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なんとか残った外様の小大名の話(歴史雑談)  作者: 伊丹 美鈴


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第6話は日向国 飫肥藩 伊東家です

 第6話は日向国の戦国大名の伊東家の話です。伊豆国の伊東におられた一族が日向国に下向して戦国大名になったものの、島津氏の侵攻を受けて一旦領地を失ったが、復活したお話です。

 伊東氏は遡りますと、平安時代に駿河・伊豆の国司となった藤原氏の一族が伊豆国田方郡伊東荘に住したことにより伊東氏を名乗ったことによります。鎌倉時代の初期に曽我兄弟の敵討ちにより討ち取られた工藤祐経の子祐時が伊東氏を名乗ります。その子孫にあたる伊東祐持が、南北朝時代になって日向国に下向して都於郡城(現在の宮崎県西都市)を築いたとされています。

 伊東氏は都於郡城を拠点に勢力を拡大し、「伊東四十八城」と呼ばれる支城網を築き上げ日向国一国の支配に向かいます。しかし、元々薩摩・大隅・日向の3か国の守護であった島津氏との抗争が続きます。

 話を一気に戦国時代に飛ばします。元亀3年(1572年)木崎原の戦いで伊東義祐は島津軍に大敗します。さらに、天正5年(1577年)島津軍の侵攻により都於郡城は落城し、領地も失います。伊東義祐は大友宗麟を頼って豊後に逃げます。

 天正6年(1578年)大友氏と伊東氏の連合軍は、耳川の戦いで島津軍に大敗します。大友家は多くの家臣を失い、衰退に向かいます。

 伊東義祐・祐兵父子は、自分たちが合戦の発端であったため、豊後国におりづらくなり、伊予国の河野家の一族である大内栄運を頼ります。さらに、天正10年(1582年)、羽柴秀吉に仕えていた伊東掃部助祐時なる人物の仲介で、祐兵主従20余名が姫路城におられた時の羽柴秀吉に仕官します。仕官後は、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いにも従軍しているようです。

 伊東祐兵は天正14年(1586年)の九州平定戦に従軍し、先導役に抜擢されます。天正15年(1587年)には豊臣秀長軍に加わり、日向路方面に参加しています。この時に旧臣を集め、根白坂の戦いにも参加し、島津軍と戦っています。戦後の論功行賞では、日向国に領地を与えられています。1587年には曽井城に入城、1588年には飫肥城に入城しています。

 関ヶ原の戦いの時は、伊東祐兵は大坂屋敷で病に伏せっておりました。東軍の会津攻めにも参加できずにいたところ、西軍の武将がやってきました。抗しきれず、家臣を西軍の大津城攻めに参加させます。その一方で家老の稲津重政と嫡男祐慶を領国に返し、西軍と思っていた高橋元種の持城の宮崎城を攻めさせます。しかし、高橋元種は大垣城の守備を担当している際に東軍に寝返っていました。その後、東軍としての行動と認められて所領安堵となりますが、宮崎城は返還させられます。この年、祐兵は亡くなり、祐慶が家督を継ぎます。江戸幕府が成立すると、飫肥藩となります。

 

 伊東家は領地を失って、浪人生活をします。しかし、秀吉さんのところに先祖が同じ伊東さんがいたことで、仕官できます。不思議な御縁があるもんです。第6話はこれで終わりです。では、また第7話でお会いしましょう。

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