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14話 陽だまりの音 2

 鍵盤を触っていた彼が、軽く腰を浮かせ、椅子の座面、左側をわたしのために空けるようにして跨ぐような体勢で座り直した。空いた部分を手のひらで「ポンポン」と軽く叩くと、悪戯っぽい笑みを浮かべながらわたしを見る。彼の視線に、心臓が跳ねる。


「ピアノ、弾いてみる?」


 その提案は、あまりに突拍子もない。この空間に相応しい、重厚で美しいグランドピアノ。わたしのような素人が、おいそれと触れていい楽器ではない気がする。


「え……本当にできないですよ。わたし、楽譜も読めませんし。ネコふんじゃった的なものしか」


 恐縮しきって答えるわたしを見て、彼は「ふふ」と静かに笑った。そのまま拳を口元にあてて笑う彼の仕草は、いつの間にか、わたしにとって一番好きな仕草になっている。その柔らかな笑い声と仕草に、不思議なほどの安心感を覚える。彼のそばにいると、張り詰めていた心がゆっくりと解けていくみたい。


「おいで」


 急かすわけでもなく、ただ優しく促すような彼のゆったりとした低い声。そして、空いたスペースを指し示すように差し出された、彼の小麦色の大きな手。その声と手に促されて、わたしは恐る恐るその空いた部分に座った。


 途端に、体温を感じるほどの距離に近づいた彼の存在。椅子の座面を共有していることで、彼の息遣いや微かな動きすらもすぐそばで伝わってくる。背後には、彼の胸板が触れそうなほど近くにある。一気に近くなった距離に、顔が熱くなる。


「あの……わたしでも、できるものですか?」


 自信のなさと緊張で上擦った声で尋ねると、彼は少しだけ体を傾けて、わたしの耳元でそっと囁く。「できるよ」と。


「大丈夫。左手だけやってみようか。ほとんど決まった動きしかしないから、簡単だよ」


 その温かい吐息と声が鼓膜に響いて、全身が粟立つ。


 鍵盤の上で彼の指がゆっくりと動き出す。目の前で指が動いて、音を奏でる光景に不思議と目が奪われるように集中する。彼はサビの部分を弾き終わると、わたしの顔を覗き込んだ。


「どうですか?」


 悪戯っぽく笑う彼に思わず微笑む。


「できるかなぁ」


「手、貸して」


 そう言った彼の右手がわたしの左手を持ち上げて鍵盤の上に導くと、指の形を整える。全く日に焼けていないわたしの手と対比されるかのような彼の手は、爪が大きくて小麦色で、分厚い男の人のもの。


 彼の温もりを感じる指先が熱を持ち、その熱が手首を超えて、肘、肩を過ぎて心臓に届くと一度大きく鼓動を鳴らした。胸の奥が苦しいのに、でもそれが心地いい。


 そして、彼の左手は一オクターブ高い位置で一緒に弾き始める。それを真似るようにしてたどたどしく、わたしの指も動き出す。何度も何度も繰り返される同じ旋律。そのうち、彼の右手が加わりメロディーを奏でだす。


「わわ……」


 彼の左手が鍵盤から離れてしまってもわたしの指はなんとか動き続けて、彼の右手と一緒に拙いメロディーを奏でている。弾きながら彼を見上げれば、微笑んでくれる。

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