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なんとか残った外様の小大名の話(歴史雑談)  作者: 伊丹 美鈴


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第5話は但馬国 出石藩 仙石家です

 第5話は但馬国の出石藩で仙石家です。仙石家の藩祖である仙石秀久さんの波乱万丈の人生と江戸時代になってからの2回の国替えによって但馬国出石藩に移封される話です。出石は現在の兵庫県豊岡市出石町です。出石城と出石そばが有名な観光地です。

 仙石秀久は、美濃の土豪である仙石久盛の四男として生まれます。家を継ぐ予定がなかったため、越前の萩原家に養子に出されますが、家の事情で呼び戻され、仙石氏に復します。仙石家は美濃の守護土岐氏や戦国大名の斎藤氏に仕えておりましたが、永禄10年(1567年)に斎藤龍興が稲葉山城の戦いで敗れて、美濃国を追放されますと、織田信長に従うようになります。仙石秀久は、この時織田信長の家臣である木下秀吉(後の豊臣秀吉)さんの配下になります。

 秀吉の下で、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正9年(1581年)淡路遠征等で武功をあげています。天正10年(1582年)は本能寺の変、中国大返し、山崎の戦いと続く年ですが、秀久は淡路方面の平定の役割を担当しています。

 天正11年(1583年)長宗我部元親との戦いのため、四国に上陸し、讃岐国引田城に入ります。長宗我部軍の香川信景との戦いでは一時優勢となりますが、長宗我部軍の援軍が来ると引田城に撤退します。大軍に攻められ、引田城は落城し、敗走します(引田の戦い)。その後は、淡路島と小豆島の守りを固めます。秀久は淡路国5万石を与えられ、洲本城に入城します。

 天正13年(1585年)、秀吉による四国平定戦が本格的に行われると、これに従軍します。その功により讃岐10万石を与えられます。

 しかし、翌天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐が始まると四国勢の軍監として九州に向かいます。十河存保・長宗我部元親・信親父子らとの連合軍です。前年に戦っていた相手との連合はまさに呉越同舟ですね。大友氏救援のため、豊後に着陣します。戸次川の戦いでは、島津家久軍と戦闘となり、島津家得意の釣り野伏戦法により包囲され、長宗我部信親、十河存保が討死します。仙石秀久は敗走する軍を取りまとめることができずに逃走します。このため、讃岐国の領地を召し上げ(改易)られます。

 天正18年(1590年)秀吉による小田原征伐が始まると、仙石秀久は旧臣を集め、徳川家康に陣借りして参戦します。伊豆山中城攻めや小田原城早川口攻めで武功をあげます。このため、信濃国小諸に5万石を与えられ、大名として復帰します。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に従軍します。小諸城を真田氏の上田城攻めの本陣として使用させています。東軍に味方したので、所領安堵となっています。幕府が成立すると、小諸藩初代藩主となります。

 その後の仙石家ですが、2代目忠政の時に信濃国上田藩に、4代目政房の時に但馬国出石藩に国替えとなっています。この時にそば職人も連れていった話が残っています。出石の気候風土に合ったようです。出石そばのルーツは信州にあったんですね。

 あくまで筆者個人の見解ですが、仙石秀久さんが長宗我部軍や島津軍と戦って負けたのは秀吉さんの無茶ぶりが敗因ですね、兵力や大将の力量からいって相手が強すぎます。それでも、生き残って大名に復活するのがすごいなと思ったので、今回とりあげてみました。第5話はこれで終わりです。ではまた第6話でお会いしましょう。

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