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なんとか残った外様の小大名の話(歴史雑談)  作者: 伊丹 美鈴


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第3話は 豊後国岡藩 中川家 です

 第3話は豊後国岡藩中川家の話をしたいと思います。岡藩は現在の大分県竹田市に存在しました。中川家が江戸時代の260年間おられたわけです。どういった経緯で、中川家がここに来たのかということです。

 登場人物は、中川清秀さん、中川秀政さん、中川秀成さんの3人です。

 中川清秀は、天文11年(1542年)に摂津国で生まれました。現在の大阪府茨木市です。最初は摂津国の国人領主池田勝正に仕えました。元亀元年(1569年)の本圀寺の変では、摂津衆の一員として三好三人衆と戦っています。

 池田家で内紛が起こります。家老を務めていた荒木村重が三好三人衆の調略により池田勝正を追放し、池田知正が当主となります。(荒木村重が実権を握ります。)元亀2年(1571年)には荒木村重と共に足利・織田方と戦い(白井河原の戦い)、和田惟政を討ちます。この後茨木城主となります。

 天正2年(1574年)荒木村重が伊丹氏の伊丹城を落城させ、有岡城と改めます。また、臣従先を三好三人衆から織田信長に替えます。信長からは摂津一国を任されるようになります。中川清秀もこれに従っています。荒木村重はしばらくは、織田信長の配下の武将として各地に出陣していました。

 しかし、天正6年(1578年)荒木村重が織田信長に反旗を翻します(有岡城の戦い)。中川清秀は、織田軍に茨木城を包囲されると降伏します。その後、荒木村重は毛利の援軍を頼みに有岡城を脱出しますが(諸説あります)荒木村重が城に戻る前に有岡城は落城します。

 天正10年(1582年)に本能寺の変が起きると、中川清秀は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に味方します。山崎の戦いでは、先鋒を務めています。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでは、大岩砦を守備していたところ、柴田勝家方の佐久間盛政の襲撃にあい戦死しています。

 中川秀政は、永禄11年(1568年)に生まれます。

 父清秀の戦死で茨木5万石の家督を継ぎます。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)の四国征伐に従軍。父の功績も加味されて、播磨国三木13万石に加増移封されます。さらに天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)小田原征伐にも従軍します。しかし、天正20年(1592年)の文禄の役で鷹狩をしているところを敵に包囲され戦死します。不用心による戦死は本来改易のところ、父清秀の賤ヶ岳の戦いの武功に免じて所領半減で弟の秀成に相続が許されます。

 中川秀成は、元亀元年(1570年)に生まれます。

 兄の死により、遺領の半分の相続を許されます。文禄3年(1594年)豊後岡に7万4千石の所領で移封します。秀成は、岡城の大規模な修築を手掛けたほか、城下町の拡張を行っています。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍の臼杵城(城主太田一吉)を攻撃します。佐賀関の戦いでは、大きな被害を出しましたが、その功績により徳川家康から所領を安堵されます。幕府成立後に岡藩初代藩主となります。

 第3話はこれで終わりです。

 今回の話を調べていく中で、実は茨木市と竹田市は平成25年に歴史文化姉妹都市を提携しています。中川家による縁ですね。

 では、また第4話でお会いしましょう。


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