13話 思い出が溢れ出すとき 1
歌が終わったのに、まだ胸の高鳴りがおさまらない。龍介さんの歌声はひどく耳に残る。
キッチンに向かい、お酒と氷を取り出して、背の低いグラスに注ぐ。それを少しずつゆっくりと口に含めば、喉の奥が熱くなっていく。グラスの中の琥珀色がキャンドルの灯りに照らされて、小さく揺らめいた。
その先のリビングでは龍介さんが再びピアノに向かっている。再び彼の指がゆっくりと動き出すと、聞き覚えのあるメロディーが耳に届いた。昔、何度も何度も繰り返し聞いていた曲。大好きだったロックバンド、ブラックアンドのバラード。
その美しいイントロに懐かしさを覚え、心を奪われていると、龍介さんの歌声が再び響いた。その声はやはり優しくて温かくて、切ない。忘れようとしていた思いが溢れだすように、わたしの心を揺さぶる。彼の歌声が記憶を呼び覚ます。
この曲を初めて聞いたのは、中学生の頃だった。ブラックアンドが好きならこれは絶対だってお兄ちゃんが教えてくれた曲。お兄ちゃんはいつも色んなことを教えてくれて、いつだって優しくて、いつだってわたしのことを大切にしてくれた。
誰かにいじめられたときも、何かに困ったときも、必ずお兄ちゃんが助けてくれた。お母さんに怒られた時だって、友達とケンカした時だって、初めて失恋した時だってそう。なにかある度に検見川の浜に行くわたしを、いつも迎えにきてくれたのはお兄ちゃんで。
「綾乃、兄ちゃんと一緒に帰ろう」
いつもそう言って、手を差し伸べてくれた。あの日だってそう。お母さんが突然倒れてそのまま息を引き取った日だって、陽が落ちても戻らないわたしを迎えに来てのは、お兄ちゃんだった。
「やっぱり、ここにいた。ほら、兄ちゃんと一緒に帰ろう」って。
それなのに——高校に入って半年後、わたしの大切なお兄ちゃんは突然、姿を消した。「行ってきます」と言葉を残して。たった一枚の手紙を残して。そして、大切なお兄ちゃんの異変に気付くことなく、その背中を笑顔で見送ったのは、わたし。
手紙に書いてあったのは、借金をしたこと、探さないでほしいこと、そして最後にわたしへの謝罪の言葉。「約束を守れなくてごめん」という言葉が何を指しているのかさえ、思い出すこともできない。それよりもお兄ちゃんがいない現実の方がずっと大きくて、苦しくて、重たい。
お兄ちゃんがいないことを信じられなくて、信じたくなくて、毎日のように検見川の浜に通った。きっといつか、お兄ちゃんが迎えに来てくれると思っていたから。「やっぱりここにいた」って。「綾乃、兄ちゃんと一緒に帰ろう」って。
来てくれない日なんてなかったから。
そう。なかったはずなのに、何ヶ月経っても、何年経っても、お兄ちゃんがわたしを迎えに来てくれることはなかった。小さな期待は少しずつ、本当に少しずつ削れて形が朧げになって、最後には消えるどころか、わたしの胸を抉っていった。
お父さんもお母さんも、そしてお兄ちゃんもわたしの元から去っていく。大切な人がいる毎日は、常に傍にあるものではない。優しい温もりはいつか消えてしまう。ただの日常になるはずだった、家を出て行くあの背中が、「行ってきます」と言ったお兄ちゃんの顔が忘れられない。




