ。まさに、サイボーグしか撃てない反動の塊だな」
「あんたたちみたいな『エクスキューショナー』なら、片手で扱えるんじゃない? うちの親父も、あんたたちが来たら見せてやるって言ってたわ」
アンバー・マクレーンは、生身と変わらぬ柔らかな微笑みを浮かべ、ラザロのカップにコーヒーを注ぎ足した。
彼女の動作はどこまでも人間らしいが、カインの強化眼球には、彼女の擬似皮膚の下を流れる電気信号の微かな拍動が見えていた。
「一撃で黙らせる必要があるときには、選択肢に入るかもしれん」
カインは、自分のSA-89リボルバーの重みをミリタリーコート越しに感じながら答えた。
「だが、銃の力に頼りすぎるのは、俺たちの流儀じゃない。引き金を引くのは、あくまで俺たちの意志だ。……そうだろ、ラザロ?」
「ああ。……だが、あの『M』の刻印を持つ奴らが相手なら、ベヒーモスのような『怪物』を懐に忍ばせておくのも悪くないかもしれねえな。アンバー、後で寄らせてもらうと伝えておけ」
ラザロの声には、湿った雨のような湿度が混じっていた。
もし、敵の骨格フレームがコード『M』を冠する代物であるならば、標準的なACHR (対サイボーグ重量弾)では、もはや心許ない。
『M』が誇る剛性は、巷に溢れるイリーガル・パーツのそれとは文字通り別次元なのだ。
しかし、このライフル規格を力ずくでねじ伏せる『ベヒーモス』……20mm APHE(徹甲炸裂弾)を撃ち出すこの怪物ならば話は別だ。軍用規格のスケルトン(超タングステン合金骨格)であっても、一撃の下に粉砕し、内側から消滅させることができるだろう。
外では、依然として酸性雨がニューヨークの街を、汚れごと塗りつぶそうとしている。
合成肉のハンバーガーと、苦いコーヒー。
そして、アンバーが持ってきた、実家の店に並ぶ「死」の最新技術。
「……美味かったぜ、アンバー。次はもう少しマシなオニオンを入れてくれって、店主に言っておいてくれ」
カインが席を立ち、指先を店のドアに内蔵されている金属片に触れて電子脳端末から支払いを済ませた。
「善処するわ。……死なないでよ、二人とも。ツケが溜まると困るから」
「アンバー、また来るぜ」
ラザロが、馴染みの客らしいぶっきらぼうな気安さで手を上げた。
アンバーは生身の少女と変わらぬ柔らかな仕草で、空のカップをトレイにまとめ、白い歯を見せて笑い返した。
二人がダイナーの外に出る時、ラザロが隣を歩くカインの横顔を、ニヤついた表情で覗き込んだ。
「なぁ、カイン。いい加減、アンバーに『俺と付き合ってくれ』って言ったらどうなんだ? 」
カインの歩みが一瞬だけ止まった。
アノラックの襟に隠れた首筋が、僅かに強張る。
彼は感情を排したはずの強化眼球をラザロに向け、低く、警告を含んだ声を出した。
「……おい、怒るぞラザロ」
「ははっ、図星か。生体パーツに換装しても、照れ隠しの演算までは制御できないらしいな」
ラザロが追い打ちをかけるように笑い声を上げたその時、カウンターの奥でポットを片付けていたアンバーが、悪戯っぽく身を乗り出した。
彼女は少しだけ照れた様子で、それでいて蠱惑的な微笑みを浮かべて二人を見た。
「あら、ラザロさん。私ならカインのお誘い、いつでも大歓迎よ?」
「……アンバー……?」
思わぬ方向からの援護射撃に、カインは言葉を失い、絶句した。
そんな彼の戸惑いを楽しむように、アンバーはカウンターに肘をつき、いたずらっぽく、そして可愛らしくウィンクしてみせた。
「ただし――条件があるわ」
彼女の瞳が、一瞬だけ冗談のヴェールを脱ぎ、真剣な光を湛える。
「カイン。その物騒な『コード』――法執行者即刻執行権を脱ぎ捨てて、もっと平和な仕事に転職すること。……硝煙の匂いがしないカインになってくれたら、ガールフレンドでも結婚でも喜んで付き合ってあげる」
マスターコード。
それはUSPA捜査官にのみ与えられた、法執行の名の下に「破壊」を許諾する血塗られたライセンス。データ上の警察バッジであり、その身をエクスキューショナー(処刑人)へと変える、呪わしき権限の証だ。
アンバーの言葉に、ラザロは膝を叩いて爆笑した。
「聞いたかカイン! 『処刑人』の引退勧告だ。お前にはお似合いのハッピーエンドじゃねえか」
「……勘弁してくれ」
カインは深いため息をつき、逃げるように店を出た。
一歩外に出れば、そこは再び2489年の地獄だ。
肺を焼く酸性雨の臭いと、終わりのない暴力の気配が二人を包み込む。
「平和な仕事、か……。俺の回路には、そんなプログラムは組まれていない」
カインの独り言は、雨音に掻き消された。
背後で「待てよ、カイン!」と笑いながら追いかけてくる相棒の足音を聞きながら、彼は無機質な眼球を、実家があるというガンショップの方向へ向けた。
そこには、恋人の温もりよりも確かな、新型の「死」が待っているのだ。
アンバー・マクレーンの、機械であることを微塵も感じさせない柔らかな手の振りを背中で受けながら、二人は再び、硝煙と雨の匂いが待つニューヨークの闇へと踏み出して行った。




