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23話 前へ 2

 ガラスドアを抜けた先、コーヒーショップの前に、いつものネイビーのストライプスーツを身にまとった卓也が立っている。右手をポケットに入れたまま、もう片方の手をわずかにこちらに向けて上げてみせる。


「綾乃」


 低い声でわたしの名前を呼ぶ。その響きに、もう心がざわつかないことに、微かな安堵を覚えて、ふっと小さく息をもらす。


「久しぶり」


「ああ、焼けたな。ハワイどうだった?」


 顔色の変化を確かめるように見てくるその視線に、かつてなら動揺していただろう。だけど、今のわたしは、もう揺らがない。


「楽しかったよ。卓也こそ日焼けしてない?」


「プーケットに行ったんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、わたしは無意識に奥歯を噛み締めた。いつものように、鋭い痛みが胸を刺すのを待ったから。


(あれ……?)


 けれど。 痛みは、来なかった。まるで、他人の天気の話を聞いているみたいに、心がシーンと静まり返っている。拍子抜けするほど軽い。


「よかったね」


 わたしの唇は勝手に動いて、ただその言葉をなんの感情もなく紡いだ。


 卓也の後ろを、秘書として背筋をピンと伸ばして歩く。すぐに大理石の受付カウンターが現れ、鋭い目つきの警備員たちが周囲を警戒している。


 卓也は、まるで自分の自宅に帰ってきたかのように慣れた様子で、受付の女性に近づいた。女性は卓也の顔を見るやいなや、無言で、しかし(うやうや)しく、一枚の用紙を差し出す。その流れるようなやり取りから、彼がこのビルにとってどれほど重要な人物であるかが(うかが)い知れた。


 紙を受け取った卓也は、わたしに視線を投げた。


「綾乃、名前と連絡先書いて」


「ええ」


 記入し終わった用紙と引き換えに、受付の女性から磁気式のセキュリティカードを受け取った、まさにその時だった。


 受付カウンターに並ぶ、もう一人の若い女性が、わたしに、いや、正確にはわたしの隣に立つ卓也に、強い、ねっとりとした眼差しを向けていることに気付いた。なぜだか、その子はわたしの方に視線を移すと、こちらをじっと見つめたまま、ゆっくりと唇の端を引き上げ、艶のある声で「田辺さん」と声をかけた。


「プーケットに連れて行ってくださってありがとうございました。本当に素敵な思い出になりました。また、ぜひ連れて行ってくださいね」


 その視線の先は、わたしのまま。でも、もちろん、わたしに話しかけているはずもなく。


「ああ、またね」


 卓也は、その女性に一瞥すら与えず、その短い言葉には、特別な感情も配慮もない。その冷たい対応に彼女は一瞬顔を曇らせたが、すぐに元の表情に戻った。

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